可愛い婚約者③
一息はき、デジレはソファーに座ろうと向かった。近くのテーブルにはポットと菓子がどんと置いてある。気を遣っているのか遣っていないのか、見るからにセルフサービスのポットを取って、空のカップに注ぐ。
心を落ち着かせようと湯気が立つ紅茶の香りを堪能していると、ノックとともに扉が開いた。
ゆっくりした足取りで部屋に入っていたマリーは、視線と肩を落としている。髪型は、結い直したのか先程より簡単なものになっていた。
「すみません、お待たせしました」
元気のない声でデジレの目の前に座った彼女は、彼を見ずに髪をいじっている。
「気にしないで、どれだけでも待つから。それと、髪型を変えたのか」
マリーが小さく顔を動かして、僅かに頷いた。片手が下がって、首元に触れる。
「今の髪型も可愛いけれど、最初に見た髪型、もっと見たかったな。今度、またしてくれる?」
笑顔でデジレが言えば、マリーは完全に手を下ろして、はにかんだ。
「はい」
落ち込んだ顔からじわじわと、恥ずかしがりながらも笑顔になっていくマリーの顔は、太陽が雲から覗いたように眩しい。
この場にはデジレとマリーしかいない。青い目にはデジレしか映っていない。向けられる笑みに可愛い、と思いながら、デジレは今まで培った笑顔で取り繕う。
この笑顔は自分に向けられたものでないと、必死で自制していた時が懐かしい。勘違いでない明らかな好意の眼差しを全身で受けると、デジレは心が鷲掴みにされて、湧き上がる気持ちを抑えるのにとにかく一生懸命になる。
よくわからなくて何度も苦しんだ気持ちに、はっきりと気付いて名前が付くと、待っていたかのように爆発しそうなほどどんどん膨れ上がった。しかも、マリーからも同じだと言われては、いつも暴れ出しそうだ。既に周りに言われているが、デジレもさすがにそのまま気持ちを出すのは嫌われるかもしれないと、抑えている。
それでも、好きという気持ちはあふれ出す。ひたすら心の中で何度も叫ぶ。
「あの……」
急にマリーがおろおろしはじめた。真っ赤になって、艶やかな唇を閉じては開いている。
不思議に思っていれば、彼女は目をぎゅっと瞑ってから、ぱっと開ける。
「わたしも、好きです……!」
デジレは呼吸を一瞬忘れた。
心をふるふる震わせながら、口元をぴくりといちどだけ動かせて、盛大に心で可愛いと絶叫する。
わたしも、と言うことはどうやらデジレの心の声が言葉として漏れていたようだ。しかしそれを受けて、照れながらも一生懸命返してくれるマリーがとにかく愛らしい。なんでも受け入れて、応えようとしてくれる姿がひたすら愛おしい。
やっぱり、待てない。
「マリー」
「はい?」
「早く結婚したい」
「……ええっ?」
ぱちぱちと目を瞬いて、赤みが残る頰をまた綺麗に染め直し、マリーが口元に手を触れる。
「婚約中ですけど……」
「ごめん、待てない」
うう、と口ごもりながら、マリーが身を縮こませて俯いた。耳まで真っ赤になっている。
嫌がってはいない。デジレはすぐに見抜く。嫌がる彼女は出会ってしばらくの時に散々見てきたので、自信があった。
嫌な気持ちを抱いていないなら、とデジレはじっと、ひたすら黙ってマリーの言葉を待った。
マリーがもじもじと、身じろぎする。
「わ、わたしも」
小声だが、この場にいるデジレにはしっかりと聞こえる。聞き逃すものかと、なお彼はまっすぐに彼女を見つめる。
「早く、デジレ様の、お……奥さんに、なりたいです」
奥さん、と言葉が出そうになったが、デジレはなんとか飲み込んだ。
マリーがそうなるのか、と思えばにやにやしそうになる。今まで特に何も思わなかった言葉であるのに、途端にこれ以上ない素敵な響きに感じる。
なにより、マリーも同じだと言ってくれた。天にも昇る心地だ。
「でも」
マリーが青い目をデジレと合わせる。
「でもいま、婚約者ですけど、恋人でもありますよね。夫婦になったら、恋人には戻れないので、恋人期間をデジレ様ともう少し楽しみたいんです」
マリーらしい。デジレは思う。
彼女は恋愛小説が好きだと聞いた。そういう物語のような恋を夢見ていたとも聞いた。
ならばその恋愛小説なるものの勉強しようかとすれば、マリーに慌てて止められた。読まなくても、その中で憧れていたことはデジレに自分からお願いすると、彼女に言われた。
実際、物語の恋人がそうしていたからと、手を繋いで歩きたいと言われ、突然名前を呼んでほしいとねだられたり、背後から抱きしめてほしいなど可愛らしいお願いはあった。応えてあげると本当に嬉しそうにするので、デジレとしては文句などあるはずがない。
「好きな人と恋人になるのって、すごくいいなってずっと思っていたんです。……駄目ですか?」
瞳がうるうると輝く。唇がつやつやと光る。
マリーに可愛い顔で頼まれて、デジレが断れるはずがなかった。
「そうか、うん。いいよ。そうしよう」
「あ、ありがとうございます!」
ぱっと明るくなった顔に、柔らかく笑みが浮かぶ。
時が過ぎれば、結婚することは間違いないのだ。デジレの好きな笑顔を前に、彼はこれでいいのだと必死に自分に言い聞かす。
そうしていれば、マリーがあっ、と声を漏らした。
「どうしてもデジレ様が早くしたいんでしたら、わたしが周りを説得しますから、言ってくださいね。わたしも、結婚したいですから」
一体どれだけ、好きにさせるのだろう。デジレは熱い息をはいた。
奥歯を噛み締めたくらいでは耐えきれない想いに、心が焼けていく感覚がする。
この場がスリーズ邸ではなければ、などと思いながらも理性と自制心を総動員して、マリーに笑顔と同意の一言を返す。
彼女は、デジレだけに見せる、満開の花のような顔をした。
だめだ、敵わない。可愛い!
デジレは突っ伏しそうになる身体をなんとか持ちこたえた。
マリーに頭が上がらないが、それでも良いかもしれない。
密かに掛け合って、婚約期間の短縮をしよう。
デジレはマリーを前に、そう強く決意した。




