Wohl〈幸せ、繁栄〉
みんなが大浴場大浴場と言うのを聞いて、温まるのもいいなと考えた。部屋に戻り、着替えと浴衣を持って階段に出たとき、中庭にいたらしい若い夫婦が戻ってきた。先程、善樹が海に出た扉だ。
「海まで行かれましたか?」
つい、聞いてしまった。彼はにっこりして奥さんに先に入るよう促した。こういうことがすんなり出来るとは。いろいろ羨ましい。
「もう、暗くて。明日にします」
かわいらしい笑顔で奥さんが答えてくれた。
「晴れるといいですねえ」
「無理かな、結くんが雨男だから。ね」
少しだけ首を傾げて返事をする。
「一緒に大浴場、どうです?」
イケメンは少しだけびっくりしたが、頷いてくれた。
「あ、あの、声が出ないんです」
かわいらしい奥さんが、何かあったらお願いしますとペコッと頭を下げた。
「そうだったんですね。分かりました、あ、部屋はどこですか? 僕はここ『Tau』です」
「えっと『Wohl』です。二つ上のとこです、結くん、着替え」
彼女の発音がきれいでびっくりした。ぴょんぴょん上がっていくのを二人で見ていた。
「えっ」
彼女が左の部屋に消えた時、ほんとにポーンと放り投げられかのように、子供が降ってきた。イケメンにどつかれ、向かい側の壁に体当たりしてしまった。
イケメンは降ってきた子供をすっぽり受け取る。細い身体にはちゃんとした筋肉がついている。きっと善樹では一緒に転げ落ちたに違いない。かっこよすぎる。
絶句した子供は自らの無事を自覚すると、うわああんと泣き出した。イケメンはそっと階段に子供を下ろした。頭を撫でて慰める。
「しゅうかっ」
慌てて下りてきたのは父親だった。わあわあ泣く子供を抱え上げてイケメンに頭を下げた。
「すいません、ケガは?」
イケメンはいえいえと手を横に振り、大丈夫ですとアピールしている。善樹には気づかなかったようだ。父親は階段をゆっくり上がっていく。そこに彼女が出てきた。
「なあに?」
なんでもないと、ヒラヒラ手を振り、着替えを受け取ると善樹に行きましょうとジェスチャーで伝えてきた。下から従業員が見ていたので、大丈夫ですと言ってから二人で階段を上がっていく。左側の部屋を確認しながら。『Tau』『Odem』『Wohl』。確かに二つ上である。そのまま、一番上の大浴場を目指した。なだらかな階段だとはいえ一週間、ここにいたら運動不足が解消されそうだ。
イケメンは鏡や窓の曇った辺りを利用して狐島と言いますと名前を伝えてきた。
「きつねしま、ゆい、さんですかね? 奥さんが結くんと呼んでましたね」
はい。
「僕は桜井 善樹と言います。二十七歳、独身です。結婚してどのくらいなんですか?」
結は3と書いた。三年かと思ったら三ヶ月だった。27歳と付け加える。
「しまった、同じ歳でしたか。負けましたねえ」
笑っても何してもかっこいい人間がいるのだ。
「僕は小説家です。ちょっと煮詰まっちゃって、編集者がここを」
ざあっと泡を流すと足下にカエルが流れてきた。さっきの子供だった。弟と二人、はしゃぐのを我慢しながら小走りしてくる。父親に怒られたんだろう。
「あ、お絵かき、する」
結が数字を書いた隣に『はく しゅうか』『はく りょうか』と書いた。
「君がしゅうか君で弟がりょうか君かな?」
「ピンポーン」
しゅうかはいい笑顔である。カエルとヒヨコを描いて笑っている。あんなに泣いていたのに。父親が二人を呼ぶ。こちらに来るつもりはないようだ。
のんびりと出来るのはありがたいのだ。だが、煮詰まっちゃってなんて言ってかっこよさそうだが、もう頭が真っ白でネタも尽きた。きっと、小説家は向いていない。縮こまった脳ミソのシワが弛んだところでアイデアなんか浮かんでこない。出るのはため息ばかりである。
隣の結を見る。首に薄い傷。手術痕。病気か。腕にも切り傷や痣が何個か見えた。こんなにイケメンでも人生に悩むことがあるのだろうか。窓が曇るのを待ってから聞いた。
「仕事は何をされてるんですか?」
全部ひらがなだったので、読み取るのに手間取り、二人で笑ってしまった。
「ああ、わかった。『公務員、障害者枠』ですね。書くのも大変ですね。普段はノートですか?」
結は頷きながら、タブレットと書いた。
「便利になりましたよね。これのせいで小説から逃げられませんよ」
そうなのだ、一週間、ゆっくりしてとか言われたがタブレットを持たされた。まあ、もう作品を書かないと出版社との契約も怪しくなっていく。書くしかないのだ。結婚だってしたいのに。
灰色の空と海が曇りガラスと相まって、ゆらゆらと影を滲ます何かをぼんやりと眺める。