29.感謝して
早々に帰路についた為、スリーズ子爵邸に着いたころはまだ外は真っ暗ではなかった。
マリーが馬車から降りると、デジレも降り立つが、彼はやけにちらちらと彼女を見てきた。なにか言いたいことがあるのかと、マリーは黙って見返す。
しばらくすると、彼は決心したような顔をした。
「少し、いいですか」
返事を聞く前に、デジレがマリーに近付く。
なんだろうと思うと、彼の手でいきなり顎を持ち上げられる。視線が上がったと思えば、デジレの顔が至近距離にぐっと近づいて、マリーはひっと声を漏らした。
視界いっぱいを人並み外れた美貌が占める。さらりと肌を撫でる白金の金髪と、同じ色の睫毛が月光に映える。キスされた時はいきなりのことで理解が出来なかったが、今回は目の前ではっきりとわかる彼の美しさに、マリーは息を止めた。
近くにある彼の整った鼻梁を自然と目でたどって、形が良く引き締まっている唇までたどり着くと、デジレはさらに顔を近付けてくる。自らの唇が見られていると感じて、マリーはぎゅっと目を閉じた。
「……やはり、くちびるが少し荒れている。クリームは効果がなかった?」
デジレの言葉に、マリーは目をぱちりと開ける。顎をとらえる彼の手を取ると、思い切り引き離した。
「やめてください! あれは使っていません!」
「え、何故」
「何故もなにも……いりませんし」
じりじりとマリーはデジレと距離を取る。冷たい夜風が、少し熱くなった頰を冷ましていく。
「そうか……。あげたものだから、どう使っても構いません。もちろん、使わなくても」
見るからにデジレがしょんぼりとする。
またしても胸が苦しくなるのを、マリーはなんとか無視しようと彼を強く睨む。
「あの」
「なんですか!?」
「先程くちびるを見て感じたのですが」
マリーはさらに彼から距離を取る。それでも先程と同じように唇を近くでじっと見つめられる感覚がして、とっさに手で唇を隠した。
「今日の濃いラズベリーの色合いよりも、もっとほんのり赤く鮮やかで瑞々しい……内側から滲むような、さくらんぼみたいな口紅の方が似合うと思う」
「え」
マリーは両手で口を覆った。手の下では、指摘された唇を噛む。
怒りなのか、戸惑いなのか、呆れなのか。もう彼に対して湧き上がる気持ちがよくわからなくなって、マリーは助けを求めるように邸の方に顔を向けた。
デジレはその彼女の様子に気付いたようで、馬車に乗る。
「ここ数日お付き合いいただき、ありがとうございました。次回までは少し期間を空けていますので、ゆっくりしてください」
口を塞いだ状態で目も合わせず、マリーは何も言わなかった。
気付けばデジレはいなくなっており、周りは既に夜の帳が下りていた。
デジレの言う通り、夜会予定表を見直せば、彼が気を遣ったのか次回まではいくらか日が空いていた。マリーはため息をついて、紙を畳む。
「マリーさま。本当に着ないんですか?」
「着ないって言ってるでしょ」
リディがクローゼットを開けながら、むくれる。その中には、先日の仕立屋が完成したと納品した鮮やかなドレスが五着並んでいた。
いらないという暇なく置いていかれたドレスは、着たこともないような華やかさではあるものの、上品で洗練されたデザインだった。
それをみて大喜びのリディに、最初から決めていたように着ないと宣言すれば、彼女は文句を言い始めた。それからずっと、本当に着ないのか何度も聞いてくる。
「もったいないですよー! せっかくデジレさまがマリーさまのために手配してくれたのに。その口紅だって」
つい先程届いたばかりで机の上に置いてあった口紅を、マリーは素早く引き出しの奥にしまった。
添付されていたカードだけが残り、『使わなくても構いません』という文面が目に付くと、それもすぐに引き出しに入れる。
「だって、わたしは頼んでないし」
「えー、頼んだものしかいらないんですか? マリーさまきびしい! 頼んでないのにくれたものって、あげる人のことを考えてるから、気持ちがこもってるものだと思いますよ。デジレさま、マリーさまに使って欲しかったんじゃないですか?」
「いいの、まとめて返すから」
「ええー! デジレさま、かわいそう。使ってもらえないだけじゃなくて、返されるなんて。マリーさまが喜んでくれるかなって、きっと思ってたんですよ! 好き嫌いはあると思いますけど、せめて感謝だけはしてくださいよー!」
マリーは引き出しの上から、口紅と同じくしまったクリーム缶があるだろう場所をちらりと見る。同時にしょげたデジレの姿も思い出されて、マリーはその姿を頭から追い出すように首を振った。
「とにかく返すから。今そんなことより大切なのは、公爵家へ行くための準備でしょ!」
手元にある、プリムヴェール公爵家の手紙をぐっと握る。




