100.約束
夕暮れが過ぎ、どんどんと暗くなっていく空を窓から見ながら、マリーはひとり自室でぼうっとしていた。
いきなり自宅を飛び出したデジレを唖然と見送ってから、置いて行かれたとようやく気付いたマリーは、ただただ突っ立っていた。
城に行くと言っていた気がすると思っても、なぜ彼が飛んで行ったのか全くわからない。人様の家、しかもシトロニエ邸に取り残されて、どうすればよいのか頭が回らなかった。
ひとまず部屋を出てみれば、急に寒気を覚えた。ぶるりと体を震わせ周りを見れば、いつの間にやら戻ってきたらしいアデライードが目に留まった。デジレが去った廊下の先をじっと見つめる彼女は、顔つきこそ無表情なものの、その雰囲気から明らかに静かに怒っていることがわかった。
怖い、と本能的に思って後退れば、アデライードがマリーに謝ってきた。デジレが急に失礼したと丁寧に謝罪した彼女は、わけがわからないと言った顔をして戻ってきたベルナールにマリーを送るよう命じた。そして、マリーはスリーズ邸まで帰ってきたのだった。
ベルナールもそれは腰が低く、何度もマリーに謝ってきたので、彼女はデジレに全く怒りを感じなかった。
おそらくなにか思い出したのだろうと、今度話してくれるだろうと考えて、マリーは特にすることなく自宅でぼんやりとしていた。
「あ、マリーさま。デジレさま来てますよ」
「え?」
気付けばいたリディがさらりと言った言葉に、マリーは聞き返す。リディは首を傾げた。
「デジレさまが玄関に来てますよ。入ってって言ったんですけど、ここで待つって言ってます。忘れものでも届けに来たんですかね」
ようやく言われた内容を理解したマリーは、慌てて玄関まで走っていく。
その姿はすぐに目に付いた。エメラルドの瞳と目があえば、マリーはますます足を急がせる。彼の前に到着した頃には、息が弾んでいた。
「あっ、デジレ様。お待たせして、すみません」
「大丈夫。来るまで待っているつもりだったから」
急いで来てよかったと、マリーはひとつ長く息をはく。
しっかりと近くで見たデジレは、シトロニエ邸で見た時よりも身なりを整えている。慌てた様子はないが、あの時と同じようにマリーから目を離さない。しかし、じっと観察されている感覚はしなかった。
今日はもう会えないと思っていたのに、会いに来てくれたと思えば、マリーは嬉しくて顔が赤くなる。つい手の甲に触れて、もじもじとしてしまう。
「あの、大丈夫でした?」
「ああ、邸に帰ったら針のむしろだったよ。母上には散々叱られるし、ベルは冷たいし」
「そっちも心配でしたけど、そっちじゃなくて、急に走っていった方です」
「あ」
デジレは口を手で覆う。そして一歩マリーの方に踏み込んだ。
「あの時はごめん!」
必死な顔を近付けられれば、マリーは驚いてとっさに身を離す。それでも真剣で真面目な彼の表情を見ながら、徐々に距離を戻した。
「あ、いえ……何か用事を思い出したんですよね」
「うん、どうしても言いに行かないといけなかったんだ。でももう、その用事は済んだ」
やけにまっすぐに見てくると、マリーは思う。何も言わずに、端正な唇を少し動かすデジレは何か言いたげで、マリーは小首を傾げる。
デジレがすっと息を吸い込んだ。
「話したいことがあるんだ」
「え?」
「マリーを待っていては来ないかもしれないから、私がまたここに来る」
いつもならこの場で話したいことを言い出しそうなのに、珍しい。しかしいつもと違う、固い決意と覚悟が感じられる瞳から、大切なことなのだと気付き、マリーは神妙に頷いた。
「明日、それか明後日は空いている?」
「え、そんなに急なんですか?」
「ならば三日後」
三日後と言えば、マリーローズに会う日だった。前回はマリーの用事で行かなかったため、今回はマリーから出向こうと考えていたので、空けられない。彼女は首を横に振った。
「……五日! 悪いが、待つのは五日後までが限界だ!」
デジレがそう強く言って、マリーに詰め寄る。
訪問日を選ぶのはマリーの方であるはずなのに、なぜか日にちをデジレから限定されている。マリーは彼の気迫に押され、ためらいがちに頷いた。
「じゃあ、五日後でお願いします」
「わかった。五日後、スリーズ邸で。朝一に行く」
ゆっくりはっきり、マリーと自身に言い聞かせるようにデジレが言う。
朝一なのか、とマリーはぼんやりと思う。はじめてデジレと話した時も、同じように朝早く来ていたなと思い出しながら、首を縦に振った。
デジレは彼女の肯定を認めて、口を開こうとして閉じた。よく見れば瞳がせわしなく揺れ、身体も動き出したそうにそわそわしている。唇に何度も隙間ができては、なくなる。何かの衝動を懸命に耐えているようにマリーは感じた。
「もしかして、今話したいことがあるんじゃないですか?」
「え、いや! それは全部、五日後に話すよ」
今すぐではなく、わざわざ約束してまで、デジレが伝えたいことはなんだろう。マリーは思い当たることがなくて、疑問ばかりが頭を占める。
デジレの瞳は、強い意志が宿っている。悪いことではないかもしれない、と思いながらマリーが見ていれば、彼も同じようにマリーの瞳を見つめていることに気付く。
「そんなにじっと見られると……」
「五日間会えないから、今のうちに見ておく」
彼の目線がさらに恥ずかしくなる。
デジレは一通りマリーを眺めると、満足そうに一歩下がる。そして、柔らかく笑った。
あ、とマリーが目を見開く。ずっと見ていなかった、デジレの笑顔だ。
「うん、じゃあ五日後に。絶対に待っていて。何があっても行くから」
デジレがすっと、背を向ける。もう振り返らないと決めたらしく、マリーを一瞥もせず、邸を出て行く。
閉じられなかった扉から、彼の背中が見えなくなるまでずっと見送って、マリーはほうと息を零す。
強引に約束を取り付けていった彼は、くちびる同盟の時の彼を思い起こさせる。当時はなんて強引な人だと、キスされたこともあって嫌がっていたが、今はどうだろう。
五日後に何を話してくれるのかと、少しわくわくしてしまっているマリーは、すっかり心がデジレに占められているなと笑ってしまった。




