43.あっちの味方
冷水が入った桶とタオルを載せたトレーを持って、マリーはジョゼフの部屋の前に行く。扉の奥からはうめき声が聞こえ、マリーは息をついた。
「兄さん、入るよ」
返事の代わりにうめき声が強くなる。マリーは何も言わずに扉を開けた。
部屋のベッドの上では、ジョゼフが唸りながら大の字でうつ伏せになっている。マリーに気付いた彼は顔を彼女に向けたが、姿勢も変えようとして顔を歪めた。
「マリー……」
「もう、何やってるの、兄さん」
無様な格好の兄を、マリーは呆れ顔で見る。彼女はそのまま彼に近付くと、ベッド横のサイドテーブルにトレーを置いて、椅子を持ってきて座った。
「訓練でぼこぼこにされてくるなんて。身体もまともに動かせないなんて、まったくもう」
「ふ、普段はこうじゃない! あ痛たた……」
「普段もこうだったら困るわ。痛む部分はどこ? とりあえず冷やすから」
マリーは腕まくりをして、桶にタオルを浸して絞る。ジョゼフの聞き辛い声を聞き返しながら、マリーはてきぱきと患部を冷やしていった。
ある程度終わると、マリーは先にリディに頼んで置いてもらった籠から果物とナイフを取り出す。
「それで? 兄さんはどんな強い人とたたかったの?」
するすると慣れた手つきで皮を剥いていくマリーを見ながら、ジョゼフは何度か口を動かし、そっぽを向いた。
「側近君」
「誰それ?」
「……デジレ・シトロニエ」
「え?」
マリーが手を止める。顔をマリーに向けずに拗ねているようなジョゼフに、マリーはもう一度問いかけた。
「誰って?」
「だから、デジレ・シトロニエ」
「ええ、デジレ様? なんたってそんなことに……」
言いながら、マリーの頭の中に一昨日の夜会が思い出される。
確か、デジレは騎士団とたたかってくると言っていた。強い者がいるかもしれないと。しかしまさか早速、話をした翌日に手合わせしてくるとは思わなかった。
唖然とするマリーを、ジョゼフは首だけでちらりと見る。
「……なんだよ、あいつ。格好良くて、賢くて、身分高くて、おまけに腕っ節も強いなんて! なんてずるいやつだ!」
大声を出した衝撃で、身体が痛んだらしいジョゼフはうめく。
マリーは笑いを零して、皮を剥き切った果物を一口大に切り分けて皿に置いた。
「兄さん、デジレ様に敵うわけないでしょ。あの人、一緒にいるといろいろ惜しいところが多いってわかるけど、やっぱり文武両道で容姿端麗の完璧に近いんだから。なんでも、近衛隊長さんに勝つみたいだし」
デジレの性格を考えれば、思いついたら即行動と騎士団に挑みにいったのはいかにも彼らしい。彼なりに考えながら一生懸命、マリーの相手探しに奔走してくれているのは、マリーもよくわかっていた。
ただ少し、感覚がずれているだけ。今なら彼は人間らしいと言ってきたベルナールの言葉の意味が、マリーもわかる。
「なんだまさか、側近君に俺とたたかえとマリーが?」
「そんなわけないでしょ。デジレ様がわたしが強い人が好きだって勘違いして、勝手に騎士団とたたかっただけ。おかしいでしょ?」
マリーは果物を載せた皿をジョゼフに勧めた。しかし彼は不貞腐れて顔を背ける。
「……マリーはお兄様でなくて、あっちの味方なのか」
「え?」
「側近君の話。にこにこして、話してる」
「えっ、にこにこしてた? 別に、兄さんが負けてぼろぼろになってるからって喜んではないんだけど」
マリーは自分の頰を引っ張ってみたが、笑っているかわからなかった。
目の前のジョゼフは、拗ねた子どものように大きな身体でマリーを拒絶している。こんな騎士がいて良いのかと、マリーは苦笑した。
「そういえば、まともに聞いたことなかったけど、兄さんはどうして騎士なんて目指したの?」
「……高給だから」
「遊ぶ金欲しさ?」
ぼそりと返事をするジョゼフに冗談で言えば、彼はますます顔を背けてベッドに埋める。これはしばらく口をきかないかもしれないと感じたマリーは、席を立った。
「じゃあ兄さん、わたしは少し出かけてくるから。患部は冷やしすぎたらいけないらしいから、冷えたらタオルを取って。難しかったらリディに頼んでね。あと、ちゃんと食べなきゃだめ。今日は休みなんでしょ、無理しないでゆっくり安静にしていてね」
もうそろそろ、プリムヴェール公爵家から迎えが来る時間だった。腕まくりした袖を直して、側にあった鏡で軽く髪を整える。
ジョゼフが少し、身じろぎした。
「……母さんみたいだ」
気を抜けば聞き漏らしてしまいそうな小声を耳にして、マリーはジョゼフを振り返る。変わらず、彼はベッドに横たわって動かない。
「母さん? わたしがちいさい頃に亡くなったから全然覚えていないんだけど、わたし、どこか似てた?」
不思議そうにマリーは尋ねるものの、ジョゼフはいつもの元気もなく、返事をしようとしなかった。




