103.わななくくちびる
マリーは、走った。
来た道をひた走って、公爵邸の裏手までくれば、乗ってきた馬車がまだのろのろとしていた。
マリーは息を切らしながらも御者に声を掛け、すぐに乗り込む。
「はやく、戻って!」
何か御者が言っていたかもしれない。しかしマリーは馬車の中に座り込んで、俯いてぎゅっと手を握っていてわからなかった。
ようやくゆっくりと馬車が動く。
キスしてた。キスしてた。
デジレが。マリーローズと。
マリーの頭の中で、その言葉がぐるぐると回る。
遅れてはいけないと、早めにスリーズ邸を出て公爵邸に向かった。予想外に早く着いたものの、どうやら広すぎる公爵邸の入り口ではないところに到着し、とりあえず降りた。
裏口のようで、見かけた使用人に声をかければ、丁寧にも案内してくれるという。申し訳無さを感じながら従っていけば、見知った場所まで戻ったので、マリーは断ってひとりで歩いていた。
その時、ふと目の端に二人が見えた。
だから、つい近寄った。
庭先にいたデジレとマリーローズは、何かを話している様子だった。どこかではやる心を抑えながら、マリーはデジレの背後から二人の様子を見つめていた。
そして、デジレがマリーローズの肩に手を置いた。
マリーローズが、目を閉じた。
デジレが、彼女に顔を近付け、二人の距離がなくなった。
その瞬間を目にしたマリーは、頭が真っ白になった。目を見開いて、呆然と、ただ二人を瞳に映して、身体が動かなかった。
しかし、この場から去らなくてはと一歩下がれば、全く聞こえなかったデジレの声がひとつだけ耳に届いた。
『マリー』
途端、息が止まった。
デジレが、マリーローズのことをマリーと呼んだ。いや、それは元々そう呼んでいたので、自然かもしれない。
それでも。それでも今の呼び方ほど、優しく、切なく、胸が苦しくなるような愛情が込められた呼び方をデジレからされたことは、マリーはなかった。
全身が、おかしなリズムで震えた。襲いくるなにかに支配される前に、マリーはその場から逃げた。
馬車の車輪がごとごとと音を鳴らす。マリーは、唇を噛み締めて、零れだす感情を必死に押し留めた。口に鉄の味が広がった。痛みは感じない。
耐え難きを耐え続け、ようやくスリーズ邸に到着すれば、マリーはまた走った。驚くリディなどそっちのけで、自室に入って扉を閉める。
「マリーさま? どうしたんですか、今日公爵邸だって」
「ひとりにして!」
ひどく乱暴な言い方だった。それでもマリーは、自分が声を出せたことに驚いた。
扉越しのリディは戸惑っていたが、しばらくすれば離れていった。それが気配でわかると、マリーの張り詰めていた感情の糸がぷつりと切れた。
「うっ、ううう……」
目から、止めどなく涙があふれ、頰をたどるまでもなく床に落ちる。手で口を抑えても、声が止まらない。
「う、うああああ」
両手で顔を覆った。しゃがみこんでも、湧き上がる感情と涙は変わらない。
もう耐え切れず、マリーは泣き声を上げた。
「うわああああ!!」
狭い部屋に、慟哭は響いた。
涙も泣き声も、待っていたかのようにどんどんと流れ出る。頭がひどく重く、鼻奥も喉も辛く痛いのに、さらに悪化させていく。
なによりも、心が一番、傷付きぼろぼろだった。
マリーはふらふらとベッドまで行くと、顔から倒れこむ。それでも漏れる嗚咽は大きい。シーツを破れそうなほど握りしめる。
くちびるを他から守ること?
そんなもの、全くできなかった。足が動かなかった。だいたい嫌がっていなかったのだから、守る必要なんてなかった。
デジレがマリーを好きでないことは、我慢できた。デジレがキスを謝っても、我慢した。
しかし、デジレが誰かを好きであるのは、我慢できなかった。
そもそも、なぜそんなことを考えなかったのだろうと、マリーは思う。勝手にデジレには好きな相手はいないだろうと思い込んで、ならば頑張って振り向かせようと努力しようとしていた。マリーがデジレを好きならば、彼だって好きな相手がいてもおかしくなかった。
彼は好きな相手がわからないとは言っていたが、いつ気持ちに気付くかなど、わからない。マリーが経験したことだ。
目元では燃えるほど熱いのに、シーツに染みた途端冷え冷えする涙を感じ、マリーはとめどなく水滴を零す。
しかも、デジレの相手はマリーローズだった。
彼からキスをして、あれほどまでに愛を込めた呼び方をするのだから、疑いようはない。それを、マリーは自分の目で見た。
妥当ではないか、と頭のどこかで誰かが言う。
デジレは伯爵家だが、公爵家のマリーローズと結婚してもおかしくないほど格式高い家で。二人で並ぶとまるで絵画かと思うほどお似合いで。マリーは、マリーローズに敵うはずがないとずっと思ってきていた。なにより、彼らは幼馴染で、マリーがデジレと過ごしてきた時間の何倍も、何十倍も、一緒にいたのだ。
意識しなかった幼馴染が、大人になってから恋に落ちるなんて、なんて恋愛小説のような恋物語だろう。
マリーローズが、デジレを好きなのは知っている。ならば、デジレがマリーローズを好きならば、それは両思いで、幸せなことだ。
同じ想いを返してくれるなんて、とても幸せなことだ。
マリーはまた、大声で泣いた。身体が枯れるのではと思うほど、水分が雫になって落ちていく。
マリーは、ただデジレを好きになった女性のひとりだった。彼らにとっては、マリーのそんな気持ちなどどうでもいいものだった。あのふたりの世界で、マリーはお邪魔虫だった。
つまり、デジレはもう、マリーに振り向いてくれることはない。




