14.いざ、夜会へ
デジレはしばらく挙動が落ち着かなかったが、思い出したように声を出すと、なにやら漁り出す。
「そうだ、これをどうぞ!」
差し出されて反射的に受け取ってしまったのは、小さな丸い缶だった。シンプルなのに、どこか可愛らしさを感じるそのデザインは、女性向けとわかる。
「これ、なんですか?」
「くちびるを保護するクリーム缶です。姉から譲ってもらったものが効果が高かったので、貴女にも。もちろん使用途中品ではなく、新品です」
マリーは手元の缶とデジレを何度も見比べた。
彼はこの女性向け化粧品を使ったととれることを言ってなかっただろうか。
じっと缶を見つめて、思い切って開けてみると、薄い黄色の柔らかそうなクリームが入っていた。
「これで、かさつきは治りました」
マリーは目を、彼の唇に向けた。
引き締まっている形の良い唇は、たしかに桃色で張りがある。かさついていたかの記憶はないが、健康的で綺麗な唇だった。
「くちびる同盟の加盟者として、人のくちびるを選定していくのなら、まずは自分のくちびるを納得できるものにするべきです」
「はあ」
力説するデジレに、マリーは缶を見ながら、やはりこの人は真面目馬鹿だと改めて感じた。
気付けばベルナールが到着を告げた。
差し出された手を、今回はさすがに取って、マリーは降り立つ。
出発前は空にまだ明るさが残っていたが、今はすっかり夜の装いだ。目の前の男爵邸から漏れる光が眩しい。
幻聴か、現実か、邸の中から人の笑い声が聞こえる。マリーは生唾を飲み込んだ。
「それでは、私は待機しておりますので、ごゆるりと」
「よろしく」
振り返れば、何か話をしていたらしいデジレとベルナールが頷いている。
ベルナールはデジレのタイをさっと整えると、馬車に乗って去っていった。
開催時間ぎりぎりに来たのか、周りには誰もおらず、マリーとデジレだけが立っている。
「ここまで来ていただけて、助かります」
デジレが出迎えと同じような言葉を言った。
「私一人で夜会に乗り込み、噂を変えようかと思いましたが、効果は薄いと思われました。辛い思いをさせるとは思いますが、私が出来る限り守ります」
「そうですか」
どうして辛い思いをしなければならないんだろう、とマリーは切なく思う。守るという言葉は、恋愛小説で何度も見たとてもロマンチックな言葉なのに、今のマリーの心には少しも響かなかった。
「耐え切れないようでしたら、ベルナールの元へすぐに逃げてください。ここから奥の方に待機させてありますし、貴女が来たならば、すぐにスリーズ邸まで走らせるよう伝えてあります」
その場合、取り残されたデジレはどうなるのかと考えが頭をよぎったが、マリーはそんな心配を追い払った。
「……わかりました」
「それでは、手を」
ためらいがちに差し出した手は、デジレに取られて彼の腕に添えられる。男性の腕らしい硬めの感触が手に伝わって、マリーの身体が固まる。
心臓がどんどん早く音を鳴らす。
「爪を立てても、つねっても、力一杯引っ張っても構いません。嫌だとは思いますが、できる限り、私の腕から手を離さないでください」
「は、はい」
「前に進みますよ」
デジレが一歩踏み込むが、マリーは足が動かない。手だけが彼に従って引かれる。不安げな顔を、振り返ったデジレに向ける。
彼はすぐに一歩戻ると、マリーの顔を窺って、宥めるような声で言った。
「大丈夫です。落ち着いて、深呼吸をしてみましょう」
デジレの合図に従って素直に息を吸うと、どこかで嗅いだことのあるシトラスの香りで胸いっぱいになる。更に心臓が早鐘を打ち、マリーは慌てて息を吐いた。
あまり緊張が取れない。無意識にデジレの手首を反対の手でぎゅっと握る。握った手から小さいが、マリーと同じようなリズムを感じた。
あれ、と真横のデジレを見遣る。
「もしかして、シトロニエ様も緊張してます?」
デジレは少し目を見開いて、困ったという風に髪を掻いた。
「女性に悟られるなど、お恥ずかしい。……ええ、ほぼ夜会など出席しませんし、こういう場は得意ではありません。それに今回の目的をうまく遂行できるかと、多少緊張しています」
彼はマリーと同じように、深く息を吸って、吐き出した。
「心配事を頭の中で繰り返すくらいなら、解決の為にひとまず行動しろ。父の言葉ですが、一理あると思います。とにかく、やってみます」
マリーの鼓動は早い。手から伝わるデジレの鼓動も変わらず早い。
マリーはさらに手に力を入れて彼の腕を掴むと、頷いた。
「では、いざ。参りましょう」




