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くちびる同盟  作者: 風見 十理
五章 離れるくちびる
94/139

94.シトロニエ邸にて

 



 ポットから流れるように透き通った赤茶色の液体がカップに注がれる。とぽとぽとした音が静かになると、すっとポットが止められ、カップがマリーの前に差し出された。

 目の前にある紅茶の水面に色なく写るマリーの顔は、強張っている。目だけ動かして給仕をしてくれた相手を見れば、彼女はうっすらと微笑んだ。


 王城から帰ったマリーは、すぐさま手紙を書き始めた。宛先は、シトロニエ伯爵家の伯爵夫人――つまりデジレの母であるアデライードだ。

 以前会った時に歓迎すると言われたからと、マリーは訪問伺いの手紙を送った。すると、あっさりとアデライードから許可と迎えの詳細を書いた返信が届いた。

 少しでもデジレを見たいがために彼女を利用していることに気が付いて、急に気が引けたが、訪問日は刻一刻と近付く。デジレから夜会に行かない旨の了解と、しばらく夜会参加を取り止めると返事が来ていたので、マリーにはすることがなくただ緊張して日々を過ごした。

 当日は、もしやベルナールが迎えに来るかと少し期待すれば、全く違う御者でマリーはちょっとだけ落胆した。


 そういう流れでいるシトロニエ邸の一室。アデライードが昔に侍女をしていたからと、使用人を下げて手ずから紅茶を()れてくれた。

 部屋には、マリーとアデライードのふたりきり。しかも場所はデジレの生家で彼がいるはずだと思うと、心臓の鼓動が早まる。


「どうぞ、冷めないうちにお召し上がりください」


「は、はい! いただきます!」


 落ち着いた声であるのに過剰に驚いて、マリーはそろそろとカップに唇を寄せる。香りの良い紅茶は、熱いがまろやかな味で舌に馴染む。


「あ、おいしいです」


「それはよかったです。腕はまだ落ちていないようですね」


 アデライードは、ほんのりと笑顔を見せる。彼女は基本的に表情が薄く、常に乱れのない動作で、マリーは少し近寄りがたさを覚えるが、笑うとやはりデジレが思い出されて親しみが湧く。

 すると途端に、デジレはどうしているのか気になってしまう。この場の流れで彼はどうかと聞くのもいきなりな気がしたマリーは、用意していたアデライードに聞きたいことを口にすることにした。


「あの、伯爵夫人様」


「アデライードで構いませんよ、マリー」


「え、はい。では、アデライード様。少々聞きたいことがあるのですが」


「ええ、どうぞ」


 マリーはしばらくもじもじした後、口を開く。


「あの……旦那様、ええと伯爵様を、どんな風に好きになりましたか?」


 動きを止めてじっとマリーを見つめてくるアデライードの瞳に、マリーは焦る。


「も、申し訳ありません、いきなり。でも、その、わたしは母を早くに亡くしているので、そういう馴れ初めを聞く人がいないんです。父に聞くのもどうかと思って……」


 デジレのことを聞くより唐突だったかもしれない、と今更ながらマリーは思う。それでも、物語ではない、生身の人間が体験した恋を聞いてみたかった。

 アデライードはゆっくりとした動作で、指を顎に当て、思い出すように目線を右上に向ける。


「そうですね」


 彼女は(すみれ)色の瞳を細め、懐かしむような穏やかな表情をした。


「出会った頃は、印象が最悪でした。触るなこのけだもの、といった気持ちでした」


「けだもの?」


「はい」


 けだもの、と目の前の貴婦人から出たと思えない言葉をマリーが反芻(はんすう)していると、彼女が微笑む。


「そのように最初は嫌いに等しかったのですが、いろいろありまして今に至ります。おかしなことに、そのいろいろあった時の気持ちがあまり思い出せないのです。今の愛しい気持ちだけ、はっきりしています」


 胸に手を当てて語る彼女は、表情は薄いのに、はっきりと幸せな顔をしていた。この人は伯爵を好きで幸せなのだと、マリーは眩しそうに見つめる。


「いつ好きになったのか、それはわかりません。ただ初めて会った時から一目惚れだったのではないかと、思い返すにつれだんだんと思えてきました。そう、思いたくなったのかもしれません。嫌だったはずの思い出は、後になって振り返っても、そういうこともあったねと、笑いあえるものになっていますね」


「素敵、ですね」


 マリーは胸元を手で握りながら、呟く。

 いつデジレを好きになったのか、マリーもよくわからない。好きと気付いた今は、以前デジレを嫌っていた自分など、彼の記憶から無くなって欲しいと思う。

 それが、後から笑えるなら素敵なことだ。会った時から一目惚れで、嫌っていたあの時も実は好きだったと思えるならば、きっと幸せだ。なぜなら今、彼が好きだから。

 過去を変えたいほど、記憶を変えたいほど、想う気持ちはマリーにもわかる。


「そう言ってもらえてとても嬉しいのですが、決してこれまで素敵なことばかりではありませんでした。それにこれはひとつの、私たちの恋のかたち。貴女は、貴女たちだけの唯一の恋のかたちを探してください」


 優しい母親の顔に、マリーは心が締め付けられて涙を零しそうだった。



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