35.前を向く
早急にスリーズ邸に戻ったマリーは、早足で自室に向かった。
「あれー? マリーさま、もう帰ってきたんですか?」
リディが気付いて声をかけるも、マリーは無言で足を動かす。強張っている顔と雰囲気に気付いたリディは、黙って彼女を見送る。
部屋の扉を閉めると、マリーは一呼吸置いて引き出しに向かう。強めに引くと、奥に入っていたものが目の前に滑り出てくる。
震える手でそれをつかんだマリーは、目の前の鏡に映る自分を見て、握る手に力を入れた。
薄暮れのほんのり暗い空に、白い月がうっすらと浮かぶ。マリーはその月を見ながら、深く息をはいた。
静かなスリーズ邸前に強めの涼しい夜風が吹き、髪とドレスをさらう。軽く髪を押さえながら、彼女は目の前の道の奥に目を向けた。
何も見えないその奥をもっと見るために、マリーは数歩前に歩く。はき出す息は、少し冷たい。
しばらくすると、車輪の音が聞こえた。
遠くに見える馬車は、小さい影からどんどんと大きくなっていく。マリーはそれをずっと見つめる。
御者が誰かわかるほど近くになると、マリーに気付いたベルナールが、馬車の速度を落とした。彼が後ろを向いて、馬車を止めれば、その中から一人素早く飛び降りる。
全速力で駆けるデジレは、マリーが思ったよりも早く彼女の目の前に到着した。
「マリー嬢! どうされましたか!」
焦った声で尋ねる彼の、風に吹かれる白金の金髪をマリーは見上げた。丁度彼の後ろに月が見え、やはり似ていると思う。
「まだ迎えの時間には少し早いのに、外で待たれていたのですか?」
心配する声がする。マリーは彼の髪から瞳に目を移して、自分の手をぎゅっと握った。
「デジレ様」
「はい。なにか……」
マリーはデジレに向かって頭を下げた。
「わたし、驕っていました!」
しんとした空気に、マリーの声だけが通る。
低い視線でデジレの足元が見える。ためらいがちに彼の片足が僅かに踏み直す。
マリーは外の冷たい空気を胸一杯に吸った。
「被害者だからって、思い上がっていました。酷いことされたんだから、デジレ様がいろいろわたしにしてくれるのは当然だって」
「それは」
「ごめんなさい、一旦わたしの話を全部聞いてください」
デジレが口をつぐんだ。つま先が、しっかりとマリーを向く。
「ずっと怒って、自分には関係ないことだって、デジレ様を恨んだりしました。ずっと態度もそっけなくて嫌ってるって雰囲気に出して」
先日の令嬢たちを思い出す。
彼女たちに好かれるデジレに構ってもらえたのに、興味ないとのマリーの態度はそれは怒りを買ったに違いない。大切な人を無下に扱われたら、マリーだって怒る。
「デジレ様が、ずっと、あのキスの時からずっと、責任とろうと頑張ってくれてたのを無視してました。なにやってるのって、見下していたかもしれないです。わたしの為に頑張ってくれていたのに、デジレ様を見ようとしていませんでした」
マリーローズが言ったデジレを見ていないというのは、マリーにも当てはまる。
気付いていたはずだった。いろんなデジレを取り巻く人からの話で、何度も胸が詰まった。その理由を考えまいとしてきた。
今は胸のつっかえがない。もう一度、マリーは息を深く吸う。
「被害者だからって、相手の気持ちを全否定していいわけじゃないです。……そりゃあやっぱり怒っているし、いろいろ説明不足なところありましたけど。身分差があっても、住む世界が違っても、相手の気持ちを無視するのは、人間として間違ってると思います」
マリーは思い切って顔を上げた。
目の前の美しい顔は、静かに真剣に、マリーに向けられている。
優しい人だ。
誠実な人だ。
馬鹿がつくほど真面目だけれど。
「クリーム缶もドレスも口紅も、ありがとうございました」
マリーを映えさせる新しい青いドレスをぎゅっと握る。荒れが治った採れたてのさくらんぼ色をした唇が、風になびくブルネットの髪から見え隠れする。
「デジレ様。改めて、くちびる同盟の盟友として、よろしくお願いします!」
マリーはもう一度頭を下げた。
デジレは何も言わず、足も動かさない。
怒っているのかと、しかし逃げるものかと、マリーは恐る恐る顔をあげる。
まだ、真剣な表情のデジレがいる。
強めの風が、一つ吹いた。
マリーは視界に泳ぐ自分の髪を見ながら、月明かりに映える目の前の麗人を見つめる。
きれい。
思うがままに素直に言葉にすると、デジレがゆっくり距離を縮めてくる。
すっと大きな硬い手がひとつ差し出されて、マリーの頰に軽く添えられる。
目を丸くしてマリーがデジレを見れば、デジレは澄んだエメラルドの瞳を細め、柔らかく、優しく、嬉しそうに微笑んだ。
「やっぱり。その口紅、よく似合っている」
風が二人を包む。シトラスの香りが風に乗る。
なびくマリーの髪は、デジレの手に当たって、唇にはかからない。
そう、デジレはただ単に、口紅の色をよく見たかっただけ。
心臓がとくんとひとつ跳ねたのは、先程からどくどくと早鐘を打つのは、恥ずかしいことを告白したせいだ。
マリーはそう、自分に言い聞かせた。




