106.同盟脱退
目の前の、大好きなデジレの姿が滲んでどんどん見えなくなる。拭っても拭っても、止まらない。
デジレが動きを止め、その後すぐにマリーになにかを押し付けた。
「俺は触れないから! これを!」
必死で言う彼の声を聞きながら、とっさにマリーが掴めば、ハンカチだった。何も言わずに、涙があふれ続ける目元に持っていく。
シトラスの香りがする。
途端、胸が高鳴り、心がきつく縛り付けられた。崩れ落ちそうだった。それでも、マリーはなんとか唇を開いた。
「デジレ、様」
ひび割れた唇が、痛んだ。
「くちびる同盟、脱退させてください……!」
もう目を開けていられなかった。
デジレのハンカチを目元に押し付け、涙を吸い込ませていく。
マリーがすすり泣く声だけが、応接の間に響いた。
「……な、んで」
愕然とした、ようやく絞り出したようなデジレの声がする。
マリーが目を開ければ、ぼやける視界でデジレだけがはっきり見えた。エメラルドの瞳が驚愕に見開かれている。
「脱退条件、ありましたよね。それに、従ってお願いします」
マリーは震える唇を必死に動かしながら、思い出す。
脱退条件は、キスしたくなるような相手が見つかった場合。そして、脱退をしなくてはならない、またはしたいと思う状況や思いになった場合。そうデジレが言っていた。
マリーはずっと隠していたが、キスしたい相手は見つかった。デジレだって、見つかった。そして、デジレを責任感から解放させて、幸せになってもらうには脱退をしなくてはならず、そうしたいと思った。
全部、当てはまる。
「脱退条件……」
俯いて、デジレが呟く。輝く白い金髪が弱々しく揺れた。よく見れば、身体が何かに耐えるように小刻みに震えていた。
何かを耐えるのは、デジレらしくない。自由に、まっすぐに、周りに影響されずに進む彼が大好きなマリーは、頭を下げた。
「お願いします!」
頰を涙が伝う。静かな空気の中、マリーはその雫が床に落ちる瞬間を心がちぎれる思いで眺めた。
いつかのように、デジレの足元だけが見える。息を深く吸う音が聞こえれば、彼の片足が僅かに後ろに引いた。
「……わかった」
悔しさ、辛さ、苦しさを全て受け入れた、しっかりとした声だった。
「くちびる同盟の、脱退を許可する」
その言葉は、マリーの中にすんなり入り、心に至れば波紋を呼んだ。じわじわと、マリーが今どうなったのか、思い知らされていく。
これで、終わり。マリーとデジレの関係はここでおしまい。出会う前の本来の状態に、戻る。
そっと顔を上げたマリーの目に写ったデジレは、距離は変わらないのに、急に遠くに行ってしまったように見えた。
「ありがとう、ございます」
判断を後悔してほしくない。だからマリーは謝らなかった。
人に見せられるような顔をしていないのに、なんとか不器用な笑みを作る。
「わたしの話したいことは、これでした。デジレ様の、話したいことはなんでしょうか」
デジレがはっとしたが、すぐに辛そうな顔をして俯く。形の良い唇が、戦慄いていた。
「今はとても、言えたものじゃない。……それに、結果としては、同じことになっていたかもしれない」
「そうですか」
結果として同盟脱退に至るなら、デジレにもよかったことだろう。
彼が何を話しに来るのか、マリーはずっと考えていた。もしかしたら、自分も好きな相手ができたと、好きな相手がいると思っているマリーに伝えようとしたのかもしれない。そうなれば、互いに目的を果たした同盟は、もう不要だ。
「しかし、その姿はあんまりだ!」
デジレが急に吠える。怒りが篭った目で、マリーの奥の誰かを睨む。
「こんな姿にしたのは、例の好きな男か。マリーがこんな姿になっているというのに、放っておく男なんて……っ!」
歯をぎりぎりと鳴らして、デジレは唸るような言葉を切る。
目の前のマリーの好きな相手だと、批判を止めてくれたのだろう。マリーもそれで良かった。デジレが自分自身を非難するようで見ていられない。
「違いますよ」
彼を、また自分を、落ち着かせるように、マリーはゆっくりと口を開いた。
「違います。誰のせいでもなくて、わたしがひとり、身をわきまえず、割り切れなくて、自分で傷付いているだけです」
マリーは、自分の足元からゆっくり目を動かし、床を這って、デジレの足元に向ける。それからそうっと目線を上げていく。
そこには、どんな表情でもきらきらした王子様がいた。
今たどった距離さえ、近すぎる。本来絶対にありえなかった距離だ。天の上の人だと最初に思ったくせして、マリーはすっかりそれを忘れた愚か者だった。
「だから、自分しか、なんとかできないんですよ。大丈夫、ですから。ちゃんと乗り越えますから、心配しないでください」
それでも、マリーはデジレに会えたことは少しも後悔などしていない。




