思考実験短編「不幸になる権利」
「我々には、不幸になる権利がある!」
駅前のロータリーでメガネをかけた細身の男が声を張り上げる。後ろにいる10名余りの男たちが「おぉー」と呼応した。
仰々しいプラカードを持つ者、弾幕を掲げている者、通行人にビラを配っている者、全員の額には『不幸同好会』と書かれたハチマキが巻かれていた。
時刻は酉の刻。太陽は沈みかけ、赤と黒が混じり合った奇妙な光が彼らを染めている。家路へと向かう人々が「一体なにごとか」と冷たい視線を向けていた。
かのような人々の間を抜け、私はこの謎の集団へと近づいていく。そして先頭に立つメガネの男に向けてこう言った。
「なにしてんの!?」
「おお、アカリじゃないか」
なにを隠そう、この恥ずかしい組織を牽引している男こそ、私の実の兄なのだ。
今年で29。私とは10も離れている。
「さ、お前もほら。」
兄は同志だとばかりに私にビラの束を押し付ける。安い用紙を使っているのだろう。差し出したその束は重力に従ってこうべを垂れた。
-幸福剤を許すな
ビラの表には真っ赤な文字でそう書かれていた。そのすぐ下には『さぁ、あなたも不幸同好会へ』と。
「良い出来だろ。お前の大学で配っても良いぞ」
足りなくなったらすぐ補充する、と兄は付け加え、そしてこの地域一帯に響き渡るような大声を出した。
「我々は不幸同好会!幸せになることを断固として拒否する団体である!」
「ほんとありえない!」
玄関で靴を脱ぐ兄に向け、私は怒鳴っていた。兄に言いたいことは山ほどある。先刻は周囲の目に耐えきれず、早々にその場を離れたのだが、家に帰ればこっちのものだ。
「おいおい近所迷惑だろ」
兄は眉をひそめる。
「お兄ちゃんに言われたかないよ!」
公共の場所であんな醜態を晒しておいて、近所迷惑もなにもない。
「なんかずっと怒ってるのよー」
リビングから顔を覗かせて母が言う。
「お、母よ」
兄が鼻をヒクヒクさせ、「今日はチャーハンだな」と上機嫌にリビングへ向かった。
「なんであんなこと始めたわけ?」
兄を追いかけながら私は話を続けた。
「あんなこと?」
兄は冷蔵庫からコーラを取り出し、自分専用のマグカップに注いだ。
「だから、ビラ配ったりとか演説したりとか」
前はこんなことしなかったじゃん、と私は言う。
少なくとも半年前、つまり私が大学進学と共に一人暮らしを始めるまでは、ここまで大掛かりなことなどやってなかった。
「あぁ、なるほどな」
兄が納得の声を上げた。
「母よ。我が妹が何に腹を立てているのか分かったぞ」
「あら良かった」
母は呑気に答え、「じゃ母さんはお風呂入りまーす」とリビングから出ていった。全くこの兄にしてこの母ありというか。どうにも能天気でしょうがない。
「お前が言いたいのはこういうことだろ」
チャーハンを電子レンジに入れ、兄は言う。
「これまでの不幸同好会は、それぞれの不幸話を共有し、互いに慰め合うという非常にアングラめいたものであった。しかし我々が今回おこなっているのは極めて公的な活動。不幸同好会よ、お前たちはかつての理念を忘れてしまったのか!…アカリはそう問いたいのだな?」
「違う。全然違う」
しかし兄は既に自分の世界にどっぷりと入り込み、「わかるわぁ」「だよなぁ」と頷いていた。
「だがなアカリ」
キッと兄が凛々しい顔になった。
「我々は戦わねばならぬのだ!世にも恐ろしいあの幸福剤と!世界を混沌へと導く悪魔の薬と!」
決まった、とばかりに兄は明後日の方角を見ている。そのあと「決まった」と実際に言った。全くなにが悪魔の薬だ。私は深々とため息をつく。
「お兄ちゃんが言ってる幸福剤ってアレでしょ?気分明朗剤」
「な!」と兄は驚愕する。
「知っているのか?」
「知っているって言うか…」
どう説明したものか。私が言葉を選んでいると、母が上半身だけをリビングに見せ、「タクヤくんがインターンしているんだもんね」と言い残した。
そして「今度こそお風呂いってきまーす」と消えていく。
余計なことを…。私はギュッと拳を握りしめ、立ち去った母に恨みのこもった目線を送る。
「タクヤくんって誰だ」
「…別に」
「別にじゃないだろ」
兄はそう言うと「誰だよ!」「誰だ!」「おい!」「言えよ!」「こら、妹!」と質問攻めしてくる。こうなった時の兄はいつにも増して面倒くさい。
「別に誰でもないって」
私がそう答えた瞬間、浴室の方から「彼氏だよねー」と再び母の声が聞こえた。
「…そうだよ」
仕方なく私は、大学の先輩であるタクヤくんと付き合っていること、そしてタクヤくんが『幸福剤』を作っている会社でインターンしていることを伝えた。
「だから幸福剤のことはなんとなく知ってるの。別にそこまで危険なものじゃないんでしょ」
元々はうつ病患者に投与されていた薬で、ストレス軽減を目的に製造されたそうだ。売上も上々で、もうすぐ新作が発売されると言われている。ただそれなりの値段がするため私はまだ飲んだことはない。
「ほら、チョコレートとかと一緒って言うし」
幸福感をもたらす脳内物質エンドルフィン。チョコレートを食べることでそのエンドルフィンが分泌されるようになるのだが、新作の幸福剤はチョコレートの何十倍もの効果でエンドルフィンを分泌させるらしい。
「それもタクヤくんが言っていたのか?」
「いやこれは前にテレビで」
「テレビぃ!?」
兄は甲高い声をあげる。そして憐れんだように私を見ると「うわ」だの「やべえ、こいつ」だの「情弱じゃん」だのボソボソと言い始めた。
「…なに?」
若干の苛立ちを覚えながら私は兄に尋ねる。「言いたいことでもあるの?」と。
「妹よ、お前はなにも分かっていない」
兄は残りのコーラを飲み干し、小さくゲップをし、そして「良いか?」と立ち上がった。
ちょうどそのタイミングで電子レンジが鳴ったのだが、兄は一切の目もくれない。
「幸福剤というのは、我々の大事な権利を脅かしているのだ」
「権利?」
「そうだ」
「どんな権利?」
「不幸になる権利だ」
不幸になる権利…。私は兄の言葉を繰り返す。
「どういうこと?」
幸せになる権利ならわかる。しかし『不幸』に権利があるというのはピンとこない。権利というのは、その前提としてまず手に入れたい物とか状態があって、それを得るために主張するものはずだ。望んで不幸になりたい人間などこの世にはいるはずがない。
「そんな権利いらないでしょ」
「いーや、いる」
兄は力強く言い切った。
「あらゆる状態には、その状態であり続けることへの権利がある!例えそれが世間一般には悪いとされているモノであったとしてもだ」
さっぱり意味不明だ。
「幸福剤を買っている人間はな、そういう理屈をわかってない一部のバカだけなんだよ」
「でもすごい売れてるんでしょ」
「それは…」
兄がムッとした表情になる
「思ってたより一部のバカが多かったんだ!」
吐き捨てるように兄は言う。
「そもそもだぞ。全員が幸福になってしまったら不幸同好会はどうするのだ。不幸同好会は互いの傷を舐め合うことで繋がり続けてきた。みんなが幸せになれば、我々は解散するしかなくなる!」
そんな後ろ向きなコミュニティならむしろ無くなった方が良いのではないだろうか。
「とにかく幸福剤なんてロクなものじゃない」
議論は終わったとばかりに兄は電子レンジのフタを開け、チャーハンを取り出す。そして最後にこう言った。
「タクヤくんだってしょうもない男に決まってる」
「…は?」
「どうせ浮ついた大学生だろ。なにがインターンだ。横文字を使うな、バカタレが」
その言葉に私はカチンとくる。いったいなんなのだ、この男は。偉そうに能書きばかりを垂れ、挙句の果てには会ったことすらない妹の恋人をけなすなんて。
「お兄ちゃんにタクヤくんの何がわかるの?」
タクヤくんも私と同じ上京組だ。でも私と違って親から仕送りをもらっていない。自分の生活費は全てバイトで稼いでいる。その上で大学の授業に出て、将来のためにとインターンをはじめ、自分の人生に正面からまっすぐ向き合っているのだ。
「お兄ちゃん、もうすぐ30だよね?働きもしないで、いまだにお母さんからお小遣いもらって、不幸同好会とか訳のわからないことして、え?恥ずかしくないわけ?」
「な、なんだよ急に」
兄の顔に戸惑いが浮かぶ。
「お兄ちゃんと一緒にいた人たちもそうだよ。社会で相手にされなさそうな人ばっかじゃん!そういう人たち集めて、偉そうに演説して、すっごい滑稽だからね!」
「あいつらのことを悪く言うな!」
「お兄ちゃんが先にタクヤくんの悪口言ったんでしょ!」
う、と言葉に詰まる兄。目がキョロキョロと泳いだ。
これが兄だ。偉そうなくせに打たれ弱い。無神経な割に傷つきやすい。
「明日、タクヤくんがウチに来て一緒に晩御飯を食べることになってたの」
「え?」
「でも中止にします。お兄ちゃんなんかに絶対タクヤくんを会わせません!」
私はそう言い放ち、自分の部屋がある二階へと駆け上がった。言ってやったという興奮と言いすぎたかもという後悔が私の頭でぐちゃぐちゃと入り混じる。
…兄は、私の言葉に傷ついたのだろうか?
そっと下の階に耳を澄ましてみる。
「母よ!このチャーハンにはグリンピースが入ってるぞ!」
入浴中の母に向け、文句を言う兄の声が聞こえた。
昼下がりの駅前。リクルートスーツに身を包んだ長身の男性が改札を通ってくる。
「あ!」
私が手を振るとタクヤくんは手を振り返し、小走りで私の元へやってきた。
「お待たせ」
「ありがとね、わざわざ」
遠かったでしょ?と私が言うと、タクヤくんは「全然」と笑った。
「ここがアカリの地元かぁ」
もの珍しそうにタクヤくんは駅の構内を見渡す。
「こっちはあんま使わないんだけどね」
今、私がいるのはウチの地元ではそれなりに大きい駅だ。急行が停車するし、JRも私鉄も通っている。しかし実家からは少し遠い。わざわざこの駅にした理由は一つ。兄の活動をタクヤくんに見せないためだ。
「…お母さんは?」
「あと1時間くらいで来るって」
今日の計画はこうだ。このあと母と合流し、3人で外食をする。実家には泊まらずそのまま私とタクヤくんは東京へと戻る。兄に紹介するつもりはない。少なくとも、今回は。
「そうだ、アカリ」
タクヤくんがビジネスバッグの中から小瓶を取り出した。中には白い錠剤が入っている。
「新作のサンプル」
タクヤくんは言い、そしてそれを私に持たせる。
「アカリにあげる」
「え、良いの…?」
驚く私にタクヤくんは頷き、「アカリがずっと幸せでいられるようにって願掛けしておいた」とはにかんだ。
うぉい!と心の中の私が顔を真っ赤にして手足をジタバタさせた。なんて幸せなんだろう!幸福だ!幸福剤なんていらないくらい幸せの絶頂だ!この気持ちを否定するなんて、やっぱり兄の思想は理解できない。
「そうだ…!」
私は十分に幸せだ。だったらこの薬は兄に飲ませよう。そしたらあの偏屈な性格だって治るかもしれない!
私がそう考えたまさにその時。
「この駅を利用している同志たちに告ぐ!」
どこかで聞いたような声が聞こえた。嫌な、非常に嫌な予感が頭をよぎる。
「我々は不幸同好会である!」
遠目からでもすぐに確認できた。兄だ。私の実兄だ。
「我あは幸せになることを断固として拒否する団体である!」
私の中の全細胞が告げていた。逃げろ。今すぐここから逃げろ。タクヤくんに兄のことをバレてはならない。
「すごい人がいるねぇ」
タクヤくんは兄たちの方に目を向けて呟いた。間違いなくドン引きしている。
「ねー。なんだろー」
私はぎこちない笑顔を作りながら逃走ルートを計算する。兄たちがいるのは北口側。母と落ち合う店も北口。多少遠回りにはなるが、反対の南口から出れば兄と接触することなく店にたどり着くことはできる。
「タクヤくん。とりあえず向こうに」
私がタクヤくんの手を取ったその時。
「アカリ!」
背後から声が聞こえた。全身の鳥肌が立つ。
「おいおい、この駅を使うとは珍しいじゃないかー!」
兄の声がだんだんと私に近づいてくるのを背中で感じる。
「昨日はスマンかったな。お前の彼氏を頭ごなしに否定したのは確かに良くないことだった」
体が硬直して動かない。どうしようどうしょう。
「あ!」
兄がタクヤくんを認識したらしい。
「お前、タクヤくんだろ!」
視界の隅にタクヤくんの顔が映る。眉をひそめていた。不快そうな表情だ。私はゆっくりと首を動かし、兄を正面から見る。兄はいつものように、いや、いつにも増して上機嫌だ。
「初めましてタクヤくん!」
兄はタクヤくんの手を掴み、むりやり握手を始めた。タクヤくんが「この人は?」という顔で私を見る。
「えっとえっと」
私は慌てて言葉を探す。
「なんていうんだろ」
私はハハハと笑う。
「知り合いっていうか、ほとんど関係ない人っていうか」
「アカリの兄だ!」
「え?」
タクヤくんが目をパチクリさせる。
「お兄…さん?」
「いや…確かに一応は私の兄なんだけど、兄はちょっと変わってて」
「どうした、アカリ?」
兄はなだめるような口調でそう言うと、タクヤくんに向き直った。
「タクヤくん。確かに我々、不幸同好会はこういった活動をしている。そして俺は、幸福剤というのは一部のバカが騒いでいるだけのクソみたいな品で、世に害をなす悪魔の薬だと思っている。だが、安心しろ!」
兄はタクヤくんの肩に腕を回すとこう言った。
「それで君を嫌ったりはしない。ま、君の会社は爆破してやりたいぐらいだがな!」
ハッハッハと兄は笑い、回した腕でタクヤくんの肩をポンポンと叩く。
タクヤくんと目が合う。その目には失望と軽蔑が滲んでいた。
私は確信する。きっと自分は今、不幸同好会の誰よりも不幸な状況にいるのだと。
「ごめん…」
ぽつりとタクヤくんが呟く。ポケットからSuicaを取り出し、もう一度「ごめん」と言う。
「俺…いま内定もらえるかギリギリの時期でさ」
一歩。タクヤくんが私から離れた。
「だから…こういう思想の人たちとはできるだけ関わらないようにしてて」
さらにもう一歩。タクヤくんが私から遠くなる。
待って。そう言おうと私は口を開く。でも肝心の声が出てこない。
「ごめん。ほんとうにごめん」
タクヤくんは踵を返すと、逃げるように改札を通って消えていった。
その後ろ姿を、私は何もできず、ただ見送った。
「タクヤくん、どうしたんだ?」
お気楽な口調で兄は言った。
「……なにやってるの?」
ようやく私の喉から出てきた声は、自分でも驚くほどカスれていた。
「なんでタクヤくんにあんなこと言ったの?」
「だからさっきも言ったじゃないか。俺なりに昨日のことを反省して」
「反省!?」
私の声が駅に轟く。
「あれが反省?幸福剤を悪魔の薬だとか、タクヤくんの会社を爆破してやりたいだとか。なにをどう反省したらそうなるの!?」
「な、なにを怒ってるのだ」
「怒るでしょ!初めての彼氏だよ!?大好きな人にあんな顔されたんだよ!?自分がなにしたか本当に分かってる!?」
私は呼吸を整えようとする。しかし感情の収め方がわからない。ここまで誰かに怒ったことは初めてだ。足が震える。悔しさと悲しさと怒りがない混ぜになる
あぁ…私は不幸だ。
「アカリ?」
気づけば私は小瓶を開けていた。錠剤を取り出して手のひらに載せる。
「それ、お前…」
兄は何かを察したようで、
「いかん!」
と私の手を掴んだ。
「離して!」
私は兄の手を振り払おうとする。しかし兄は私の腕を離さない。
「お前を怒らせたのは謝る。それは謝る!謝らせてくれ!」
「今さら遅いよ!」
「遅くはない!落ち着くんだ!」
兄と目が合う。その顔は、私が今まで見たことがないほど真剣だった。しかし私は止まらない。自分で自分を止めることができない。
錠剤を握った手のひらにむりやり顔を近づけ、薬を口のなかに放り込む。
「アカリ!」
兄は私の口の中に手を伸ばす。吐かせるつもりらしい。それを防ぐように私はその場に座り込み、両手で口を押さえた。そして錠剤を思いっきり飲み込む。このドロドロした気持ちを、この不幸な気持ちを、一刻も早く消して欲しいと願いながら。
「ダメだ!吐け、吐け!」
腹の奥底で錠剤が溶けていくのを感じる。やがて体の中心部がじんわりと温かくなっていった。それは徐々に全身に広がり、脊髄を通って脳にまでたどり着く。
兄が何かを言っている。しかしその声はとても遠くに聞こえた。
次の瞬間、今まで頭の中を占めていた黒い気持ちが綺麗さっぱりとなくなった。
霧が晴れたかのように思考がすっきりとクリアになる。
「アカリ…」
兄が不安そうに私の顔を覗き込む。
「お兄ちゃん」
スッと私は立ち上がった。体が軽い。自然と口角があがっていく。
「私、間違っていた。確かにタクヤくんのことは残念だった。でもクヨクヨしてもしょうがないよね?」
「…アカリ?」
「男の人なんて星の数いるんだし、私は今こうやって生きている、それだけで十分幸せなんだよ!」
「あぁ。アカリ…」
兄の顔がくしゃくしゃに歪み、その目から涙が溢れていた。私は首をひねる。兄が、なぜ泣いているのか分からない。
どうしたの?そんなに悲しまないで。
私の兄が、大好きなお兄ちゃんが何かを憂いている。私にできることはないだろうか?
可能なら、この幸せな気持ちを分けてあげたい。
「お兄ちゃん」
私は兄の肩に手を置いた。
「笑ってよ!私たちの人生には無限の可能性があるんだよ。不幸になっている時間なんてもったいないよ。もっと今を楽しまなくちゃ!」
兄は何も言わない。うなだれたまま、ただ首を横に振っているだけだ。
足音に兄が配っていたビラが落ちていた。表面には、大きな文字でこう書かれている。
『我々には不幸になる権利がある』
どういう意味なのか私には分からない。
でもそれで構わなかった。
私は今、こんなにも幸せなのだから。