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くちびる同盟  作者: 風見 十理
六章 目を開ける
106/139

106.同盟脱退

 


 目の前の、大好きなデジレの姿が(にじ)んでどんどん見えなくなる。(ぬぐ)っても拭っても、止まらない。

 デジレが動きを止め、その後すぐにマリーになにかを押し付けた。


「俺は触れないから! これを!」


 必死で言う彼の声を聞きながら、とっさにマリーが掴めば、ハンカチだった。何も言わずに、涙があふれ続ける目元に持っていく。

 シトラスの香りがする。

 途端、胸が高鳴り、心がきつく縛り付けられた。崩れ落ちそうだった。それでも、マリーはなんとか唇を開いた。


「デジレ、様」


 ひび割れた唇が、痛んだ。


「くちびる同盟、脱退させてください……!」


 もう目を開けていられなかった。

 デジレのハンカチを目元に押し付け、涙を吸い込ませていく。

 マリーがすすり泣く声だけが、応接の間に響いた。


「……な、んで」


 愕然とした、ようやく絞り出したようなデジレの声がする。

 マリーが目を開ければ、ぼやける視界でデジレだけがはっきり見えた。エメラルドの瞳が驚愕に見開かれている。


「脱退条件、ありましたよね。それに、従ってお願いします」


 マリーは震える唇を必死に動かしながら、思い出す。

 脱退条件は、キスしたくなるような相手が見つかった場合。そして、脱退をしなくてはならない、またはしたいと思う状況や思いになった場合。そうデジレが言っていた。

 マリーはずっと隠していたが、キスしたい相手は見つかった。デジレだって、見つかった。そして、デジレを責任感から解放させて、幸せになってもらうには脱退をしなくてはならず、そうしたいと思った。

 全部、当てはまる。


「脱退条件……」


 俯いて、デジレが呟く。輝く白い金髪が弱々しく揺れた。よく見れば、身体が何かに耐えるように小刻みに震えていた。

 何かを耐えるのは、デジレらしくない。自由に、まっすぐに、周りに影響されずに進む彼が大好きなマリーは、頭を下げた。


「お願いします!」


 頰を涙が伝う。静かな空気の中、マリーはその雫が床に落ちる瞬間を心がちぎれる思いで眺めた。

 いつかのように、デジレの足元だけが見える。息を深く吸う音が聞こえれば、彼の片足が僅かに後ろに引いた。


「……わかった」


 悔しさ、辛さ、苦しさを全て受け入れた、しっかりとした声だった。


「くちびる同盟の、脱退を許可する」


 その言葉は、マリーの中にすんなり入り、心に至れば波紋を呼んだ。じわじわと、マリーが今どうなったのか、思い知らされていく。

 これで、終わり。マリーとデジレの関係はここでおしまい。出会う前の本来の状態に、戻る。

 そっと顔を上げたマリーの目に写ったデジレは、距離は変わらないのに、急に遠くに行ってしまったように見えた。


「ありがとう、ございます」


 判断を後悔してほしくない。だからマリーは謝らなかった。

 人に見せられるような顔をしていないのに、なんとか不器用な笑みを作る。


「わたしの話したいことは、これでした。デジレ様の、話したいことはなんでしょうか」


 デジレがはっとしたが、すぐに辛そうな顔をして俯く。形の良い唇が、戦慄(わなな)いていた。


「今はとても、言えたものじゃない。……それに、結果としては、同じことになっていたかもしれない」


「そうですか」


 結果として同盟脱退に至るなら、デジレにもよかったことだろう。

 彼が何を話しに来るのか、マリーはずっと考えていた。もしかしたら、自分も好きな相手ができたと、好きな相手がいると思っているマリーに伝えようとしたのかもしれない。そうなれば、互いに目的を果たした同盟は、もう不要だ。


「しかし、その姿はあんまりだ!」


 デジレが急に吠える。怒りが篭った目で、マリーの奥の誰かを睨む。


「こんな姿にしたのは、例の好きな男か。マリーがこんな姿になっているというのに、放っておく男なんて……っ!」


 歯をぎりぎりと鳴らして、デジレは唸るような言葉を切る。

 目の前のマリーの好きな相手だと、批判を止めてくれたのだろう。マリーもそれで良かった。デジレが自分自身を非難するようで見ていられない。


「違いますよ」


 彼を、また自分を、落ち着かせるように、マリーはゆっくりと口を開いた。


「違います。誰のせいでもなくて、わたしがひとり、身をわきまえず、割り切れなくて、自分で傷付いているだけです」


 マリーは、自分の足元からゆっくり目を動かし、床を這って、デジレの足元に向ける。それからそうっと目線を上げていく。

 そこには、どんな表情でもきらきらした王子様がいた。

 今たどった距離さえ、近すぎる。本来絶対にありえなかった距離だ。天の上の人だと最初に思ったくせして、マリーはすっかりそれを忘れた愚か者だった。


「だから、自分しか、なんとかできないんですよ。大丈夫、ですから。ちゃんと乗り越えますから、心配しないでください」


 それでも、マリーはデジレに会えたことは少しも後悔などしていない。


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