19.ルイ
お互いしばし黙って一息をつくと、マリーは身体の重さに気付いた。
肩が重く、背中も痛い。今まで緊張で気付かなかったようだが、全身が酷い疲れを訴えていた。
それも仕方がないとマリーは思う。
ここまで怒涛の展開だった。先日の夜会を除いても、迎えに来た嫌な人と馬車に乗り合わせ、急に噂を上書きするとよくわからないことを言われ。そして案の定針のむしろのような夜会に突撃させられ、住む世界が違うマリーローズに会わされ。皆の前で恥ずかしい過去を暴露されて、デジレに好かれていると勘違いされ。
どう考えても、邸で恋愛小説を読むのが最近の楽しみだったマリーには、荷が重すぎた。よく今まで耐えたと思うほどだ。
「あの、デジレ様。……すごく疲れたので、しばらくひとりにしてくれませんか」
だいたいの疲れの原因は、目の前の美青年である。
今までの流れを思い出せば思い出すほど疲れてきたマリーは、もはや彼を睨む力もなかった。
「あ、気付かずに失礼致しました」
デジレは慌てて、周囲を確認する。当然、背後の邸からの視線も気付いたようで、彼は正面を指した。
「私はこちらで誰も来ないよう見張っていますので、この庭の奥へと進んでください。何かありましたら、声をあげてください。すぐに駆け付けます」
「あ、はい」
マリーはふらふらしながら、宵闇の庭の奥へと進んでいった。
デジレの姿が木々に遮られて見えなくなると、ようやくマリーは溜まっていた息をはいた。
そこそこ奥までくると、邸の喧騒も聞こえない。静かな夜でようやくマリーは落ち着いてきた。
夜風が冷たく、興奮していたらしい身体を冷ましてくれる。さわさわと草木が擦れる音が耳に心地良い。
マリーが望む平凡な生活は、人にいつもひそひそとささやかれるものでなく、自然いつもささやかれるこういうものだった。
目を閉じて自然を感じる。
無作為に聞こえる木の葉の音や、どこで鳴いているのか低くてゆっくりした鳥の声が聴こえてくる。
しかし、急に近くでがさがさと音がした。
「やっと、離れた」
ぬっと姿を現したのは、体格からみて男性だった。
マリーからはある程度離れていたので、彼女は小さな悲鳴をあげながらも数歩下がる。
怖がりながらも、彼を観察する。
暗闇でとても見にくいが、声からして若い青年だと分かる。髪色は闇に溶けていて、マリーのブルネットよりも濃い。目は開けているようだが、深い色のようではっきりとはわからない。
「君がスリーズ嬢?」
彼は固まるマリーに、優しく声をかけた。
マリーは答えずに、彼を見張る。
「会いたかった。夢に見るほどに、君に」
マリーはぽかんとして、しばらくして頰をぽっと染めた。
彼の言葉は、しみじみとしていて心がこもっていた。本音なのだと、マリーは直感した。
それに夢に見るほどなど、なんとロマンチックな言葉だろう。まるで恋愛小説のヒーローのようだ。マリーは今、ヒロインになったような心境だった。
しかし、会いたいと思われる心当たりはない。ぽーっと余韻に浸りながらも、マリーは彼が誰が必死に考えた。
すると、彼に優しく手を取られる。いつの間にやら距離を詰めていたらしい。
彼は掬った彼女の手の甲に、口を近付けた。
「……きゃっ!」
驚いて手を引き、彼と自分の手の甲を交互に見る。
彼がふっと笑ったと感じた時、遠くからマリーの名前を呼ぶ声が聞こえた。
デジレだ。早い足音が近付いてくる。
「ああ、気付かれたか」
彼が残念そうにマリーから距離を取る。現れた場所から去るのだと気付いて、マリーは慌てて言った。
「あの、どなたですか?」
「ルイ」
それだけ青年――ルイは告げると、闇に紛れて姿を消した。
同時に、デジレが走り寄って来る。
「大丈夫ですか!」
マリーは呆然とルイの消えた方を見てからしばらく、ようやくデジレに向かって頷いた。
「悲鳴が聞こえたが」
「あ……ちょっと、葉っぱに手のひらが触れて、びっくりしただけです」
「……そうですか。何事もないなら良いですが」
マリーはルイの消えた方向をぼんやりと眺める。それを、デジレは黙って見据えた。涼しい風が、吹き込む。
「今日は、もう帰りましょうか。貴女もお疲れなことだ」
「はい……」
夢うつつという言葉が合うようなマリーの姿に、デジレは軽く眉をひそめる。
マリーは何度もルイの言葉と名前を心の中で繰り返し、どきどきとした気持ちを味わっていた。
しかし、ルイなど聞いたことがない。そういえば詳しい人がいたと、マリーはデジレに微笑んだ。
「デジレ様は、男性貴族に詳しいんですよね?」
「ええ」
「あの……じゃあ、ルイ様って、ご存知ですか?」
デジレは首を傾げた。
「知っていますが、ここでお会いしたのですか? もう隠居している六十代の方ですよ」
「違います! そのルイ様じゃなくて、デジレ様くらいの若い!」
「え、若い? あとは五歳児のルイしか知りませんが、私と同じくらいの?」
デジレは、あだ名だろうか他国の人間かとうんうん唸る。
そんな彼を見て、マリーは別に誰でも良いかと思い直すことにした。




