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Prologue + Chapter.Ⅰ バグロという街

   ガングリオン

 

 

 「ガングリオン」……【ganglion】 〔医〕関節包、稀に腱鞘けんしょうに生ずる嚢腫のうしゅ。指頭大、弾性があって軟らかく、なかにゼリー状の粘液物質を容れる。女性の手の甲に好発。

……『広辞苑』より。


ただし、本作とは全く関係無い。

 

 

 登場人物等

 

  パシェック

  リオン

  アビム

  黒服の男

  とある館の若旦那

  メイド

 

  バグロ……スラム街

  スターナ……高級住宅街

  ガラメド……売春街

 

 

 Prologue

 

 

……雨が降っていた。いや、そうではない。雨が降っていると、私が認識しているだけの事だ。そこに、大きな差は無い。普通の人間の場合には。……本当に雨は降っているのだろうか? そもそもそれ自体、別にどうでもいい事なのだけれども、何だか気になっていた。

 それにしても、すごい異臭だ。普通の人間だったなら、耐えられないだろう。吐き気、頭痛、ひょっとしたら昏睡する者もいるかもしれない。

眼を、開けた。雨が跳ねる土が見える。私の手足は、土で汚れていた。別に困る事では無いのだが、この時もまた、なぜか無性に汚れを感じた。

 とにかく、だ。逃げる事はできたようだ。これから先、またいくつもの困難があるだろう。しかし最大と思われるポイントは通過したようだ。

 また、眼を閉じた。疲労が溜まっている。少し、休んだ方が良さそうだ。眼を閉じれば、いろんな事が……主に不快な記憶が蘇ってくるが、それは我慢した。……我慢する事だけは、得意なはずだから。

 物音がした。私がまだ狂っていないなら、後方で。それも、そんなに遠くは無い。

 警戒をした。武器を探した。が、無い。とりあえず、落ちていたコンクリートの欠片を拾って、握り締めた。もし私が恐れている者たちだったら、何の役にも立たないだろう。

 足音が、近付いてくる。近付いてくる近付いてくる。

 その時、急激に体が重くなった。つまり、体の力が抜けていった。役に立つかどうかわからないうちに、コンクリートの欠片は私の手から落ちた。

 ……ああ、そうか……

 汚れた地面に突っ伏した時、私はきっと納得した顔をしていただろう……

 

 

Chapter.Ⅰ バグロという街

 

 

 傘を持っていない日に限って、雨は降る……そんなわけない。俺の手は、今しっかりと傘を握っていた。音から判断すると、結構強いと思われる。しかし、傘を差していれば関係無い。傘が壊れるほど強く降らなければ。……そんな事も、あるはずが無い。

 このゴミのような街、バグロにも雨は降る。少し離れた、あのスターナでも降っているだろう。そう考えると、意味の無い平等意識が広がっていく。……本当に、意味が無い。

 この世界には二種類の人間がいる。勝った奴と負けた奴だ。負けた人間は、ここみたいなスラムで暮らす事になる。勝った人間は、スターナのような、綺麗で豊かで安全な、格式の高い街に住む権利が与えられる。つまり、俺は負けた人間だ。チャンスがあったのかどうかを見抜けず、それを生かせなかった。

 バグロは一面灰色。緑すら、この街では汚く見える。きっとそれは、俺たちの目が濁っているせいでもあるだろう。

 考えても意味の無い事、しかし次々と浮かんでくる事を考えながら、俺はいつもの曲がり角を曲がった。少し狭いが、傘を差していてもギリギリ通れる。それに、狭いのは少しだけだ。もう少し行けば、無意味に広くなっている。……ゴミ捨て場なのだが、ゴミは回収されない。だから、溜まっていく一方だ。従って、何も知らずにここを歩くと、自分の胃液を味わう事になる。

 俺はもうすぐやってくる異臭に耐えるべく、息を大きく吸い込んだ。すでに、少し臭う。

 なるべく早足で、無呼吸でそこを抜けようとした……が。俺は立ち止まった。

 人が、倒れていた。髪は男にしては長すぎる。女だとしたら、少し短いのだろうか。うつ伏せになっている為に顔はわからないが、髪、体格などから考えて、女だろう。それも若い。子供や幼児では無いだろうが。

 少し、考えた。迷った。もし死体だったら、非常に不快な思いをする事になる。バグロでは考えられない話ではない。目の前の山積みになっているゴミの中にだって、おそらく二、三体はあるだろう。当然だが、ここの治安はよくない。

 少し吐き気を感じながら、俺はその倒れている女(暫定)の肩をつかんだ。ずるっ……とかいきませんように……

 しっかりとした手応えが返ってきた。とりあえず安堵した。その肩を揺すってみた。反応なし。うつ伏せから、仰向けにした。反応無し……結構可愛いな。

 倒れていた女は、少女と呼んでいい年だった。それも、美少女と呼べるレベルの。幼さと端正さが程よく混ざっている。しかし、顔も体も泥まみれだった。それにこの異臭……よからぬ事をする気にはなれなかった。しかし、置いて行く事はできないだろう。もしそんな非情な事をしたら、俺の中にかろうじて残っている良心が後々その事を責めるだろうから。

「仕方無いか……」俺は自分に言い聞かせて、その少女を担いだ。……結構重い。そんなに太っているようには見えないけどな……雨で濡れているせいか?

 担ぎ上げた時、必然的に大きく揺れたが、少女は何も反応しなかった。

 

狭い部屋に、俺は帰ってきた。狭く、暗い。できる限り清潔にしようと努力しているが、カビ臭さは消えない。一つしかない安物の(と言うか、拾ってきた)ベッドに少女を寝せた。特に、ヤバそうには見えない。大きな怪我は無いようだし、やたら呼吸が激しかったり、熱があったりもしない。しかしまさかあんな所、しかも雨の中で昼寝していたわけでもないだろうし……

「おい」俺は少女を起こす事にした。汚れた服のままで居させるのは嫌だったし、脱がせるのも嫌だった。

 体を揺すりながら、時々頬を叩いた。反応無し。

「おい!」強く言った。少女の瞼が、少し動いた。そして、開かれる。

「……誰?」その素っ気無い返事が少し気に障ったが、とにかく俺はホッとした。

「誰だっていいだろ。とにかく、着替えろ。代えの服は……ここに入ってるから」俺はそう言って、部屋を出て行こうとした。

「待って」大きくは無いが、よく通る声だった。「ここ、どこ?」

「バグロだよ。その中でも一番地味なブロックだ」少女はまた何か言いたそうな顔をしたが、俺は早々に部屋から出た。

 アパートの階段で、煙草に火を点けた。雨はまだ降り続いている。このボロアパートでは、どこかで雨漏りが始まっているだろう。

 少し、あの少女の事について考えた。彼女は何者だろう?

 まず頭に浮かぶのは、売春婦という単語だ。基本的に、バグロに法は無い。従って、年齢制限も無い。あれくらいの年で春を売っている女はたくさん居る。それを咎める事は、誰にもできないはずだ。そうしないと生きていけないのだから。そして、彼女たちは誰にも迷惑をかけていない。自分たちのしている事に責任を持っている限り。

 しかし、ここはそういうブロックからかなり離れている。こんなところでは商売にならないはずだ。バグロでの売春行為というものは、女一人でできるものではない。女たちを武力で守るボディガードが不可欠だ。ボディガード数人と女が十数人。それで一つの売春グループの出来上がりだ。そういう集団は、ここから大分離れたブロックに固まっている。通称ガラメドブロック。バグロ中の男たちは、金ができればそこに群がっていく。俺は……そんなに趣味じゃない。時折入手する好色本で十分だ。

 彼女がたった一人で春を売っている自殺志願者では無いとすると、何者なのだろうか。まあ、どうせすぐに別れる事になるのだろうけど……

 部屋のドアが開く音がした。錆び付いているので、大きな音がする。見ると、俺の部屋だった。少女が、出てきた。

「着られたか?」見ればわかる事なんだが……

「……うん。あの……シャワーも」見れば、汚れていた髪も顔も綺麗になっていた。

「お湯出たか? 時々壊れるんだけどな」

「うん。……ありがとう」そう言って、彼女は頭を下げた。

「ああ。……少し、休んでいけよ。何があったのか知らないけどさ、あんな所で倒れてたんだから」

「……」彼女は言葉に出さず、小さく頷いた。

「じゃ、入って」俺と彼女は、狭く薄暗い部屋に入った。背後で、錆び付いたドアが音を立てて閉じた。

 

 沸かした湯で、インスタントコーヒーを作った。二人分。はっきり言って、美味いものではない。スターナにいる奴が飲めば、顔を歪めて「これは何だ?」と聞いてくるだろう。

「不味いけど、少しでも体を温めた方がいいだろ」俺は少女の前にカップを置いた。

「……ありがとう」そう言って、口に運んだ。美味そうな顔はしなかった。

「まあ、耐えられなかったら、無理しなくていいけど」俺はそう言って少し笑った。彼女も、つられて少し。

「……あの」少女は口を開いた。

「何だ?」

「どうして、こんな女物の服……」そう言って、自分が今身に着けているものを引っ張る。

「ああ……服をかっぱらった時に、一緒についてきたんだ。結構大量に。ま、持っていたって損はしないからな。捨ててなかったんだ」

「そう……」

 少し、沈黙があった。

「そういえば、まだ名前を聞いてなかったな」

「……リオン」聞かれたくなかった、と言うような顔では無かった。

「俺はパシェックだ。ところで、あんた何者だ?」間髪入れずに、俺は聞いた。リオンは少し驚いたような顔をした。

「何者って……」

「要するに、普段何をしていた? 学生ってわけじゃないだろう?」バグロに学校と呼べるものは無い。

「……答えないと、ダメ?」静かに、申し訳無さそうに呟く。

「いや、別に……ただ俺が知りたいってだけだからさ。無理に、とは言わないけど……」何となく、伝わった気がする。

 また少し、沈黙。雨音だけが聞こえた。

「……ガラメドから逃げてきたのか?」売春ブロックの通称を出してみた。

「ガラメド?」リオンは意外そうな顔をした。

「そうじゃ無いのか? ここに来る前は、どこに居たんだ?」

「……スターナ」最も意外な街の名が出た。

 スターナ。このあたりでは最も高級な住宅街。上流階級、成功者の類だけが住む場所。豊かな自然と整理された街並み。法の下に治安が守られている。……ここ、バグロとは大違いだ。あんなに近いというのに。

「どうして、スターナからバグロなんかに? 何であんな所に倒れていたんだ?」まず俺にとっては、スターナの人間がバグロに来るという事自体が、不思議だった。

「それは……」辛そうに、言葉を切った。これ以上聞くのは無理かもしれない。

「……まあ、何があったのかわからないけど、話したくないんならそれでいいよ。……そうだ。スターナに帰りたいんだったら、トラック持ってる知り合いがいるからそいつに頼んで「やめて!」俺の言葉は遮られた。小声の印象しかないリオンが、叫んだのだ。

「お願い。それは……やめて……」俯いて、と言うか俺に頭を下げているようにも見える。

「お、おい。そんなに帰りたくないのか?」俺がそう聞くと、リオンは小さく頷いた。

「でも、これからどうするんだよ。どこか行くあてはあるのか?」

リオンは首を横に振った。

「それなら……少しの間なら、ここに居てもいいぞ。いい所ではないけどな」

「……ありがとう」俯いたまま答えたその声は、少し震えていた。

「家出でもしたのか?」

 少し間があってから、リオンは首を縦に振った。

「そうか……理由は聞かないけどよ、家族があるだけマシってもんだぞ」俺がそう言って、リオンが何かを言いかけた時だった。

リオンの動きが止まった。瞬きをして、俯き、最後に顔を上げた。

「窓……」リオンは立ち上がり、窓の近くに行った。カーテンを少し開け、外を覗いていた。

「おい、何やってんだ?」俺が聞いても、何も答えなかった。

突然、リオンは少し開けたカーテンを閉め、俺の方に向かってきた。その顔で、今の心境は恐怖だとはっきりわかった。

「逃げなきゃ……」うろたえて、俺を見てくる。

ここで、俺には二つの選択肢が与えられた。一つ目は、まず理由を聞くこと。状況を詳しく聞き、その上で道を選ぶこと。二つ目は、何も考えずにここから逃げること。外の雨はいくらか小降りになっている。外には俺のバイクがある。

……俺は二つ目を選んだ。理由は、何だか楽しそうだったから。何か映画っぽくて格好いいなと、軽く考えた。

「よし、じゃあ行くぞ」そう言って、俺はリオンの手を掴んだ。彼女は何も言わなかったが、またしても意外そうな顔つきだった。信じてもらえるとは思わなかったのだろう。

 ドアを開け、短い廊下を走り、階段を下りる。すぐそこに、バイクはあった。俺は前に乗り、リオンを後ろに乗せた。

「どっちに行けばいい?」後ろを見て聞いた。

「……あっち」リオンは前方を指差した。その先には、狭く汚い路地がある。

「……掴まっていろ」俺はそう言った後、エンジンをふかした。

 何処か知らない場所へ、俺たちは走り出していた。

 少し走ったところで、銃声が聞こえた。俺のアパートの方向だ。驚いて振り返ると、黒服の男たちがアパートを襲撃していた。もうかなり遠くで、小さくなっていたが、なぜかはっきりと見えた。俺は視線を前に戻した。

「何だ、あいつらは」俺は前を見たまま、リオンに聞いた。答えは返ってこない。

「……あいつらから、逃げてきたのか?」

「……うん」リオンは震えながら、俺の胸の下で手を組んでいた。

「もう少し遅かったら……死んでたな。俺もお前も」そう言った後、リオンの首が横に振られるのを背中で感じた。

「どういう意味だ?」

「私は……死ななかったと思う」

「どうして?」

「……あの人たちの目的は、私を保護する事だから」

「保護って……お前何者だよ。今度はちゃんと答えてくれ」俺は少し首を後ろに向けた。安全の為、すぐ戻したが。

「……」リオンは黙ったままだ。

「なあ。もう無関係じゃないんだ。俺はもう少しで死ぬところだったし、多分部屋もめちゃくちゃにされている。あのアパートの住民も何人か死んだかもしれない。……単なるスターナのお嬢様が家出したってわけじゃないんだろ?……今まではそうかもしれないと思っていたけどさ」

俺は一人で喋り続けた。アパートの住民が死んだかもしれない、というのは嘘だった。あのアパートはほぼ無人で、住んでいる奴も昼間は居ない。

「……」依然、黙ったまま。しかし、震えているのがわかる。

「何処か……よし、あそこに止まるぞ」俺は人気の無い公園のような場所にバイクを止めた。壊れている電灯と、ボロいベンチがあるだけだ。深夜になると、ここはヤバめの取引の場所となる。たまに、死体があったりするらしい。少なくとも十八時までは普通の場所だ。今は、十五時少し過ぎ。

 バイクを降り、ベンチに座った。リオンも隣に座らせた。

「答えてくれ。いったい何なんだ」単刀直入に言った。

「……私は……」リオンはそこで言葉を切った。

「……なあ。俺は何を聞いても驚かないと思うよ。ここは安全なスターナじゃないんだ。危険で、野蛮なバグロっていう街なんだ。殺人事件で驚く奴はいないし、昼でも強姦事件が起こる事もある。お前の非日常ってのがここの日常なんだからさ……」俺はそこまで言って、背後の足音に気が付いた。振り返った。リオンも、振り返っていた。気づくのは俺と同時か、少し早かったかもしれない。

 そこに、黒服の男が立っていた。

 

 パシェックは、咄嗟に危険を感じた。それは正しかった。黒服の男は無表情のまま、リオンを見た。

「リオン、館に帰るんだ」感情がこもっていない声は、美声の域に入るものだった。

 リオンは、震えていた。震えながらも、どうしたら良いのかを必死に考えていた。逃げる。何か武器を取る。すぐさま襲い掛かる。……どれも無意味な事は、わかっていたけれど。

「……あんたら、何だよ。さっき俺のアパートぶっ壊してただろ」パシェックはできるだけ強く言った。

「お前には関係無い」黒服は無表情を崩さなかった。

 細い体。細い顔。細い眼。しかし、頼りない印象は全く無い。何か刃を思わせる男だった。黒服と無表情がそれを際立てている。ついでに声も。

「関係無くねえんだよ。第一こいつが何やったんだか知らないけど、そこまで追い回すお前らも」そこでパシェックの声は止まった。

 シュッという音が二回した。しかし、それは誰の耳にも届いていないだろう。あまりに小さかった為。黒服の手には、サイレンサーと思われるものが付いたピストルが握られていた。そしてパシェックは、体を横に反転させた後に、地面に突っ伏していた。

「……パシェック!」リオンは叫びながら、動かないパシェックに駆け寄った。それを、黒服が捕まえる。

「嫌っ! 離して!」抗っても、無駄な事だった。

「……帰るんだ」無感情な声が、リオンの鼓膜を震わせた。

「嫌あああっ!」その叫び声を最後に、リオンは静かになった。黒服が、何らかの打撃を与えたのだろう。

 少しも動かないパシェックの耳には、その叫び声は届いていたのだろうか……

 


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