可愛い婚約者②
仕事を早々に切り上げて、デジレはまっすぐにスリーズ邸に向かった。
婚約を進めている頃から、デジレは仕事において絶好調だった。とにかく捗り、舞い込む事はすべて完璧に素早く対応できた。調子に乗って、頼まれない事さえ手を出すほどだ。
マリーとの仲を応援してくれたオーギュストは、婚約の準備からデジレのしたいようにさせてくれた。自分のやるべき事が終わるならば、途中で抜けても、さっさと帰ってもなにも文句を言わなかった。今になってもそれは変わらず、むしろ早く帰らなくて良いのか聞いてくる。
本当に、オーギュストは気遣いができる素晴らしい主人だとデジレは感心していた。
既に行き慣れたスリーズ邸に入れば、侍女がはーい、と言いながら出てきた。
「いらっしゃいませー。マリーさまならもう少しで来ますよ」
にこにこしているマリーの侍女は、デジレはとっくに顔を覚えているが、未だに名前は覚えられない。マリーの周りの女性くらいは名前を知ろうとしているが、まだできなかった。本人に何度も聞けないので、またマリーに聞こうとデジレは心に留める。
そうしているうちに、部屋の扉が開き、マリーがデジレを認めて、ぱたぱたと走ってきた。
柔らかいアプリコット色の裾をなびかせて、デジレに近付くにつれどんどん嬉しそうに笑顔が広がっていく様子に、デジレもつられて笑う。なにやら結った髪の後ろを手で気にしながら、彼女は少しだけ頰を染めた。
「デジレ様、こんばんは」
「こんばんは」
「お仕事お疲れ様です」
デジレが婚約後に贈った普段着を纏い、婚約前に贈った口紅を差し、にこっと笑顔を向けてそう言ってくれる彼女に、デジレはにやけそうになる。
今のようにマリーに労われるのは幸せだ。帰るたびに彼女が迎えてくれたら、と考えると早く一緒に住みたいと思う。今もなかなかの頻度で会っているものの、さすがに常に一緒というわけにはいかない。
すぐに結婚したい思いが、より強まった。
「あの、立ち話もなんですから」
少しそわそわしているマリーは、髪に手を触れようとして、何度も止める動作を繰り返していた。
その様子に、デジレはすぐに気付いた。今日のマリーは、髪をまとめていた。今までよりも複雑だが上品に編まれ、髪留めが飾る。どうやら髪型を頑張ったようで、気にしているようだった。
デジレとしては、マリーというだけで問答無用で可愛いのだが、そのいじらしい姿に褒めようと口を開いた。
「マリー」
弾けるような音がした。ブルネットが、ふわりと彼女の頰に掛かる。
デジレは息が止まった。
「あ」
小さな金属が床に落ちた音が響いた。
マリーが慌てて髪を抑えながら、落ちた髪留めを拾う。
「あっ、あの、付け直してきます! リディ、ご案内してて!」
焦り声でそう言ったマリーは、デジレに目もくれず部屋に走り去った。侍女がのんびりとした返事をする。
デジレは、その場に突っ立ったまま、口に手を当てて彼女を見ていた。
髪留めがとれて、マリーの髪が一房、顔に柔らかく流れた時。その髪が、紅い唇に触れた時。
色っぽいと感じた。つい、見とれてしまった。
そうはっきりと自覚すると、顔がじわりと赤くなる。
「じゃあデジレさま、ご案内しますねー。といっても、いつもの場所ですけどね」
胸から込み上がるものを抑えながら、デジレはなんとか侍女に頷く。なにやら彼女はおかしそうな明るい笑い声を零して、歩き出した。
そういえば、とデジレは先を行く小柄な彼女の背中を見る。
「貴女は、マリーについてこないのか? 一緒に来てくれれば良いのに」
嫁ぐにあたって、侍女は連れて行かないとマリーが言っていた。その姿はどこか寂しげで、侍女ひとりくらいついてきても問題ないのにとデジレは思っていた。
くるりと振り返ったマリーの侍女は、きょとんとしてから笑った。
「誘ってもらえるんですか? ありがとうございます! でもあたしがいないと、このスリーズ家はちょっと回らないんですよねー」
彼女は大袈裟に胸を張る。
「ここ、使用人少ないですからね。使用人がいなくてもマリーさまが家のこと全部できるんですけど、お嫁にいきますし。旦那さまとジョゼフさまだけになったら、どうにもならないです」
デジレはマリーの父と兄を思い出し、確かにと呟いた。そして、侍女の言い方からするに、スリーズ家で大きな役目を担っているマリーを連れていくことに、少し罪悪感を覚えた。
「ですから、マリーさまはひとりでデジレさまのところにいくんですよ。歓迎されてるみたいですけど、マリーさまはデジレさまだけが頼りです」
侍女の目が、うっすら細められた。
心を見透かされて釘をさされた心地がして、デジレは言葉が出ず、ただ首肯する。
「ジョゼフさまは、マリーさまにいつでも家に帰ってこいって言ってますけど、こっちに帰ってこないのが一番なんです。だって、マリーさまがデジレさまの家へお嫁に行くって決めたんですから。こっちはあたしがいるので大丈夫ですから、マリーさまが戻ってこないよう、お願いしますね」
「もちろん」
はっきりと言い切る。そして、デジレは心を引き締めた。
マリーともっと近付きたい、一緒にいたいというのは、デジレが主体の彼が幸せになるための思いだ。結婚をするなら、自分だけではなくマリーも幸せにすべきで、デジレはそうしたいと思う。その決意は忘れたことはなかったが、ここしばらくは浮かれていて薄れていたと、彼は手に力を入れる。
「必ず。帰りたいなど思わせない」
侍女は、そのデジレの返事を聞いてにいっと笑った。そして、到着した部屋の扉を開ける。
「じゃあ、マリーさまを待っててくださいねー」
素直に従い部屋に入る。彼女は、まだにこにこして動かずに扉を抑えている。
「あ。ジョゼフさまに、デジレさまがマリーさまに会いに来るときは、絶対に同席して見張れって言われてるんですけど。あたし、やることたーっくさんあるので」
彼女は、デジレに手をひらひらと振った。
「あたしがクビにならないように、お願いしますねー」
また、しっかりと釘を刺された。
軽い音とともに閉められた扉を見てから、デジレは顔を手で覆った。




