銀色の驢馬
前作『金色の熊』をベースにしていますので、そちらから読んでいただけると幸いです。
王都にほど近い森には、珍しい動植物が生息していることもあって、人々は入ることを遠慮していた。
収集家に依頼された猟師などが入り込みそうではあったが、たとえ勘違いでも捕獲が禁止されているものを獲ったら罰せられることになる。
週に二度ほど、抜き打ちで騎士団の見回りもある。
入らずの森、触れずの森、というのが近隣に住む者の暗黙の了解だった。
また、ここは王太子の安息の場でもあった。
現王太子殿下は王城滞在時間と執務時間を最小限に抑え、この森にいることが多かった。
王子は他にもいたが、王妃の子であり、第一王子である王太子を退けるほどの理由はない。
目の届く王都近くで、野外の解放感を味わわせておけば、王太子は必要最低限の仕事はきちんとしてくれる。
宰相はじめ末端の文官たちまでも、その現状で十分だと考えていた。
何もかもが平穏で、心躍らせることなど起こらない。
王族としては歓迎すべき世の中の平穏、そして自分の凡庸さにすっかり飽きた王太子は入らずの森を一人歩いていた。
入らずの森には精霊がいる。
そう言い伝えられてきた。
精霊を見た、という話は誰も聞いたことがない。
だが、不思議とこの森で危険な動物に出会ったという話もない。
普通の熊と同じように用心すべきだと言われる黄金熊も、刺激しなければ大人しいものだ。
森の決まりを守ることで、共存がうまくいっているのかもしれない。
王太子は王城の庭よりも、入らずの森のことを隅々まで理解していた。
その日『一人にしてくれ』と言われた護衛は、森の中に入る彼を黙って見送った。
数時間後には騎士団の見回りもある。
いつものことだ、大丈夫、護衛はそう思った。
…結論から言えば、翌々日の朝まで、王太子は行方知れずになった。
一晩ぐらいなら、野営の心得がある王太子のこと、周囲は騒ぎ立てない。
しかし、二晩となれば、流石に放置してはおけなかった。
夜明け前から組織された捜索隊が、城門を出ようとした時だった。
先頭に立つ騎士が、こちらに向けて走って来る馬に気付いた。
一旦立ち止まり、様子を窺う。
みるみる近づいた白馬には王太子殿下が乗っていた。
「…これは、もしや、私の捜索隊か?」
「さようでございます」
「…たいへん迷惑をかけた。申し訳ない。私はこの通り無事だ」
真っ先に謝罪をし、頭を下げる殿下。
日頃から気さくな態度で垣根を作らない彼は、騎士団員たちに好かれていた。
恨みごとを言う者などなく、皆一様に胸をなでおろし、殿下の無事を喜んだのであった。
とはいえ、二晩の間、行方をくらませていたのだ。
その間の執務が滞っており、まずは執務室へと側近たちに連行された。
それに加え、母である王妃殿下が主催する令嬢コンテストの開催が、翌日に迫っていた。
自身の婚約者を選定するにあたり、大切な催しである。
忘れず顔を出すように、と王妃より予め念を押されていたのであった。
それまでに何とか、執務を終わらせなければならない。
王太子は自責の念にかられながら、憂鬱な書類との戦いに臨んだ。
書類の山と格闘を続けながらも、王太子の心は別の場所にあった。
黄金熊を回避するため木に登って過ごした一昼夜の後、空腹やら何やらで、木から降りたはいいが動けなくなったのだ。
目が覚めた時は焚火の側で、若い娘が心配そうに覗き込んでいた。
彼女が作ってくれた雑穀粥は、懐かしい唯一の、母の手料理の味。
空腹が満たされ、そのまま眠ってしまったが、あんなに安らかな眠りはここ最近なかった。
森の中の小さな小屋で、暮らし上手な彼女と穏やかな生活を営めたら…
我ながら、なんという妄想をしているのだろう。
見るからに平民であろう彼女と、王太子である自分との婚姻など、さすがに無理だとわかっている。
そういえば…
王太子はふと思い出した。
自分を担いで運んだという、女兵士のような者もいたな…
あんな場所で女二人野営する目的は何だろうか?
まさかとは思うが、盗賊の一味ではなかろうか?
大切なアミュレットを、相手の素性も聞かずに渡してしまった。
王太子は少し考えると、側近を呼んだ。
そして、自分の紋章が入ったアミュレットを持つ若い女性が来たら、門番の詰所に留め置くようにと伝えた。
翌日のこと。
王太子が目を通すべき書類は、まだ残っていた。
不在中の未処理分を捌く間にも、新しい書類が持ち込まれるのである。
午前中いっぱいは執務にとられ、令嬢コンテストの行われている部屋に向かったときには終盤に差し掛かっていた。
アミュレットを持つ若い女性は、未だ王城を訪ねていないようだ。
盗賊でないにしろ、王城を訪ねることを億劫がる者もいよう。
解体して、金に換えるかもしれない。
彼女のことは、そのうち忘れてしまえばいい。
そう考えながら従卒が開けた扉を潜った。
だが部屋に入った途端、王太子は目を瞠った。
なんと、部屋の中央には、平民だと思っていた彼女が立っていた。
滔々と述べている内容は、野外に生えている状態での薬草の見分け方について。
どうやら、特技披露の最中らしい。
王太子にとっては興味深く、感嘆すべき内容であった。
しかし、他の令嬢方にとってはチンプンカンプン。
頷いているのは、判定のために呼ばれた王宮医師のみ。
真顔でひたすら聞き流している王妃殿下の態度はさすが、としか言いようがない。
王宮医師の後ろを通る際に、ちらりとその手元を覗き見れば、書類には辺境伯家の令嬢ダナの名があった。
かの人が、自分の婚約者候補として招かれた貴族令嬢の一人であることに、驚くよりも喜びが勝った。
特技披露はダナが最後の発表者であった。
王妃は最終種目について、王太子に任せることを告げる。
彼女の顔を見たら、無性にあの雑穀粥が食べたくなった。
空腹だった彼は、その場に相応しいとは思えない発言をした。
「お粥を作ってください」
参加者は二名のみ。
厨房から材料が持ち込まれる。
テラスを下りてすぐの地面には、騎士団員によって野営用の竈が設置された。
彼女の作った素朴な雑穀粥は、王太子の心を再び捉えた。
もう一つのお粥は、この場に相応しいとすら言える豪華さと旨さではあったが、それはこの際、どうでもいいことであった。
奇跡ともいえる再会に背中を押され、王太子は辺境伯家令嬢に求愛した。
働き者なら婿に迎えると言われ王妃に訊ねれば、思いがけず賛同され、話は決まった。
王太子から見れば、一昼夜、自分を足止めした黄金熊は縁結びの神に他ならない。
半年後、正式に婚姻が結ばれ、辺境伯領に移住する前の日。
元王子は入らずの森にハチミツの壺を数個置き、深く頭を下げて別れを告げた。
辺境伯家の婿となって数か月が経ち、辺境伯領の者も、元王子も、お互いに慣れてきた。
皆が自分のことを、よく働くいい婿だ、と褒めてくれる。
だが、王子にしてみれば、外で伸び伸びと働けることが幸せで、申し訳ないような気もしていた。
作業が一段落して、暇になった午後。
王都から連れてきた愛馬で、領内を見回った。
入らずの森を思わせるような場所を見つけ、馬を降りる。
森の中は本当に、あの入らずの森にそっくりだった。
珍しい動植物も豊富だ。
ひょっとすると、こちらでも人の入らない森なのかもしれない。
樹の根元に腰掛けて、生い茂る枝葉を見上げた。
あの頃、ほっとしていたはずの一人の時間が、なぜか少し寂しいような気がした。
どのくらいの時間が経ったのだろう。
落ちた小枝を踏む足音がして振り返ると、歩いてきたのは妻となったダナだった。
「アベル様、こちらでしたか」
「…探してくれたのか?」
「まあ…ついでがありましたので」
ダナは小さな麻袋を手にしていた。
「それは?」
「お供え物です。この森には灰銀の驢馬の妖精がいるんです」
「妖精?」
「ええ、寂しがりなので、もしここへ来るなら、話しかけてあげてくださいね」
どんなふうに? と訊ねれば、ダナはアベルの腕をとった。
「森の妖精さん、お久しぶりです。ダナです。
こちらは王都からお婿に来てくれた、私の大事なアベル様。
迷子になっていたら、助けてあげてくださいね」
ダナはそう言うと、麻袋を樹の根元に置いた。
中身は雑穀だという。
「何でもいいんです。
一言話しかければ、喜んでくれます」
さあ、帰りましょう、とダナはアベルの手を引いた。
自分より小さなその手を、彼はギュッと握り返した。
森を出たところで、ダナは真剣な顔で言った。
「お供え物をして、話しかけておくと、ベリーの収穫量が格段に上がるんです」
妻のしっかり者ぶりに、夫は今更ながら感心した。
森のすぐ外にある草地では、二頭の馬がのんびり草を食んでいた。
「君の馬も、いい馬だよね」
「農耕馬ですけどね」
ダナの乗る馬は、アベルの馬に比べると、どっしりとした体格をしている。
「軍馬の子孫なのかな?」
「おそらく。今は主に土と戦ってますが」
「…私と同じだ」
ダナはくすりと笑う。
「明るいうちに戻りましょう」
薄く茜色に染まり始めた空を背にして、二頭の馬は付かず離れず、館への道を駆け戻る。
厩舎に馬を預けて歩き出した時、アベルが口を開いた。
「弟にも一度、ここの景色を見せたいな。
あの子は私より優秀だけど、王宮は時々、狭すぎるから…」
「警備費用が王宮持ちなら、構いません。
ですが、まずは館を修理しないと…」
「確かに」
二人は顔を見合わせて笑うと、裏口の軋むドアから中へと入って行った。
森の中では灰銀の驢馬の妖精が、雑穀をモグモグと食べていた。
寂しがりの彼の気分が少し明るくなると、森に咲くベリーの花がふるふると揺れた。
第三弾『琥珀色の虎と薄紅水晶の瓜坊』を投稿しました。お読みいただけますと幸いです。




