36.唇の選定
周囲の静かな暗い夜に対して、昼のように明るく賑やかな邸の中。装飾品が明かりを反射して、人が動くたびにきらきらと光が飛び散る、煌びやかな夜会。
その喧騒から少し外れた壁際で、すっかり馴染みの顔となった白金に輝く金髪の美青年と、ブルネットを軽くまとめた少女が、人々の集まりに目をやって同時に悩ましげな息をはいた。
「素晴らしい……」
「本当に……」
うっとりとした目をする二人は、それぞれ別の場所を見ている。
「あのぽってりとした厚く立体的なくちびる。濡れたような真紅の色もこれ以上ない程、くちびるを際立たせている。さすがレザン子爵夫人」
「見てください、オルタンシア侯爵の上唇。完璧な唇のM字の部分です。山のとがりといい、口角への流れといい、理想とはこれと示すようなくちびるですよ」
口元に笑みを浮かべるデジレとマリーは、お互いの視線の先をゆっくり交換した。
「オルタンシア侯爵は愛妻家で有名だ」
「レザン子爵夫人は、夫人ですからね。普通に既婚者ですよ」
二人はしばし、沈黙した。そして、視線は人の集まりから外さず、今度は互いにため息をつく。
「……相手が見つからないな」
「……ですね」
マリーは相槌を打ちながら、遠い目をした。
既に何度もデジレと夜会に参加した為に、すっかりいるのが当然と思われていて、他からの視線はほとんど感じない。今では社交界は新しい噂で持ちきりで、マリーもデジレの友人と顔見知りになって、結婚式に呼んでくれなどの軽口は笑って流せるようになった。
慣れはすごいものだとマリーは改めて感じる。
慣れといえば。マリーは隣に立つデジレを見上げる。
傍にいる美貌の伯爵令息のデジレに、マリーは何度見てもなかなか慣れない。
明かりの下では殊更白金のように輝く柔らかい金髪は目を見張るほど綺麗で、欠点どころか、もはや何が素晴らしいのかわからなくなるほど整った顔立ちは、見るたびに感動する。
例えば平凡な兄のジョゼフでも、百回に一回くらいはふと格好良いと感じることがあるが、デジレの場合は十回見ると八回ほどは綺麗だと思う。
「キスしたくなるくちびる……」
そんな美しいデジレがぼそりと呟く。
他人が聞けば何を言っているかわからないこの言葉は、くちびる同盟の盟友たるマリーにはよくわかるものだった。
お互いに、キスしたくなるような相手を探すこと。つまりは自分の理想の唇を持つ相手を探すというこの同盟目的は、これほどまでに夜会に赴いているのに、互いになかなか難航していた。
「確かにふっくらしているくちびるは魅力的に思えるけれど、あれほど紅く厚くなくていいな」
「わたしも、あそこまで上唇の山がはっきりしてなくていいんですよね。もっとなだらかな方が好みです」
簡単に言えば、見つからなかった。
いろいろ試して、それなりに夜会での役目をこなした後は、人混みから外れた場所で相手を探すという形式に落ち着いた。
あの人の唇はすごい、この人の唇は魅力的とは目に留まるが、ならばキスしたいかと踏み込むと、お互い首を傾げることになる。
最近ではもっぱら、二人で素晴らしい唇の話で盛り上がっている。
デジレが掲げた、人の唇を選ぶならば自らの唇を極めなければいけないという方針のもと、彼は色々調べたり試したりして、効果があった方法や物をマリーに教えてくれる。最初は意味がわからないと敬遠気味だったマリーだが、試してみると目に見えてわかるように唇が良くなるので、すっかりのめり込んでしまった。前回など、デジレがくれた唇用のオイルがとても良く、その話だけして夜会が終わった。
見違えるほど血色の良くなったマリーの唇は、何もしなくても口紅を塗ったように瑞々しく赤い。今日は唇を休める為に裸の唇にクリームだけを塗っているが、自然な赤さの唇が柔らかそうに艶やかに光る。
マリーは少しだけ、自分の唇に自信を持ってきていた。
「もしかして、自分たちで基準を上げちゃっているのかもしれないですね」
「基準?」
澄んだエメラルドの瞳がマリーに向けられる。マリーはその瞳から下へと視線をずらす。
当然手入れを怠らないデジレの唇も、かさつきもなく滑らかで艶がある。
彼の唇は、上唇が薄めだが引き締まっている。二つの山は見て取れるが険しくなく、なだらかに流れる。下唇もすっとしていて、真ん中が少しだけ厚い。口のラインは中央を基準にゆるやかに左右の口角に上がる。バランスが良く、温かそうな印象の唇だとマリーは思う。
そして、色も健康的でほのかに色付いている。まず、他の男性たちの唇とは一線を画していた。
「だって、自分のくちびるにも他人のくちびるにもこれだけこだわってるの、わたしたちくらいですよ」
「ああ、そうか」
デジレの目も、マリーの唇に向けられるのがわかった。マリーは少しだけ緊張して、デジレを見る。
彼が柔らかく微笑んだ。
「今日は素のくちびるか。柔らかそうだな」
ちょっとだけどきりとしたが、マリーは唇を褒められて嬉しくなる。
そういえば、丁寧口調だったデジレも、だいぶマリーに砕けた口調を使うのに慣れてきたようだった。既に普段はほとんど気軽な口調だが、彼の性格からか言葉が冷たく感じることはなく、依頼や命令になるとすぐに丁寧語に戻る。
「そうだ、口紅をつけていないなら。くちびるに触れてもいいですか?」
マリーはデジレの不意打ちの言葉に、目を丸くして固まった。




