7.シトロニエの祝福 ★
デジレは重い頭を抱え、重い足取りで、ようやく自宅までたどり着いた。
口から出るのはため息ばかり。丸一日身体を鍛えたとしても、これほどまでに疲れないだろうと思う程、デジレは頭も心もくたくただった。
もう一度息をつくと、シトロニエ邸の扉を開ける。
「……ただ今戻りました」
「おかえりなさい」
弱々しい帰宅の言葉に、語調の強い言葉が返ってくる。下がっていた目線をあげれば、女性が腕を組んで待ち構えていた。
白金のように光る金髪を綺麗に結い上げ、長い睫毛に縁取られた翠玉のような目を向けてくる彼女は、デジレの姉のカロリナだ。ふわりとした服が、大きくなってきた腹のふくらみを覆っている。
身内でも惚れ惚れするほど美しいカロリナは、併せ持つ可憐さと社交界での淑女具合で、鈴蘭の二つ名で呼ばれている。しかし今は柳眉を逆立て、可憐と言われる顔をきつくして、デジレを見ている。
「謝らなかったでしょうね?」
「……謝りません、でした」
デジレはなんとか言葉を絞り出した。
昨日の夜会からどうやってかシトロニエ邸に帰ったデジレは、嫁いだ侯爵家から里帰りしていたカロリナに事情を知られると、さっさと責任を取りに行けと邸を蹴り出された。その際にカロリナから絶対に謝るなと強く言い含められていた。
夜が更けていた為に当然のようにスリーズ家で門前払いを受けたデジレは、なんとか翌日の朝に面会を取り付けたが。翌日、つまり本日出掛ける前までカロリナに謝るなと念を押され続けた。
謝らないことは、真面目なデジレには苦行だった。
「ええ、謝りませんでしたよ。何度も謝罪が口をついて出そうになる度に無理矢理飲み込み、床に頭を擦りつけてでも謝り倒したい衝動をなんとか抑え! ……謝りませんでした」
デジレは髪をぐしゃりと掴む。
女性にとんでもないことをしてしまった自覚はあるのに、謝ることが許されない。しかも、マリーはどう見ても泣いていた。謝れないことで光栄に思えなど変なことを口走ってしまったことも含め、デジレは自分の不甲斐なさとろくでなし具合に、自分を殴り倒したくて仕方なかった。
何か沙汰を下してくれれば良いのに、彼女は責任を取らなくて良いという。行き場のなくなった責任感が爆発して、いささか強引に話を進めてしまったのは否めない。
「それで、どうなったの?」
「求婚しましたが拒否されたので、同盟を結んできました」
「え、拒否された? 待ちなさい、同盟ってどういうことなの?」
「簡単に言えば、お互い良い相手を見つけようというものです」
深く息を吐いて、デジレは戸惑うカロリナを見返す。
「責任はしっかりと取りますので、大丈夫です」
「本当に、大丈夫なの?」
自分に納得させるよう、デジレは深く頷いた。
それにしても自分の行動が自分のことであるのに、理解できない。デジレは昨日の記憶を呼び起こす。
父のリシャールに、いい加減に相手の一人二人くらい見つけてこないと勘当するとまで言われて、どうしようもなく参加した夜会。どうしたものかと焦っていたところ、マリーを見つけたことまでは覚えている。
そこからは抜け落ちたように記憶がない。気付けばマリーの顔が至近距離にあり、唇が触れていると慌てて引き離せば、彼女が気を失って倒れてきたので支えたのだ。それ以降も、急なことに頭が混乱していて記憶が不確かだ。
「私は、何か病気にでもかかってしまったのでしょうか」
「大丈夫よ。病気じゃない」
カロリナが強く断言する。
デジレはなんとか苦笑いをうかべた。
「ところで、姉上。くちびるを保護する化粧品をお持ちでないですか」
「え? 今ちょうどクリームがあるけど」
カロリナが小さな袋から取り出したのは小振りな丸い缶だった。デジレは礼を述べて、そのクリーム缶を受け取る。
「どうしたの急に?」
「いえ……くちびるがかさついていたと言われたので、ちょっと」
そう言いながら、デジレは缶を開ける。薄く柔らかい黄色のクリームを薬指ですくって、唇に近付ける。
「唇のかさつきを治してどうするの? また、あの子とキスがしたいの?」
カロリナの言葉に、デジレの手からクリーム缶がこぼれ落ちる。彼は慌ててそれを受け止めた。
「そ、そんなわけでは!」
「ふーん?」
じわじわと頰が熱を帯びていく。デジレは堪らなくなってクリーム缶を握ったまま、カロリナに背を向けた。
「姉上、廊下は冷えるので早く部屋に入ってください!」
それだけ言うと、デジレは姉の返事も待たずに自室に入った。
カロリナは、部屋に逃げ去った弟を見送り、大丈夫だろうかと考える。
シトロニエ家には、祝福がある。
一生に一度、生涯の伴侶に対し、なんらかの愛情表現が無意識に出てしまう、シトロニエの祝福だ。
あまりに突飛なものではあるが、これを受けたシトロニエ家の者は相手と上手くいき、幸せになるとされる。
カロリナも、祝福で押し倒したことがある。
この祝福は、祝福を受けるシトロニエ家の者からして名前と顔が一致している異性相手でないと起こらない。
しかし、男性貴族には詳しいのに、幼少期から女性を苦手に感じて距離を置いているデジレは、祝福が起こる可能性が極めて低かった。
あまりにも女性と関わらないので、これはまずいと感じた父のリシャールが、先日デジレに発破をかけて、夜会に押し出した。
ひとまず相手となり得るだろう女性と会えるように、としたはずの作戦は、デジレが人前で女性にキスするという結果を引き起こした。
真面目なデジレが、人前で女性に恥をかかせるようなことはしない。
呆然としていた彼に聞いてみれば、記憶がないという。昨日の夜会に様子見に潜り込ませていた彼の侍従に話を聞けば、倒れるマリーを支えた時に、彼女の名前を呼んでいたという。
明らかに、祝福だった。
どうするかと父リシャールと相談したカロリナだったが、結果としてデジレの性格を考慮して、祝福のことは彼に伝えないことになった。既に祝福を知っている者には通達済みだ。
「頑張るのよ、デジレ」
祝福は内容が内容の為に、どうしても相手との軋轢や、苦悩を生みやすい。祝福でなくとも大わらわになるのが目に浮かぶデジレだから、カロリナはせめて少しでもうまくいくようにと謝るなと伝えてみたが、どうなるかはわからない。
それにしても、女性に全く縁のない彼が、マリーの顔も名前も知っていたとは。一体どこで出会ったのだか。
カロリナは部屋に消えた弟を見て優しく笑うと、踵を返した。