4.デジレ・シトロニエ
貴族としてはめいっぱい見栄を張った応接の間は、子爵邸の中で一番広い。
おかげで滅多に使わないのに、マリーは使用人と一緒に頻繁に掃除をしていた。
マリーが座った向かいの客人用ソファーは、最近穴が開いて応急処置をした。当然マリーが座るソファーはもっとぼろぼろで、なんとか誤魔化している状態だ。
買い換えれば良いのだが、使われない応接の間など後回しになる。子爵家には金がない。ジョゼフが給金を家に入れてはいるが、何に遣っているのか少ない。もはやなぜ子爵をまだ名乗れるのかわからない貧乏貴族である。
だからこそ、マリーは社交界デビュー以来まともに社交の場に出ていないのに、昨日は夜会に参加した。
娘一人いるだけでも、身の回りのもので家計を逼迫する。年頃なのだから家のことも考えて、どこかの無難な次男や三男に嫁がないといけない。そしてスリーズ家に助力してくれれば最高だが、家にマイナスに働かない相手なら文句は言わない。
生活なら、贅沢なんて求めない。平凡で良い。
「そう思ってたけど、何があったんだろう?」
食事の時のジョゼフの反応は、いつも以上におかしかった。何かあったに違いないとマリーは感じていた。
恐らく、今から来るという客人が昨日のことに関わっているのだろう。
まだ来ないとぼんやりしていると、いつもよりテンションが高いリディの声が廊下から聞こえてきた。彼女は扉をノックして開けると、ひょっこり顔を出す。
「マリーさま! お客様でーす!」
満面の笑みを浮かべたリディは、客人に入室を進めた。
迎える為に立ち上がったマリーは、その場で硬直した。
部屋に入ってきたのは、一人の青年だった。それはまだ良い。ただ、どこかの彫刻が動き出してやってきたのか、と思うほどの美形だった。
背が高く引き締まった体躯に上質な上着を羽織る姿は、華やかさを抑えた意匠でもなお、かえって彼の美しさを際立たせていた。
一本一本が白く輝く金糸の髪はさらさらとして揺らぐ。向けられる瞳はエメラルドのよう。鼻梁も口も何から何に至るまで、顔の部位が整っていて文句の付け所がない。
彼の髪の色を見て、マリーは思い出した。
全く社交に関わらないマリーの耳にも聞こえてくる、王太子に次ぐ白金の優良物件。
王太子の側近だという――シトロニエ伯爵嫡男の、デジレ・シトロニエ。
雲の上の存在であるはずの客人に、マリーは開いた口が塞がらない。
「……マリー・スリーズ子爵令嬢ですね」
聞きやすいテノールの声が聞こえて、マリーはようやく気を戻した。声まで素敵なんてずるいとどこかに文句を漏らす。
「改めまして、はじめまして。デジレ・シトロニエと申します」
きちりと頭を下げるデジレに、マリーも慌てて頭を下げる。
「ぞ、ぞんじております!」
「……そうですか」
諦めたような声音で、デジレが言う。
マリーが不思議に思ってデジレを見てみれば、彼はその端正な顔が陰る程、顔色が悪い。
「あのう、体調悪いんですか? なんだか顔色良くないですけど」
デジレはゆるゆると首を横に振った。
「いえ、身体は元気です。私は幼い頃から病気ひとつかかったことがありません」
「それはすごいですね」
「ありがとうございます」
「どういたしまして?」
お互い立ちっぱなしで、なんとも言えない雰囲気が漂う。
ともかくとマリーがデジレに席を勧めると、デジレは素直にソファーに腰掛けた。
マリーから見ると、美しすぎるその容姿は、スリーズ家の貧相な応接の間にとても浮いていた。さらにデジレが腰掛けた場所のすぐ傍は、例の穴が空いた場所である。
不釣り合いすぎる。
マリーはぶわりと冷や汗をかいた。
「あの、シトロニエ様が、わたしに何の用ですか?」
そう尋ねると、デジレが膝の上の手に力を込める。
そして、苦しそうな顔で言う。
「昨日の、夜会のことで。お話ししたいことがあります」
「はあ、昨日の」
とても言い辛いことなのか、デジレはマリーから視線を外して俯き気味になる。
デジレの目元を縁取る、長くて白く輝く金の睫毛を見つめて、マリーは綺麗だなあと感じた。
そしてふと、つい最近同じ事を思ったなと思う。
夢のようなものが徐々に思い出されて、ゆっくり靄が晴れていく。
近距離の長い睫毛。
押さえられた頭と腰。押し返したけれど離れない胸板。
そして息苦しさ、くっついた唇。
「まさか、シトロニエ様。昨日キスした、なんて言いませんよねえ」
「しました」
デジレが断言した。マリーは変な笑い声を零した。
「あ、そうなんですか。で、誰にしたんですか?」
「私が、貴女に、しました」
すぐに返事がきた。
再度の断言である。
マリーは顔を両手で覆った。
――そんな、ファーストキスがいつの間にか奪われていたなんて!
マリーは心底泣きたい気分だった。