5.キスの責任
マリーにとってキスは憧れだった。
マリーからすれば、キスは読み続けた恋愛小説に何度も出てきたとてもロマンチックなもので、特に自分のファーストキスはどんなものになるのか、少女らしく期待に胸を膨らませていたのだ。
それがどうやら、そうともわからぬ間に、終わってしまったらしい。
あまりのショックにどうやら本当に涙を零してしまったようで、マリーの視界が少しぼやける。
顔をあげたデジレがはっとして表情を歪める。そして、頭を下げた。
「昨日は、急に口付けたこと……」
謝るのか、とマリーは思った。
今まで読んできた恋愛小説には、キスした後に謝る男性に、女性が涙を流しながら謝らないでと言っていた覚えがある。
マリーには読んだ時も、今も物語の女性の気持ちはわからないが、きっとそう言うべきなのだろう。
マリーは口元に力を入れて、デジレの言葉を待った。
「……光栄に思ってください」
予想外の言葉だった。
「あっ、こっこんな下々の者にキスしていただきまして、大変名誉でございます」
気が動転して出た言葉に、涙が引く。
お互いまた頭を下げあう。デジレは何も言わない。またしてもおかしな空気が場を覆った。
何か言わなければいけないだろうかと、マリーが頭の中でぐるぐると考えていたその時、テーブルに陶器がぶつかる音がした。
「お茶でーす。ごゆっくり!」
リディだ、とマリーが目を向けた頃には、彼女は扉の傍でひらひらと手を振って、ばたんと閉めて出て行ってしまった。
思い返せば、リディも、ジョゼフもおそらく父も、昨日のことは知っていたのではないかと思われる言動だった。
家族の態度と少しずつはっきりしてきた記憶に、マリーは頰をひきつらせる。
「……シトロニエ様は、昨日のこと、覚えてるんですよね」
再び顔をゆっくりあげたデジレは、更に顔色が悪くなっている。病気でないなら、どこか酷い怪我をしているのかと思うほどだ。
「……それが、記憶にありません」
「は?」
「覚えていないのです」
心苦しそうに告げられた言葉は、マリーを混乱させた。
「さっきキスしたって断言しましたよね。覚えてないってどういうことですか」
「最後の方だけ記憶があるので、キスをしたのは間違いありません。しかし、その前後があやふやで……」
心から申し訳なさそうな声で答えるデジレに、なぜこの人は謝らないのかとマリーは疑問に思った。
それと同時に、記憶が曖昧ならばと、良い提案が思いついた。
「だ、だったらわたしも忘れますから、なにもなかったことにしましょう!」
「それは、できません」
早い切り返しに、マリーは少し間をおいてから怒りをみせる。
「なぜですか? なかったことにした方が、シトロニエ様だって都合いいでしょう!」
「二人きりならそうかもしれません。しかしあの夜会で、人目の多いメインホールにてキスをしてしまったので、目撃者が多数います」
「……もくげきしゃ、たすう」
衝撃的な内容に、マリーは反芻しかできない。
彼女がしっかり内容を理解するより前に、デジレが続ける。
「はい。他人の記憶を改ざんすることはできませんし、人の口に戸は立てられぬと言います。あの夜会以来、私のところには知り合いからあれはなんだったのだと問い合わせがごまんときています。既に立派な噂です」
「うわさ」
辛そうに揺らぐデジレのエメラルドの瞳を見ながら、マリーは頭の中を整理する。
そして理解した途端、羞恥とも怒りともとれぬ熱が顔を染め上げた。じっと座っているのに耐えかねて、マリーは勢いよく立ち上がって、デジレを見下ろす。
「な、なんてことをしてくれたんですか!」
じわじわと、収まったはずの涙がまた滲んでくるのを、マリーは感じた。
「わたし、もう夜会に行けないじゃあないですか! そんな、そろそろ身の丈にあった相手探ししなきゃと思ってたのに!」
あんまりだ、とマリーは涙を零す。
ファーストキスをいきなり奪われた挙句、家の為と考えていた相手探しの手段まで奪われた。いくらその相手がとんでもないほどの容姿端麗でも、身分が高くても、やっていいことと悪いことがある。
マリーはデジレを睨み付けた。
彼は沈痛な面持ちをみせて目を閉じたかと思うと、悲壮な覚悟を込めた目で、マリーを見返す。
「責任を取ります」
固い声が、響く。
「私と、結婚してください」
「え、無理です」
反射的にマリーの口から言葉が滑り出た。
デジレは岩で頭を殴られたかのような顔をして、うな垂れた。
「そうですよね……。こんないきなり人前でキスするような男は願い下げですよね」
言葉も、身体も、小刻みに震えている。
男性が目の前で身を縮こませている様子に、マリーは少し戸惑った。
「それもそうですけど、シトロニエ様の存在がもう無理なんです!」
「そ、存在……。そこまで、嫌悪されていますか。申し訳ありませんが命を絶つことはできかねるので、それまでならば好きにしていだだいても」
「あ、そういうわけじゃなくて、えーっと。地位が違いすぎるというか、その」
これから死地にでも赴くのかと聞きたくなるデジレの様子に、マリーは焦る。
命は絶てないとは言いながら、マリーが言えばやすやすと自決するのではないかと思えるほどの謎の覚悟が見える。