61.唇の秘訣 ★
デジレは現在任されている仕事を終わらせると、じっと目の前の主人を観察した。
同じく机で黙々と書類を確認しているオーギュストは、相変わらず少々女性らしさがある綺麗な顔立ちをしている。しかし、デジレにはそんなことは興味がなかった。デジレが注視するのは、彼の唇である。
凝視していれば、オーギュストが手を止めて、ちらりとデジレを見る。彼はふうとその魅力的な唇から息を漏らすと、おもむろに席を立った。本棚へ向かう彼の唇から、デジレは一切目を逸らさず、動きに従って顔を動かす。
しばらく資料を探しているのか目をきょろきょろさせていたオーギュストだったか、急に動きを止めると、デジレに苛ついた顔を向けた。
「いい加減にしろ! 最近ずっとじっとりと私の顔を見てきて。男に見つめられても嬉しくもなんともない! 言いたいことがあるなら言え!」
「顔ではありません。唇を見ていました」
「なおのこと嬉しくない!」
色気がある厚めの唇が大きく開く。デジレはその唇の動きも真剣に見つめた。
オーギュストの唇は、マリーが魅惑の唇だといった唇だ。たしかに、見れば見るほど、なぜ気付かなかったのだろうと思うほど魅力あふれる唇だ。
デジレは今まで唇についてたくさん調べてきたので、いくらか知識はあった。だからこそ、少し嫉妬を感じるオーギュストの唇を、真剣に見つめてみればその魅力の秘密がわかるのではと最近注目していた。
ところが、色も形も欠点がない彼の唇の秘密は一向にわからなかった。オーギュストの行動を見ても、特別何かをしている様子はない。デジレはぐっと、保湿を怠らない自らの下唇を噛んだ。
「殿下がそうおっしゃるのなら、聞かせていただきます」
「よし、なんだ」
「その、素晴らしいくちびるの秘訣を教えてください!」
オーギュストが、理解できないのか固まった。
デジレは必死な目でオーギュストの瞳を見る。
「……くちびるの秘訣?」
呆然と、いかにもよくわかっていないという顔で呟くオーギュストに、デジレはこれはいけないと握る拳に力を入れた。
「そうです。殿下のくちびるは、魅惑のくちびるだと言われたんですよ。これ以上ない大絶賛です!」
「魅惑って、そんなこと言ったのは誰だ! 唇の話題なら彼女か?」
彼女とはマリーのことだ。デジレは惚れ惚れと唇を眺めていたマリーを思い出して、改めてオーギュストの唇を見つめる。
形も厚みも色も配置も完璧だ。デジレとは、また違う唇。
「そうです! そんなに、教えられない秘密があるのですか! 私も、殿下みたいなくちびるを目指したいのです!」
「……いや待て、デジレ」
興奮気味に、なおも必死の形相で縋り付かんばかりのデジレを、オーギュストが手で制す。そして、彼は真顔で言った。
「お前たちは唇に対して知識があるから、魅惑の唇というのは最上の褒め言葉かもしれないが。知らない者からすれば、褒められても反応に困るどうでも良いことだぞ」
デジレは、オーギュストの言葉にはっとして、立ち上がっていた席におとなしく座った。
「……失礼いたしました」
「や、まあ、な。くちびる同盟だもんな」
しおしおと花が枯れるように勢いが縮んだデジレは、申し訳なさそうに身も縮こませた。
マリーとの唇の話で盛り上がっていたので、唇の話題が頭の中を占めていた。話せばすぐに反応が返ってくる話題が、デジレにはとても楽しかった。デジレも自らの唇の精進は怠らず、マリーには彼女の口紅など選定するくらい、素敵な唇になって欲しかった。
ただ、それは二人の間で通じる話。オーギュストに振るのは間違っていた。
「……しかし、私には非常に大事なことなのです。殿下、教えていただけませんか。なにをしたら、そんな魅惑のくちびるになるのか」
まだ聞くか、と呆れた顔をデジレに向けたオーギュストだが、デジレは悲痛な面持ちをしている。仕方なしに、彼は記憶をたどった。
「いや。特になにもしてないな」
「なにもしていない! そんな馬鹿な!」
デジレが机を叩いてまた立ち上がる。
「馬鹿なって、本当だ。お前たちじゃあるまいし、唇の手入れなどする必要性がどこにある?」
「なるほど、なにもせずとも完璧なくちびるとは……さすがは生まれながらにして王太子ですね」
「本当に馬鹿にしているのか? 処刑台に送るぞ」
オーギュストはそう言って笑った。
「悪いなあ、デジレのくちびるの君に褒めてもらって」
「いや、柔らかさや弾力の触感ならおそらく負けません」
「……ああ、そう。張り合われてもな」
本日一番の真面目具合で言うデジレに呆れながら、オーギュストはまた笑って執務机に戻った。




