可愛い婚約者①
デジレ視点
今日の夜空には雲ひとつなく、月が静かな夜に映えている。
馬車の窓から射し込む月光に包まれて、はっきりと、しかし一瞬で消えてしまいそうにほんのり輝く婚約者の手を取って、デジレは降り立つ。青いドレスが重さを感じさせずに揺れる。
シトラスの香りを放つ彼女の手は、デジレと同じ種類の香りであるはずなのに、甘い。最近はやけにその香りに、意識が向いてしまう。
「デジレ様、ありがとうございます」
マリーの声に我を取り戻す。笑顔の彼女の後ろにはもうスリーズ邸がある。名残惜しそうに添えた手が離されたと思ったのは、彼が離したくないと思ったからかもしれない。
「今日もデジレ様といられて、とても充実した幸せな時間でした。次も楽しみにしていますね」
滑らかで柔らかい桃色の唇が動いて、最後には綺麗に弧を描く。青い瞳もデジレに向けられたまま、そっと細められる。その笑顔は、彼にはとにかく輝いて見えた。
「うん、こちらこそ」
同じように微笑みを返し、デジレはマリーの右頬へ顔を近付ける。彼女の柔らかい頬と、自分の右頬を触れ合わせる。目の前に見える小さな耳に向かって、唇でちゅっ、と高い音を鳴らした。
頬から、彼女がぶるっと震えた感覚をとらえ、デジレは満足して顔を離す。
最近になってはじめたこのキスは、実際に頰に唇を触れるよりもマリーが可愛らしく反応するので、つい続けてしまう。
彼女は目を潤ませて、少し眉を下げてデジレに顔を向けている。じっくりとその視線を堪能して、デジレは自然と笑った。
「それじゃあ、おやすみ」
今日はぐっすりと眠れそうだ。そう、満たされた気持ちで彼女に背を向けると、急に服が引かれた。
不思議に思って顔だけデジレが振り返れば、マリーが彼の服の裾をちょっとだけ握っている。
なにかあっただろうか。そう思って彼が身体ごと彼女に向き直す。
上目遣いでデジレを見ているマリーは、そっと自らの下唇に人差し指を添えていた。
「こっちに、ちゃんとしてほしいです」
雷で打たれたような衝撃が、デジレの身体中を走った。
薔薇色に頬を染めて、ゆっくりと目を閉じるマリーに言葉が出ない。指し示す唇から零された甘い小声が、何度も頭の中に響く。
なにかを飲み込んで、デジレはマリーの両腕をそっとつかんだ。近付きすぎないよう、離れすぎないよう、距離を取って、誘われるかのように花に顔を寄せる。
本当に触れるだけ。すっと触れ合わせて、その場から引く。名残惜しさに動きが緩慢になる。
手を離せば、マリーはまた唇に指をあてた。そして、花開くように顔を綻ばせる。
「……おやすみ。良い夢を」
「はい、おやすみなさい」
マリーはそう言うと、邸に小走りで向かっていく。途中デジレを振り返って、秘密を見つけた子どものように笑い声を零す。
青いドレスが見えなくなるまで、デジレはその場から一歩も動かず、彼女を見送った。
マリーが邸に戻ったのを見届け、デジレは無心でその場から離れた。
ベルナールが待機している馬車まで、速足で進む。目の前までくると、彼は身体を震わせ、馬車の本体に頭を預けた。
「マリーが可愛い!」
心から叫びながら、デジレは腕で馬車を叩く。大きな音と馬のいななきとともに揺れ、驚くので止めてくださいとベルナールがたしなめた。
デジレはもう一度馬車を殴る。へこんだような鈍い音がした。
「可愛すぎる!」
「よろしいことではありませんか」
そうだ、よろしいことだ。デジレは手を強く握る。
もともと可愛いと思っていたマリーだが、さらにひときわ可愛くなった。容姿も、行動もとにかく可愛い。可愛くて仕方ない。語彙が可愛いしか出てこない。
そのせいで、マリーに男性が近付くようになった。デジレにはまったく女性が寄らなくなったのに反比例するように、彼女にたかる。
マリーが光り輝くのは、大いに結構だ。存分に煌めいてほしいし、デジレが輝かせたい。それに惹かれて群がる男性は仕方ない。デジレも彼らと同じだと思ったことがある。ただし、彼女がデジレに向けてくる目を、他の者に譲る気は全くない。
想いを確かめ合った後、噂の放置に気付いた。誘導して広めた嘘の噂は、今ではすっかり周りに定着していて、事実となっていた。ほとんどの人々が二人を応援してくっつくことを望んでいるこの状況を、いかそうとすぐに決めた。
家族に素早く根回ししたが、言うまでもなく大賛成だった。なぜか義兄までもがマリーを気に入っていた。国王と王妃にも話を通して、最優先で婚約を整えた。
周りを固め、これで牽制になると、一安心したのだが。
「紳士でいるのが、辛い」
「まあ、以前よりは幸せな悩みですよ」
マリーは、何も言わなくてもキスを受け入れてくれるようになった。顔を離した時に見せる、照れた顔がとても可愛い。
まれに、マリーからデジレにキスをしてくれる。してほしくて、何度かキスを我慢したことがあるが、だいたいデジレが耐えきれなかった。
最近、ついにマリーがキスをねだってくるようになった。その衝撃力と破壊力たるや、デジレの想像を遥かに超えた。
彼女と婚約してから、家族や知り合いから、結婚するまでは節度のある交際を、と強く言われてきた。女性には紳士であるのが当たり前と教え込まれたデジレは、何を今更と思いながら聞いていた。
しかし今、キスをマリーから求められるようになっても、デジレはまだ足りないと感じてしまう。
「早く結婚したい……」
婚約期間は、オーギュストたちを考慮して、それでも彼らの半分である一年半に決まっていた。
まだ、三か月も経っていない。デジレには、長すぎた。
「婚約者ですから、そう思ってもおかしくないのでは?」
ベルナールが呆れた声で言う。デジレはまだ頭を馬車に預けながら、唇を噛む。
好きになった相手が、自分を好きになってくれて、結婚してもいいといってくれるなんて奇跡だとデジレは思う。運命的だとも思う。そのまま、何事もなく結婚まで進めばいい。だが、今までのことを考えれば不安がある。
「そうだ、マリーに話そう」
ばっと、デジレが顔を上げた。その顔は、苦悩していたのが嘘のようにすっきりしている。
「何を話すのですか?」
「私の気持ちを。すぐに結婚したいということを伝えて、婚約期間の短縮の話をする」
よし、とデジレは拳を握る。
なるべく何事も互いに話すよう、マリーと決めていた。なにより婚約や結婚は、ふたりの話だ。
うじうじと考えるより、直接伝えてマリーの気持ちも確認した方が良い。
そう思うが否や、彼は素早い動きで馬車に乗り込んだ。待機しているベルナールに声を掛ける。
「今日はもう会えないから、またすぐに改める。早く帰ろう」
ベルナールは一言はい、と苦笑して頷き、間をおかずに馬車はシトロニエ邸へと進んでいった。
 




