Trugbild〈幻想〉
酒田青枝さんの「アリスの糸」の感想がはいります。
中庭からオーナーが戻った。結もいたらしい。
「はい、電話はしました、けど」
「着かないんじゃないですか、この雪じゃ」
結は携帯電話を使ってオーナーと会話している。あの速さで小説が書けないだろうか。
「あの、何か」
オーナーの桃色は雪に濡れてオレンジに近い。結が携帯電話を差し出した。
『部屋に戻ってください』
「え」
顔つきが厳しい。中庭で何かあったのか? 紫色と紺色の二人が水色を着た男性従業員を抱えていた。
「えっ、え」
水色は額から血を流していた。顔色も真っ青で、手も足もだらりとしていた。
結に手で押された。邪魔したらしい。水色は男性で善樹の部屋の一つ上の『Odem』に通された。上というか、左奥である。
「この部屋は緊急時に使うんです。玄関まで降りなくて済むように、外と繋がっています」
オーナーが説明してくれた。気のせいかもしれないが、結は知っていたように見えた。迷いなく階段を上がって『Odem』に入り、オーナーは素早く布団を敷いて水色を寝かせた。部屋の暖房を入れ、一度いなくなった紫色がタオルをたくさん抱えてきた。
『着替えさせます。手伝ってください。オーナーは下へ。女の子の顔色が悪かったですよ。他の方に動揺を与えないように』
あやのことなのか、飲み過ぎの子かは分からないが、オーナーが戻れば他の客には気づかれないかもしれない。
結の指先に従い、着替えを手伝う。細身の体躯は驚くほど冷たかった。傷は頭だけのようだ。オーナーと紺色がいなくなり、紫色がついていてくれた。電気毛布をつけ、部屋の暖房をガンガンに強くする。
『足を擦ってください』
結の指示は的確で彼の命は繋がった。出血は少なかったらしくすぐ止まったのもよかった。擦る足先が少しずつ温かさを取り戻す。白湯で唇を濡らしてやり、紫色には話しかけるよう指示した。
「転んだんでしょうか」
思わず口に出してしまった。頭の中は殺人未遂でパンパンになった。そうそう殺人が起こるわけがない。紫色が答えた。
「寮に着替えを取りに行くと言ってたので。中庭の石畳道で滑ったのかもしれません」
しっかりした口調で安心する。中庭を抜けた山側に従業員の寮があるとのことだった。紫色の彼は芝田といい、水色の中町とは仲がいいことを教えてくれた。
『桜井さんはここにいてください』
「何か、あれば手伝いますよ」
小説家の勘みたいなものが、結にくっついていたほうが良いと教えてくれている。わくわくする気持ちをひた隠す。
「中町が意識を戻したらお知らせします。桜井様もお戻りください」
芝田がそう言ってくれたのを利用して結と一緒に階段へ出た。あやたちが部屋に戻るところだった。あやたちの『Wald』は善樹の部屋の下である。似た造りで結局、何回も部屋を確認してしまう。
あやたちが見えなくなり、その先でワインとグラスを手にした奥さんが、ワインを振り上げた。
「あー、先生っ」
「や、先生だなんて、いや、や、え、え?」
タンタンと階段を上がってきた奥さんは善樹らを通り越して上を目指していた。それを目で追うと上から降りてきたのは。
「先生、お久し振りです。先生もお泊まりですかぁ?」
結にどうしたのかと聞かれた。誰? と。
「さ、さ、酒田 青枝」
現実とその近くを彷徨くような小説を書く。きっと彼女を知らない小説家はいない。
「小説家です、有名ですよ、奥さん、知り合いだったんですか?」
さあ。とジェスチャーされた。結は小説を読まないのだろう。青枝の書くジャンルも善樹とは重ならない。書けないものを書く酒田に善樹は憧れを持っていた。そっと近づく。
「あの」
「あ、桜井さんも小説家なんですってぇ」
「結衣子ちゃん、酔っ払ってますよ」
「うふふ。だって一応、新婚旅行ですからぁ」
「新婚旅行に来るようなとこじゃないですよ。こういうとこは閉じ籠るときに来るんです。買い物も出来ないじゃないですか?」
「でも、ほら、このワイン、先生くらい、有名」
「じゃあ、大事に持って帰りなさい」
「あ、マネージャーさん、こんばんは。プロポーズしましたかぁ?」
「ああっ、や、ちょっと」
あたふたするマネージャーと呼ばれた男はさあ、ごはんですよと、青枝を連れて降りていった。善樹には目もくれずに通り過ぎた。
「結くん、お部屋で飲もうよぅ。桜井さん、またね」
奥さんに先生と呼ばれるよう、精進せねば。結は頭を下げて『Wohl』に消えた。
善樹は階段を降りていく。気を取り直してオーナーを探す。中町は大丈夫だと教えてあげたい。
「あ、オーナー」
ロビーにいたので声をかけた。が、すっと受付に入っていってしまった。大学生より、寧ろオーナーと仲良くなりたい。ここでペンションを経営しながら小説を書く。悪くない。
ダイニングでは青枝とマネージャーは善樹らが座っていたテーブルの近くにいた。オーナーは青枝らから飲み物の注文を受けていた。テーブルに戻るかどうか悩む。
変わらない楽しそうな声がした。綺麗どころ三人。そのうちの一人が善樹を見た。
「出たんですか?」
「止めて、千夏チカったら」
「見てきなよ、二人で。アタシは行かない」
「リー、ほんとは怖いんだよね?」
「違うわよ、階段上がったらまた降りなくちゃならないじゃないの」
「ほんとは怖いんだー」
「ちょっと、芙美フミ、違うってば」
「絶対認めない」
「リーは認めない」
アハハと笑いだす。
「幽霊、ですか。その話は有名なんですか?」
思いきって千夏の隣に座る。
「みたいですよ。いないはずの部屋から声が聞こえるとか。大浴場、一人なのに、後ろでザバーンとか」
「だから、食事の用意が多いんだよね」
「らしいね」
酔っ払っているのにしっかりしている。
「後ろは嫌よね」
「見えないから」
「あー、お風呂入りたい」
「うん、行こっか」
行こう行こうと三人は立ち上がる。
結局、お一人様は置いてきぼりだ。向こうのダイニングでは子供らがデザートを食べているのが見えた。楽しそうなのは子供らだけに見えるのは夫婦が無言だからだろうか。結らとは違って重い雰囲気である。
「どうぞ。先程はありがとうございました」
「あ、オーナー。中町さん、大丈夫そうですよ」
「ええ。よかったです。滑ったみたいで。中庭には出ないでください。まあ、この雪ですから、出ても冷たいだけですし」
「よく降りますねえ」
出されたデザートはショコラのケーキとフルーツの盛り合わせだった。コーヒーを頼むと素敵な笑顔が返ってきた。
青枝のマネージャーが声をかけてきた。
「作家だとお伺いしましたが。もしよければ、お話しでも」
「あ、はい、嬉しいですね。酒田先生とお話しとか」
席を移動して青枝に挨拶すると、彼女は下を向いて、はいと言った。
「この間の新作、読ませていただきました。『アリスの糸』」
「ありがとうございます、どうでしたか」
そう言ったのはマネージャーの渋木だった。青枝は来たばかりのパンプキンスープを飲んでいる。
「実際、あの四人がいたとして、それを箱庭の外から見てる感じでした。誰にも感情移入できないように書かれていたというか。割りと幻想的、ファンタジーに近いものを書かれているじゃないですか。それを生身の人間にしたみたいな。お互いが何を考えてるか分からない様を外から見てる感じ」
誉めているのだが、伝わらないかもしれないという不安が沸き上がる。
「えっと、あの」
「あ、いいんです、いつにも増して不思議だなとぼくも思いましたから。あの中には読者はいないんですよ。恋愛に恋愛してるような作品なのかな。アリスとくっつくわけでもないし。鈴音もなんで彼に拘るのか」
「あの箱庭からは出られないからですよ」
「ああ、こう、箱庭は出来上がってるから」
「恋愛小説って難しいですよ、読むのも書くのも。人が死ねば簡単ですからね。犯人見つけたら読むのも書くのも完結」
「でも、創作とはいえ、この人を殺してあの人が犯人で、っていうのも難しくないですか? 桜井さんはそっち側じゃないですか」
青枝が真っ直ぐ善樹を見て言った。
「あの、ぼくの作品を?」
「『氷の華』は好きでしたよ。冷凍庫の」
だいぶ、昔の作品だが、知っていてくれてるだけで嬉しかった。なんだか、心が軽くなる。来てよかった。
「酒田先生はいつまでこちらに?」
「私、ほぼ、ここに住んでいます」
「あ、そうなんですか? ほぅ」
軽くなったが、未来図はここにはないのかと落ち込む。世間から離れて小説を書くことは小説家の憧れかもしれない。
「先生、ここ、幽霊が出るらしいですよ」
そう言ったら二人に笑われた。
「あの?」
「それ、私だと思います。今日は渋木さんが来たから、御飯食べますけど、普段は変な時間に食べたりします。御風呂も思い立ったらですから。泊まりに来た方って、こういう夕飯時に何となく、何人泊まってるのかなって見ますよね。女の子が何人とか子供がいるいないとか」
確かにぼくもそうだった。