57.シトラスの香り
中途半端な美辞麗句より、よほど恥ずかしい。マリーは黙って、熱が冷めるのを待った。
そうしている間に、デジレが足を進める。マリーはゆっくりと顔を見られないように彼についていく。
彼が足を止めたのは口紅が飾ってある机だった。まさかデジレも口紅まで使っているのかと疑えば、マリーの唇の傍に何かが近付けられる。口紅だと思うと、近くで声がした。
「ああ、こういう色も似合うな」
近距離でマリーの顔を覗き込むデジレに、マリーの心臓が跳ねる。折角冷ましかけた頰がまた火がついたように火照る。
何も言えずにいると、彼は口紅を戻して他のいろんな口紅の種類に目を走らせ、考え出した。
「もともとが綺麗なピンクだから、やはり赤い方が」
店員がすっと彼に近付く。真剣な彼に声を掛けると、二人して口紅を見ながら話し出す。
「お連れ様ですと、アプリコットのようなお色はどうでしょう?」
「アプリコット? いや、黄色味が強すぎるかな。もっと赤味があって透明感のあるような色は?」
「それですと、ピンクにアプリコットが入っているお色や、こちらのチューリップ色などいかがでしょう」
ああでもないこうでもないとやけに盛り上がり始めたデジレたちから、マリーはそっと離れた。
幸いにも気付かれず、離れた場所で心を落ち着かせるようふっと息を吐く。
「お連れ様、とても真剣ですね」
若い店員が話しかけてきた。マリーはまだ真面目に口紅を選んでいるデジレの姿を見て、頷く。
「こんなに化粧品に興味を持って、選ばれている男性は珍しいですよ」
そうに違いない。デジレもくちびる同盟なんて結ばなければ、興味を持つことはなかったはずだ。
「お嬢様の本日の口紅は、当店のものですよね」
「あ、はい。やっぱり、おわかりになるんですね」
「はい! と言いたいところですが、実はお連れ様を見てわかりました。なんせ突然見目麗しい青年が来店されたと思いましたら、さくらんぼのような口紅をと言って、買って風のように去っていかれたのですから」
それは印象に残っただろうなとマリーは思う。あれほど目立つ煌めく容姿の持ち主が、しかも男性で単身乗り込んでくれば、印象に残らない方がおかしいかもしれない。
店員は、ふふっと笑った。
「とても記憶に残ったもので。恋人への贈り物かと噂していたのですが、その通りだったようですね。本日のご来店のご様子を見れば、すぐにわかりました。お嬢様のようにこんなに可愛くて、魅力的な唇をお持ちでしたら、また口紅を贈りたくなりますね」
マリーはため息をついた。また、勘違いされている。
まだ選んでいるらしいデジレの背中を見ながら、もう一度息をはいた。
「そうではなくて、彼は好きなんですよ」
「お嬢様を、ですね」
「いえ。くちびるが好きなんです」
「お嬢様の唇を、ですよね」
違う。
マリーは否定をするのも面倒になって、近くの商品棚に目を向ける。そこにクリーム缶よりも小ぶりな缶を見つけて、マリーは自然と近付いた。
商品名にハンドクリームと書かれている。試供品と書かれた缶を開けてみると、ふわりと柑橘系の香りがマリーを包んだ。爽やかですっとする、優しい、よく彼女の鼻腔をくすぐってきた香りを思い出すもの。
よくよく商品名を見てみれば、シトラスの香りと書いてある。
「乾燥しやすい時季になってきましたので、ハンドクリームをお勧めします。シトラスの香りは爽やかで、男女共に人気がある香りですよ」
クリーム缶と違って、白いクリームにマリーは鼻を近付けてもう一度嗅ぐ。安心する香りが、彼女を覆った。自然と笑顔が溢れる。
ハンドクリームを持ったまま、マリーは値段を確認する。そしてわかった瞬間、ハンドクリームをすぐに棚に戻した。
スリーズ家の半月分の食費と同じ価格だった。そうだ高級店だったと思い出せば、クリーム缶や口紅の値段が気になってくる。
「マリー」
一人あわあわとしていると、声が掛けられる。振り返ればいつの間にかデジレが後ろに立っていた。彼は嬉しそうに一本の口紅を見せてくる。赤にピンクが柔らかく混じっている、とろけそうな色だ。
「きっとこれが似合うと思う。つけてみて欲しい」
「えっ、今口紅つけてますよ」
「うん、だから今度。買っていくから」
当然といった口調で言ってのける彼に、マリーは驚く。
「ええっ! 高いですよね! それにもう一本もらっています」
「大丈夫、お金はあるんだ。遣い道も遣っている時間もなかったから。それに、私がこれを付けているマリーを見てみたい」
「そ……それ、他の人に言わない方がいいですよ」
「お金のこと? わかった、言わない」
デジレはただ、唇に興味があるだけ。唇に、自分が選んだ色が映えるのをみたいだけ。
そうマリーは自分に言い聞かせたが、少しだけ胸が痛んだ。




