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実存主義を再解釈する

作者: 佐久 満

 南直哉老師の「超越と実存」(新潮社)を読んだ。自分と似たようなことを考えている人間がいる、ということはあまりないので驚いた。同時に、「超越と実存」は私にとって非常に重要な書物になったので、その理由を書いておきたい。例によってこれは個人的な記録である。


 「超越と実存」で最も重要な記述は第九章の親鸞と道元の章である。つまり、浄土真宗と禅宗の記述である。同書のタイトルにあるように、「超越」とは称名念仏のことであり、「実在」とは禅を指す。「超越と実存」とは、端的には自力救済か他力救済かということであり、何か(例えば念仏)に頼るなら他力救済であり、超越的存在に頼るということであり、自力で修行して悟りを開き涅槃ねはんに至るなら自力救済=実存主義、という考え方である。自力か他力かは救済(悟り)に至る方法論の違いでしかない。


 仏教と実存主義の親和性は私がぼんやりと感じていたことであり、それを見事に簡潔に説明してある。仏教の書物は難解に書こうとすればいくらでも難解に書ける。ここまで素人にも分りやすく書けるという事実が、著者の能力を証明している。欲をいえば、道元と親鸞をサルトルやレヴィ=ストロースと比較して、東洋哲学と西洋哲学を概観してほしかったが、それは同書の目的から外れるのだろう。


 実存主義とはどのような哲学か。禅の言葉でいえば只管打坐であり、不立文字である。これは実存主義そのものだ。実存主義を知りたいなら、サルトルは読まないほうがいい。実存主義といえばサルトルというイメージがあるためそう思いがちで、間違いではないのだが、実際はマルクス主義なので実存主義の本質とはあまり関係がない。実存主義はキルケゴールやニーチェから始まった思想であり、出発点ではマルクス主義とはほとんど関係がなかった。


 実存主義の最も純粋な形態はヴィクトール・フランクルの「夜と霧」に結晶化されている。これ一冊を読めば、実存主義とは何かが理解できる。読むのがつらいという人もいるであろう。そういう人は、実存主義とは何かを考える段階にない。実存主義を本当に必要としているなら、読むのがつらいということはないはずだ。全ての可能性が閉ざされた状況において、人間はどのように生きるか。それを問うのが実存主義である。新訳版と旧訳版があるが、旧訳版を薦める。哲学的解説が有用だからである。


 ここまで書いてきた文脈において、実存主義は「超越と実存」に連結する。つまり、自力救済という意味においての実存主義である。フランクルのいう「コペルニクス的転回」とは、禅における修行そのものだ。


 実存主義をサルトルとの関係性で捉えている限り、このような比較は無意味であろう。サルトルを離れることによって初めて(ニーチェから始まったという意味での)実存主義としての仏教を評価することができる。もし「超越と実存」が仏教哲学を実存主義哲学として再解釈する試みだとすれば、「近代の超克」以降停止したままの日本哲学の胎動を感じられるかもしれない。


 実存主義と仏教の関係性に注目するのは、個人的な理由がある。私の用いる文体はいわゆるハードボイルドであり、ハメット、チャンドラーの伝統を受け継いでいる(つもりでいる)。ヘミングウェイはマッチョすぎて合わない。一番読んでいるのはジャック・ヒギンズである。これらの作品と実存主義は直接には関係がない。しかしハードボイルドと実存主義は親和性が高い。日本を含むアジアにおいても、実存主義というキーワードで俯瞰することで、自分の中で全てがつながるのだ。自分が考えていることが、バラバラの無秩序ではなく、あるベクトルを持っているということが理解できただけでも、成果といえる。


 このように書くと自力にばかり注目しているように見えるが、そうではない。自力、他力は方法論にすぎないので、どちらが優先するかという比較は意味がない。現時点では「夜と霧」から「超越と実存」という展開によって、仏教と実存主義を連結することができる、という事実だけで十分である。


***


 私は今、「日のもとに新しきものなし」を実感している。どうやらとんでもない誤りを犯したらしい。私は実存主義と仏教の類似性について書いた。

 しかし、ニーチェの時代には、すでに仏教はヨーロッパに紹介されていた。ニーチェが仏教を研究していたのは、仏教研究者にはよく知られている。海外の文献を挙げておこう。ヨーロッパにおける仏教の研究については、以下の二冊がある。


「虚無の信仰 西欧はなぜ仏教を怖れたか」

https://amzn.to/2SelVm1


「仏教と西洋の出会い」

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 そして日本でも、ニーチェと仏教についての研究書が出ている。


「ブッダvs.ニーチェ」

https://amzn.to/2SdSMYl


 このような場合、自然科学ではルールが決まっている。発表が早い方がオリジナルとみなされる。この場合、どちらがオリジナルかは明らかだ。仏教研究者のあいだでは、以上のような認識は常識らしい。しかし、少なくとも私は、主要メディアでは聞いたことがない。何に遠慮することがあろうか。誰も言わないなら私が言おう。実存主義の起源は仏教であると。


 二つの思想が似ているのは当然だ。そもそも仏教がオリジナルなのだ。そして、ヨーロッパでは実存主義、アジアでは禅として結実した。そして実存主義はサルトルを経由して、日本の学生運動の思想的背景になった。皮肉としかいいようがない。


 私は間違いを犯したと書いた。しかしこれで良かったのかもしれない。天下り的に書いたものが分りやすいとは限らない。演繹的に書くよりも、帰納的に書いた方が理解しやすいことは多い。どちらがよいかは、読者の判断に委ねよう。


 現代の日本において、東洋哲学について深く考える機会はほとんどない。科学がほとんど信仰と化した時代において、わずか数十年前の歴史ですら忘れ去られようとしている。日々メディアで流れる情報はフェイクニュースばかりだ。

 今はただ、仏陀ぶっだの偉大さに言葉を失うのみである。






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