102.キスして ★
マリーローズが真面目な顔でデジレを見つめる。デジレは突然のことに、理解ができなかった。
「え?」
「聞こえなかったなら、何度でも言ってあげるわ。わたくしに、キスしなさい。唇に、よ」
堂々と言い放つマリーローズに、デジレは言葉を失う。
本気だと、彼女の目も態度も物語っていた。付き合いが長いため、よくわかった。冗談ではと一瞬浮かんだ考えが、潰される。
「なあに、黙って。何をすればいいって、聞いたでしょう」
「それは……」
「別に、いいでしょう。もう二回、しているんでしょう?」
デジレは息を呑む。
その二回とは、マリーとだ。
「マリーに聞いたわ。キスの一回も二回も同じだって、言ったのでしょう。ならば、三回だってたいして変わらないのではないの?」
言った。身体が強張る。
「それとも、わたくしには夜会に参加させてマリーに声を掛けさせて、上手くいったからと頼んだデジレは知らないふり? 無責任ね。頼まれた時に高くつくって言ったはずだけれど、約束も、つい先ほど自分が言った言葉さえ守れないのかしら?」
言葉が出ない。頭が激しく揺さぶられるようにぐらぐらとする。目が回りそうになり、デジレは必死に堪えた。
そうだ、マリーローズにマリーの件で頼んで、結果としてマリーローズは見事に応えてくれた。その対価を払わないなど、無責任なことはできるはずがない。デジレは歯を食いしばる。
「キスなんて、唇と唇が触れるだけよ。あなたも最初は、意思がなかったのでしょう。気持ちなんてなくてもできるわ」
たしかにそうかもしれない。
デジレがキスした二回は、マリーへの気持ちは特になかった。二回目は好きな気持ちがあったかもしれないが、気付いていなかった。ならば、なにも思わなくても、できるのかもしれなかった。
震える手を、マリーローズに伸ばす。華奢な肩に、両手を置いて、軽くつかむ。
「簡単でしょう」
そう言って、マリーローズが目を閉じる。閉じられた目の縁は、美しい睫毛が整然と並ぶ。
デジレは恐れるように、目線を彼女の目から下げていく。形の良い鼻から、唇に至る。
薔薇のような瑞々しい色をしたマリーローズの唇は、濡れたように艶を放ち、どこか妖艶だ。小ぶりで花びらを思わせるかたちは、マリーローズの優美さを際立たせている。マリーと、全く違う唇だ。
ぎゅっと肩をつかむ手に力を入れて、唇に向かって顔を少し近付ける。
唇と唇をくっつければ良いと思うが、なかなか距離が縮まらない。そもそも今までのキスが衝動でしたため、やり方がよくわからない。
それでも、やらなければ。至近距離でマリーローズの唇を見ながら、思う。
唇が、震える。
デジレは強く、目を瞑った。
視界を遮れば、いつかの感覚が蘇る。陶酔するような幸せな気持ち。今回も、同じなのだろうか。
――キスした全員と責任とって結婚するんですか?
ふいに脳裏を過った言葉に、デジレは目を開けた。
顔を離し、マリーローズとも距離を取る。
彼女がゆっくり目を開けて、デジレを見た。
「駄目だ」
デジレがぽつりと呟き、顔を上げる。
「ローズ。これはできない」
真摯に、マリーローズに伝えるよう言葉を紡ぐ。マリーローズはまっすぐに、デジレを見てくる。
「キスするのは、一人だけ」
その言葉は自然と心の奥から滑り出る。
「マリーだけだ」
迷いは一切なかった。力強く、エメラルドの目でマリーローズに訴える。
デジレが、キスしたいと思うのも、キスするのもマリーだけ。それはマリーローズではない。例えマリーがデジレと同じ気持ちでなくても、デジレは胸を張って彼女だけと言えた。
マリーローズはそのデジレの言葉を聞いて、小さく長く息を漏らす。そして、困ったこどもを相手にするような顔で、微笑んだ。
「そう」
彼女は、そして笑った。
「冗談よ。ごめんなさい、からかって」
明るめの声だが、どこか虚しい。冗談とは到底思えなかったデジレは、なにも言わなかった。
「他のことにしてほしい」
「ああ、見返りならマリーに会わせてくれたことでいいわ。それで帳消しにしてあげる。マリーとわたくしの優しさに感謝なさい」
デジレが驚いた顔を向ける。マリーローズはいたずらっ子のように笑う。楽しんでいる時の顔だった。
冷たい空気に、マリーローズがショールを握る。冷えてもなお赤い唇が静かに動く。
「でも、そうね。どうしてもというのなら、ひとつだけ」
背後に広がる庭に遠い目を向けてから、彼女はまっすぐに立つデジレに微笑む。
「最後に。わたくしのこと、もう一度だけ、マリーって呼んで」
サファイアが光る。
寂しさ、諦め、期待。そして、強い決意が見て取れる。
デジレはすっと息を吸う。胸に入り込む冷たい空気を温めて、しっかりと目の前のマリーローズを見つめ、笑顔で彼女の名前を呼んだ。
「マリー」
様々な気持ちを込めたその言葉を、マリーローズは目を閉じて感じ入るように受け止めた。
「ありがとう」
次に目を開けた時には、彼女はいつものマリーローズだった。
「デジレ。もうわたくしをマリーと呼ぶのは禁止ね」
「え」
間抜けな声を出したデジレに、マリーローズが声を漏らして笑う。
昔からそうだったが、やはりマリーローズには敵わない。そう思いながらデジレは気恥ずかしくて、髪を掻く。それを見てますます彼女が笑う。
空が澄んだ青色を覗かせ、寒さが和らぐ。
離れた場所で、物音がした。ふとデジレが振り返りその方向に顔を向ければ、誰かが走っていく足跡がする。
誰だ、と思いながら顔を戻せば、目の前のマリーローズが難しい顔をしていた。
「ローズ?」
「デジレ。見られたかもしれない」
誰に、と言う前になぜか胸騒ぎがする。
「今の、マリーだったわ」
息が止まる。また呼吸をすれば、心臓が激しく鼓動する。
なぜいるのか。疑問が瞬間頭を過る。デジレはマリーにやましいことは一切していない。そう思っても、なぜか手先が冷えていく気分を味わった。
急げ。早く。心が急かすままに、物音が聞こえた方に駆け出す。
「早く行きなさい!」
マリーローズの声を背中で聞きながら、物音が聞こえた場所につけば、もはや誰もいなかった。
それでも、デジレは全速力で走り出す。
なんとしても見つけ出して会ってみせる。そう強く決意して、広い公爵邸に飛び込んだ。




