71.同盟のほころび
首を傾げるデジレに、マリーはすぐに顔を背けた。キスしたいなと唇を見ていたなんて悟られると、恥ずかしさでもう目を合わせられない。
デジレから逃げるように顔の向きを変えたのに、まだじっと向けられる視線を感じて、マリーはだんだん黙っていられなくなった。
「あの! わたし、ちょっと思ったんですけど」
「何?」
返事が返ってきたものの、そのままデジレを見ずにマリーは口を開く。
「キスしたくなるくちびる探しって、とても難しいですよ」
何をいきなり言っているのだろうとマリーは思ったが、言ってしまってはもう続けるしかなかった。
「くちびるだけで、キスしたいとか、そう思うことないと思うんです。結局くちびるだけを見ているつもりでも、その人の顔まで見えちゃいますし。くちびるのバランスとか、顔とか、その人がどんな人かとか、気にしちゃうと思うんです」
先ほどマリーが素敵だなと思ったのは、デジレの唇だからだ。他の人の唇が彼と同じ形だとしても、きっとマリーは興味を持たない。
「多分、いろんな要素を総合的に判断しないと、キスしたいとか思わないんじゃないかなって。逆にいうとその人をいいなって思っていたら、くちびるはもちろん、他の要素だって、きっととても素敵に見えるんです」
デジレは元から容姿端麗で素敵ではあったが、嫌いと思っていた時はそんなことはどうでもよかったし、好きと気付けばますます素敵にみえる。結局は、相手に抱く自身の気持ち次第だ。
「そうか」
ふっとデジレが笑うように息を零す。
「キスしたくなるくちびるを探すこと、これがそもそも間違っていたのか。相手を探すには、まずは自分がいいなと思う相手を見つけることが先決だったか」
「きっかけとしては、良いと思いますよ。ちょっとひとつ相手に気になるところがあって、そこからどんどん興味が広がっていくんです」
「うん」
つい顔を彼に向ければ、彼は眩しそうに目を細めてマリーを見つめ、微笑んだ。
「私はいろいろくちびるについては調べてきたけれど、一番に良いくちびるの探し方に気付いたのはマリーだったな。すごいな、これからはマリーに教えを乞わないといけないかな」
「え、そんな、なんとなく思ったことですよ」
謙遜するも、デジレに褒められると嬉しくて、はにかんだ笑顔になる。マリーとしては、ただ気付いたことを言っただけだ。それも、デジレのお陰だった。
そんな嬉しそうなマリーを、デジレは何も言わずにうっすら唇に笑みを浮かべ、見つめているだけだった。
しばらくなにもすることなく、マリーはぼんやりと周りを眺めていた。すると、急にデジレが長く、深く息をはいた。
「今日の夜会には、彼はいた?」
「えっ」
真剣なのに柔らかい目を向けられて、マリーの胸が高鳴る。
デジレの言う彼とはつまり、デジレが考えるマリーの気になる人だ。この夜会でいたかどうか、といえばそもそもそんな人物は存在しないのでいないといえるし、またそう言うデジレこそがマリーの好きな人であるので、いるともいえる。
ただ、いないのに夜会に行って落胆もせず楽しそうにいるのはおかしかった。とにかく嘘ではないと、マリーは首を縦に振る。
「そうか」
デジレはそれだけ言うと、目を閉じた。何かを考えるように黙ると、何か決めたらしくはっきりと目を開く。
「それなら、マリーは彼のもと行っておいで。大丈夫、私は席を外すから、見ることはないよ」
マリーの息が止まった。
「なんで……」
「馬車の中でも言ったけれど、私がマリーの傍にいると、邪魔にしかならない。気になる相手に誤解を招き、近付けない。だから、私がいない二人が会える時間を作らないといけないだろう」
それは、マリーの気になる相手がデジレでないなら、的確な手段だった。しかし、実際はマリーにとって無意味どころか、やってほしくない気遣いだった。マリーの心が、沈む。
「そんな、デジレ様は、わたしを置いていくんですか?」
「違う、ちゃんと迎えにいくよ。邸までは責任持って送る。ただ、折角彼が参加している夜会に来たんだ、彼と距離を縮めないと」
マリーは唇をぎゅっと噛んだ。さくらんぼ色の口紅が、唇から剥がれる。
そうだ、デジレは優しいから、気を遣ってくるからこんな提案をするのだ。そういう風に誤解させたのは、マリーだった。そうわかってはいても、心が痛かった。
「……でも、そうですよ、くちびる同盟に、相手のくちびるを守ることってあるじゃないですか。何かあったら、デジレ様が傍にいないと」
「もちろん、何か起こったら駆けつけるし、助けるよ。それができる範囲内にはいる。だけど、マリーが嫌がったら、だ」
デジレが、マリーから目を逸らした。
「思えばこの同盟の内容もおかしかった。気がある相手からまで、くちびるを守る必要なんてない。望んでするキスを止めるなんてできない。マリーは、本当に嫌?」
そんなことはなかった。つい先ほども、キスしたいなと思った。
誰だろう、好きな人から相手を探されるのはたいして辛くないと思ったのは。こうやって応援されるのは、口から何かが出そうなほど、苦しい。
デジレは、その綺麗な顔に困ったような表情を浮かべた。
「そんなに不安な顔をしないで。誰かは私はわからないけれど、マリーが良いと思った彼ならば、きっと無体なことはしない。何かあったとしても守ってくれるだろうし、私の出番はないだろうから」
デジレの予想は、当たってる。デジレなら、きっとそうする。しかしマリーはそうだとも違うとも言えなくて、もう限界だった。
「……わかりました。じゃあ、絶対に、迎えに来てくださいね!」
これ以上聞いていられなくて、マリーは大きな声でデジレの提案を受け入れた。
彼は緩慢な動きで頷くと、少し寂しそうに笑って、彼女から離れていった。




