Turm〈塔〉
よし、決めた。
善樹は部屋に戻り、タブレットを開いた。
ここを題材に書いてやる。
窓際に座り、灰色の海を見ながら執筆するのだ。いつもミステリーばかりだから、そうだ。
「恋愛ファンタジー、とか」
主人公はあのかわいらしいオーナー。もちろん、若くしてあげよう。
「そうだな、地図にはなかった階段を、と」
楽しくなって集中していた善樹は、ようやくノックされていたことに気がついた。
しびれた右足を引き摺りながらドアを開ける。青枝が祈るような仕草で立っていた。
「ああ、先生、すいません、気づかなくて」
「あの、あの」
慌てている様子が純真さを表す。彼女の生活も箱庭の中であろうか。きっとここは箱庭から出てしまっている。
「渋木さん、いませんか?」
「え」
「お昼前からいないんです。中庭を探そうとしたら、止められて。でも、どこにもいなくて。桜井さん、作家だし、もしかしたら、話し込んでるのかと思って」
「いや、いませんよ。海に散歩とか」
「ああ、そうなのかな、ああ」
「先生、よければ、行きますよ」
「え、あ」
渋木がいないことでこんなに慌てるとは。そういえば、結衣子が言っていた。プロポーズはしたのかとか何とか。みんな幸せなのか。自分だけが惨めに見える。
薄着の青枝をロビーで待たせて玄関から海に向かう。きれいに雪を掻いてあるので小走りで階段を降りた。
「おー、寒」
見渡す灰色の景色の中に渋木はいない。引き返すしかなかった。青枝の様子だときっと館中を歩いたに違いない。いないから善樹のところへ来たのだろう。中庭に向かってみるか。
やはりきれいに雪を掻いてある。滑ることもないだろう。
ないのか? 谷垣が落ちたから念入りに雪掻きをしたのかもしれない。中町は出血していたが、谷垣に出血はなかった。
左手にダイニングを見ながら中庭を上がっていくと人影がちらついた。渋木だろうか。いや、あれは、あやだ。ショートカットに青色のシャツ。
「あやさんっ」
見間違いだろうか。人影は右側の林の奥へ消えた。追いかけると林の奥には建物があった。
「従業員の寮だったかな」
建物の入り口は鍵が掛かっており、扉には窓もなく、中を見ることはできなかった。
「すいません」
一応声をかけたが応答はない。少し離れて建物を見上げる。窓の間隔からして四つの部屋がありそうだ。二階建てだから八個の部屋。室外機もそれを示している。どれも動いてはいなかった。
戻るしかない。石畳に雪はなく、人影の足跡も分からなかった。下る階段から視線をあげ、もうすぐ地に落ちそうな海を見る。また降るのだろう、空と海の境目は灰色に混じって分からない。
本当にいい景色だ。晴れていたらもっとすごいのであろう。灰色に埋もれた見える全てに色がつくのだ。こんな崖に住むのを夢にしたいくらいだ。オーナーに相談してみようか。住み込みで働きたいと。
「や、違う、小説書かないとな」
青枝のように。中庭から館には入れなかった。鍵が掛かっている。今、上がってきた階段をみやる。また降りていくしかない。運動、運動。
一歩、足を出した時だった。
どん、と背中を押された。灰色の景色がぐるぐると回転する。人影は実体を伴っていたのだ。あやなのか?
だが、確認することはできなかった。頭を守ったものの、階段に背中を打ち付け、意識が切れる。
「桜井さん、桜井さん」
青枝の声。渋木はいませんでした。
目を覚ますと渋木がいた。
「あ」
「桜井さん、大丈夫ですか? すいませんでした、ぼく、お風呂でした」
ああ、大浴場とは気が回らなかった。ゆっくり起き上がると玄関のソファだった。なんだ、部屋には運んでくれなかったのか。背中が痛いだけで擦り傷ひとつない。
「よかった、びっくりしました」
「先生が慌てて、あなたを探してました」
「ええ、そうみたいですね。お風呂って言ったんですけど、上の空だったらしく。そんなことより、滑ったんですか?」
違う。確かに押された。だが、今言うのはよくない。あの人影があやなのかも分からない。似ていると思ったが。
「ええ、先生の慌てぶりが移ってしまいました、あ、いや、お気になさらず」
青枝はうっすら涙を浮かべて自分を責めていた。何度も大丈夫ですと言い、青枝が落ち着くまで話すことにした。
「桜井さんは次回作はどんな感じで?」
「ええ、たまには恋愛なんかどうかなと書き始めてみました」
「勢いで書くんですか?」
「割りとそうですね。あまり加筆修正しない質でして」
青枝は何度も推敲を重ねるという。
「渋木さんがついているから。僕の担当者は放任主義のようですよ、ほんと、たまに電話してきて、書けましたか? と、ちゃらっと聞いてきて」
背中はたぶん今日より明日の方が痛いに決まっている。オーナーから湿布をもらわないとならない。
ロビーを見回すと、あやがふらりと現れた。青色のシャツだ。あやはこちらを見ると少し足早に寄ってきて言った。
「アタシ、何もしてませんっ」
「え、はい。はあ」
やはり、あやがいたのか。
オーナーがダイニングから声をかけてきた。
「桜井様、大丈夫ですか? お昼、食べられますか?」
「ああ、いただきます」
時間は午後一時。気を失っていたのは二十分くらいだろうか。
「あやっ」
階段の上からあやを呼んだのは、昨日吐いていたまいこだった。まいこは階段を滑るように降りてきて怒鳴った。
「部屋にいてって言ったじゃない、うろうろするから疑われるのよ」
当たり前だが話が見えない。思いきって割って入ってみる。
「疑われるとは? 話、聞きましょう」
背中の痛みより好奇心が上回る。長い茶髪を無造作にまとめて、太すぎるアイラインが滲んでいるまいこが冷たく言い放つ。
「押したんでしょ、あの水色もあのおばさんも、この人のこともなんじゃない? って疑われてるのよね。だから部屋から出なければいいと思って」
「やめてよ、アタシじゃないもの」
「だって、どっちもあんたがいたじゃない、オーナーだって見てるのよ。あなたは見たの? 小説家さん? あやがいたんでしょ」
まいこは善樹に向かって早口で聞いてくる。あやが素早く答えた。
「止めてよ、いただけだよ、アタシだって驚いてる」
「いただけ? やっぱりいたんじゃない。じゃあ、何しにいたのかってことよ。あの子供だって、あんた見て逃げたじゃない」
「そんなこと言われても」
あやは潔白を証明したくて善樹に話があったのかもしれない。ならば、信じてやらねば。
「あやさん、大丈夫ですよ。何もしていないなら堂々としてらしてください。みんな足を滑らせただけですし。無用心に中庭へ出たからいけないんです。あやさんのせいではありませんよ」
頼むからロマンスに発展してくれ。
そんな願いは昼御飯出来ましたよというオーナーの笑顔に阻まれた。つい、へらへらと笑ってしまう。
「あや、行くわよ、部屋にいましょ」
「でも、それも恐いじゃない」
あやの反論には違う意味があるように聞こえた。
「アタシたち、見たんです」
幽霊を。