92.手の甲にキス
やけに重く感じる扉を開ければ、広い部屋が目の前に広がる。その奥に、マリーに対して背中を向けて青年がひとり立っていた。
柔らかく軽い癖毛がみえる、蜂蜜のような金髪は、マリーが遠目で見たことがあるものと相違なく、にわかに緊張で身体が固くなる。彼が足を動かして振り返り、美しいアメジストの瞳が見えると、マリーはすぐさま腰を折った。
「ご命令により、参上いたしました。スリーズ子爵家が娘、マリー・スリーズです」
合っているのかはっきりとわからない口上にどきどきしながら、マリーローズに叩き込まれた最敬礼を保ち顔を伏せる。人の動く気配がしたと思うと、敷かれた絨毯を数歩踏みしめる音が聞こえた。
「おもてを上げて」
落ち着いているが有無を言わさぬ雰囲気を感じ、マリーは恐る恐る目線を上げた。
先ほどより近い距離に、王太子たるオーギュストが堂々とした出で立ちでいる。金の睫毛に縁取られたアメジストの瞳はきりりとして光り、整った鼻梁がさらに高貴さを際立たせ、魅力あふれる唇が全てをまとめる。本物の王族を前にして、気圧されたマリーは言葉が出なかった。
「貴女が、マリー・スリーズ?」
問いかけのような確認のような言葉に、マリーは応えるべきか悩む。オーギュストを見つめながら内心おろおろしていると、彼が距離をさらに詰めた。
驚きと緊張で固まったマリーまで、自然な動作でオーギュストは近付くと、彼女の手を取る。そして、その甲に唇を寄せた。
「……きゃっ!」
マリーは手を払って、呆然と自分の手の甲を見る。そしてオーギュストに視線を戻して、今自分のしでかしたことに真っ青になった。
それでも、マリーには気になったことがあった。手の甲をもう片手で包みながら、息を呑んで、目の前の無言の彼に向かって唇を動かす。
「失礼を承知でうかがいますが」
マリーは手の甲を握る手に力を込めた。
「……ルイ様、ですか?」
オーギュストが、目を見開いた。
魅惑の唇から、ふ、と息が零れる。それは徐々に耐えられなくなったように口から出始め、彼は口元を手で押さえながら肩を震わせた。
「ふふ……あはははははは!」
突如、オーギュストが声を上げて笑った。
腹を押さえて身体を曲げて笑う彼にマリーはおおいに戸惑い、どうすればよいかわからず途方に暮れた。
「さすがはくちびる同盟。今のでわかったのか」
よく見れば、オーギュストの目元には笑い過ぎで涙が浮かんでいた。人前で、しかも王族をここまで笑わせたことがなく、マリーは大混乱した。
「あ、あの殿下」
「ああ、ごめんね。まさかこちらから言う前に気付かれると思わなくて」
またオーギュストが吹き出す。その様子は最初に見た時と違い、柔らかく自然体で、馴染みやすいようにマリーは感じた。
しばらくしてようやく笑いを収めた彼は、口角を上げてマリーに微笑む。
「改めて。はじめまして、じゃないね。僕は、オーギュスト・ド・グルナード」
「あ、はじめまして……ではなく、え? わかったってことはルイ様? 殿下がルイ様? え?」
「ルイは僕の偽名。僕の本来の姿は今君の目の前の、王太子のオーギュスト」
蜂蜜色の髪を揺らして、彼はまたにこりと笑う。
マリーは必死に混乱中の頭の中を動かす。オーギュストはルイで、彼女が会ったルイはオーギュストだった。話したのも、実は王太子であるオーギュスト。自ら指摘したのに、気が遠くなりそうだった。
「わ、わたし、何も知らずに気軽にお話ししたりして……!」
「それは当然だよ、王太子って隠していたんだから。むしろ僕としては、あんなに見るからに怪しい存在と話す君の方が心配だったけどね」
王太子とは話すことなどあるはずがないと思っていたのに、気付けば既に話していたなんて。マリーは頭を抱えたくなった。
そんな彼女を意に介さず、オーギュスはこほんと咳払いする。
「君にはルイという素で対応しているから、この態度で続けて対応させてもらうよ。王太子らしくなくてごめんね」
「え、いえ」
「僕は陛下と違って顔が優しげだから、威厳を出すには口調も大切で。でも最近、デジレにまでやっていると疲れてきてね。君とは付き合いが長くなるだろうし、慣れてもらうと助かる」
デジレという言葉にマリーは反応する。そうだ、オーギュストはデジレの主人にあたるのだと今更ながら思い出せば、俄然彼に興味が湧いてきた。
恐る恐る、しかし思い切ってマリーは尋ねた。
「殿下、今日わたしを呼んだのはどのようなご用件ですか?」
「いろいろあるけれど、一番は会いたかったからだよ」
それははじめて、マリーがルイと名乗るオーギュストに会った時、彼が言った言葉だ。マリーは目を瞬かせる。
「本当に、会いたかったんだ。ようやく現れた、デジレの相手である君に」
オーギュストが万感の思いを込めて、言葉を紡ぐ。




