96.忘れぬ宝物
「あっ、あれは、もう気にしていないんで」
マリーは震える言葉を、なんとか紡ぎ出す。デジレに向かって、言う。
「今度は誰も見ていませんでしたし、な、なかったことにしましょう」
デジレが驚く。
マリーは、デジレが辛い顔をするのはもう嫌だった。だから、胸が心音に合わせてずきずきと痛んでも、言わなければいけなかった。
マリーが今日まで、傷付いてもなんとか前を向けたのは、あのキスがあったからだ。
マリーにとって、あのキスは好きな人と自然にできた、理想のキスそのものだった。本当に、幸せだった。それがデジレにとって不本意であったとしても、忘れることなどできない。
それでも、後悔しているデジレにマリーができることは、なかったことにしてくれと言うことだけだ。
そう口では言うけれど、マリーはなかったことにせず、蓋をして大切に大切に、心の奥にしまっておくのだ。幸せな思い出として。
たとえ、デジレが忘れたとしても。
胸が締め付けられる。なんてわがままなんだろう。デジレにも覚えて欲しい、など。苦しんでいるのに。
マリーは息を吸う。
「だって、してはいけなかったんですよね」
「それは……」
デジレが苦しそうに顔を歪める。
どうか、そんな顔はしないでほしい。辛く苦しめる原因がマリーなら、マリーはなにをしてでもその思いから彼を解放してあげたかった。
「別にいいんです。前と同じでしょう」
「違う、今回は意識も記憶もあって、あれは!」
「やめてください! もう、掘り返すの、やめて」
マリーはとっさに耳を手で塞いで、目を強く瞑る。
謝られただけでも辛かったのに、もうこれ以上、あの思い出に傷をつけてほしくなかった。このまま、心の奥に宝物として仕舞いたかった。
震えながらゆっくり目を開ければ、デジレがなにかに耐えるように強く口を結んでいる。マリーが言った通り、言及するのをやめてくれたようだった。机の上にある拳が、見るからに強く握られている。
途端、マリーは泣きそうになった。
泣くな、泣くなと自分に言い聞かせて、最近もろくなっている涙腺をなんとか抑えようとする。
泣いたら、優しいこの人はまた責任を感じる。責任を取ろうとする。それには、マリーはもう堪えられない。
しばらく、静かな時間が訪れた。雰囲気も気持ちもだんだん落ち着いてきて、マリーは長く息をはく。
「あ、デジレ様。謹慎って聞きましたけど、元気そうでよかったです」
「え。ああ、うん」
目線をふらふらとさまよわせたデジレは、急になにかに気付いたように顔を片手で覆う。
「え、いや、なんで謹慎しているなんて知っているんだ。しかもうちに来て、こんな格好悪い姿を見られるなんて……」
格好悪いと呟いているデジレは、恥ずかしさに身悶えしている。マリーには格好悪いとは全く思えず、首を傾げた。
「王太子殿下からお聞きしたんです」
「……は?」
デジレがマリーを見て、固まった。
たしかにいきなりオーギュストから聞いたと言われても、今までマリーとは関わりがなかったのだから驚くに違いない。マリーは続けて説明した。
「急に殿下に呼ばれて、お城に行ったんですけど、デジレ様は謹慎中って」
「ま、待った。殿下? え、殿下に会った? いやそれより、殿下に呼ばれた?」
「はい。何かの間違いかなって思ったんですけど、畏れ多くもわたしに会いたかったらしくて、簡単なお話しをしてきました」
デジレが今までマリーが見た中で、一番間の抜けた顔をする。口がぽかんと開いている様がマリーにはなんだかおかしくて、つい笑ってしまった。
「……会うなって言ったのに」
「え、なんですか?」
「いや。じゃあ、殿下から謹慎の理由を聞いて、うちに行くようにと言われて? 来たマリーを母が対応したのか」
「謹慎しているとは聞きましたけど、理由までは聞かなかったので、体調崩したのかなって心配になったんです。でも、デジレ様に行っていいかというのは聞きづらくて、以前お会いしたデジレ様のお母様に連絡を取ったんです」
「え?」
目を大きく見開いたデジレは、しばししてがしがしと白い金髪を手で掻き乱す。言葉にならない何かをうめいた彼は、少し荒れた髪のまま、マリーの方に身を乗り出す。
「殿下に会った上に、母上にも会っていたって? 俺がいない時に一体何をしていたんだ?」
「え、何をしていたって、本当にお話していただけです。全部デジレ様のことです。他の方からも、前からずっとお話を聞いています。みなさん自ら、デジレ様をよろしくみたいなことを言ってくるんです」
そうだ。デジレと夜会に参加するようになってから、マリーは何度も何度も言われてきている。違いといえば、最初は反発したものの、今では共感することくらいだ。デジレが好かれていることがわかると、マリーはとても嬉しい。




