ブレークポイント
【聖暦2017年7月28日 神聖アナトリア魔法王国・アラブ連合国圏緩衝地帯】
「――介、京介!」
中東の棄てられた街を叩く雨音。自分の名を呼ぶ声よりも、鼻先のくすぐったさで京介は目を覚ました。
目を開けるとすぐ近くにセミロングの髪を雨に濡らしたヘンリエッタの顔がある。目が合った。アーモンド形の二重。琥珀色が彼を見つめている。鼻先を擽る栗色の髪を軽く払うと、ヘンリエッタは苦笑いしつつそれを撫でる様に耳に掛けた。顎の精緻なカーブが露わになる。
こめかみから垂れた雫が静かに顎を伝って、その先端から京介に向けて滴り落ちた。雫を茶色に染めたのはファンデーションではなく砂だろう。
ヘンリエッタが体を起こすと、京介の鼻先をくすぐっていた栗色の髪が遠ざかっていった。さらに数滴、雫が滴る。寝ぼけ眼とまでは行かないが、未だ寝起きの京介が彼女の顔を見つめる目は、睨むようにでもなってしまっていたのだろう。
「……目つき悪いよ」
「放っとけ」
京介の目つきが悪いのは生まれつきだ。目を細めてものをまじまじと観察する癖があるのもそれに拍車を掛けていた。今更直しようの無いことだ。
天気は雨、室内は薄暗い。今となっては家主が誰かも分からない廃屋には、住民がこの地区から逃げ出したまま放置されている所為か、底冷えするような雨の中でも不気味な生暖かい生活感の残り香を感じた。通りに面した三階建てのこの家は、この地域での中流家庭が住んでいたのだろう。ブリタニア連邦を初めとした先進国には遠く及ばないが、一時的な拠点とするには申し分ない程度の家具がそろっていた。
寝ていたソファからスプリングを軋ませつつ身体を起こした京介は、改めてヘンリエッタの顔を見た。
「お前もひどい顔してるな」
「ずっとこんなだからね、仕方ないよ」
肩をすくめつつ首を振った拍子に、彼女の耳に掛かっていた髪が零れ落ちた。揺れる荒れた毛先が何故か妙に艶かしかった。
京介は、ぼさぼさのヘンリエッタの髪を見て、自分達がかれこれ一週間以上シャワーすら浴びていないのだと改めて実感した。雨には散々ずぶぬれになっているが、それはまた別だ。
「こうも風呂に入ってないと、流石にべたつくな」
くたびれた野戦服の襟を摘む。湿気を吸って気持ち悪い。腕時計に目をやると、割れた文字盤の上で折れ曲がった針が滅茶苦茶な時間を指している。隙間から覗く小さな歯車は、それが機械式であることの証だ。魔法式を使わないのは、特に理由の無い彼の拘りだった。
壊したのは三日前。目をやって初めてそれを思い出した。次の休暇に買い直そう。壊れていても付け続けているのは、単に無いと落ち着かないからだ。
「……今、何時だ」
「十七時。雨も降り始めたし、そろそろこっちも動こうよ」
枠だけが残る窓の向こうには、迫撃砲の着弾跡だろうか、穴だらけになった通りが見えた。この辺りの街の建物は大抵が半壊、良くても窓ガラスは木っ端微塵で室内は瓦礫だらけになっている。戦闘の跡は通りを虫食う迫撃砲跡だけでは無く、航空機からの爆撃で吹き飛ばされたと思しき建物も少なくない。ここ一年間ほど続いている神聖アナトリア魔法王国のアラブ連合領侵攻の主戦場がこの地域なのだ。天井がいまだに残っているというだけでも、京介たちが居る廃墟は随分ましな部類に入る。
今日日、人々が『最も戦闘が頻発している地域はどこか』と問われれば、およそ半数が東欧を、残り半数が中東を回答とするだろう。前者はEEU(東ヨーロッパ連合)と神聖アナトリア魔法王国との主戦場。後者はアラブ連合国と同じくアナトリアとの主戦場だ。
現代において専ら戦争というものはアナトリアによる領土拡大を理由として起きるというのが一般認識である。
「十七時か……結構寝てたんだな」
京介は割れたプラスチックの雨どいから零れる雨水をぼうっと見つめた。〈知覚〉が雨樋に小さく印字されたメイド・イン・ブリタニアの文字列を捉える。いつかも、こんな光景をぼうっと眺めていたような気がする。ヘンリエッタに記憶を見て貰えば、それがいつの事なのかも分かるのだろう。
「珍しく長かったね。折角だからそのまま寝かせておこうって皆で話してたんだけど、夢でも見てたの?」
「多分……」
京介は一瞬口ごもった。
「多分、昔の夢だろう。もう目が覚めてしまったから、断片的にしか思い出せないけど」
京介の胸中には、夢の残り香が覚えの無い感情としてだけ残っていた。夢見の後にありがちなことだ。恐怖と惨めな気持ち、懐かしさは有るが不思議と郷愁の念は無い。だから、昔の夢だろうと思っている。
「昔って、ヤマトに居た頃の?」
「……まだ自分の〈知覚〉に気付いてなかった頃だろうな。あとは勝手に読んでくれ」
ヘンリエッタも京介と同じく魔法が使えない。この世界において稀有な存在だった。それでも彼らが魔法飛び交う最前線に居るのは、彼らには魔法使いには無い強みがあるからだ。
ヘンリエッタは、自他に対して自由に思考や記憶を読み書きする事が出来る。メアリーが〈思考転写〉と名づけた彼女のこの能力を以ってすれば、京介の思考から彼の夢の内容を読み取ることなど造作も無いことで、京介が言ったのはそういう意味だ。
しかしヘンリエッタはそうはせず、手を後ろに組むとやや芝居がかった仕草で首を傾げた。乾いた唇が笑みの形を作る。
「またの機会にね」
彼女はそれだけ言うと、京介の正面の埃の積もったソファに腰を下ろして目を瞑った。メアリー達に降雨開始を伝えているのだろう。
京介も同じ様に目を閉じ〈知覚〉を使った。京介たちの上、三階にバーナード。姿勢は伏せだから、既に狙撃の準備を始めているのだろう。比較的綺麗な形で残っているこの建物も流石に最上階の三階は全壊して雨ざらしになっている。
「エッタ、アントニーは外か?」
「空が曇ってから。しばらく前にね。そろそろ帰ってくると思うよ」
その言葉に応えるように、目を閉じたまま答えた彼女の背後、蝶番とその先にわずかに木片だけが残る戸から短髪の大男が姿を見せた。大柄なソヴィエト人の男は聞こえていた二人の会話に割り込みつつ、ヘンリエッタの向かいのソファに勢い良く腰を下ろした。埃が舞う。
「少し、外の様子を見てきた。もちろん曇ってからだぞ」
京介達は前線から大きく突出した位置に息を潜めていたが、現在この地域の制空権はアナトリア側にある。市街地とは言え、何かの拍子に偵察機に見つかる可能性も無いわけではない。
アナトリアは科学的な探知手段には劣るが、未知の探知魔法を保有している、あるいは新開発している可能性すらあるのだから。
電磁波の伝搬を阻害するという、音波以外の通信手段の全てを無効化する高濃度魔素の性質上、雨天の前線は外界から完全に隔離された空間である。
可視光線域の伝搬阻害は視界悪化すら起こすのだ。非魔法性兵器が驚異的な普及を見せていても、未だ魔法使いによる雨中の有視界戦闘が陳腐化しない理由はまさにここにある。
「聞いてる。当然だ。それで、何か収穫はあったのか?」
アントニーは濡れた上着を足が折れ傾いたテーブルへと放り投げた。重い音がテーブルを揺らした。
「特に何も。ただ、この街はこの辺りでも特に入り組んでるな。お前に聞いてた以上だ。奇襲が仕掛けやすそうな地形だが、それは敵も同じだろう」
「まだエッタから『地図』を受け取ってないのか」
京介が〈知覚〉した町全体の構造は、ヘンリエッタを介して全員の記憶へ書き込まれているはずだった。
「あれか。いや、もちろん受け取ってる。しかしまあ、なんだ。自分の感覚で得た情報じゃないからな、困ったことに自分の知識として脳内にあるが。自分の目で見ないと落ち着かない」
アントニーは目の前のテーブルの上で、愛用の拳銃の最後の点検を始めた。ミハイル社製の9ミリ。ソヴィエト共和国圏で用いられるごくごく普通の軍用拳銃だが、京介は〈知覚〉によって部品の間に隠れるようにとある部隊章が彫りこまれているのを知っていた。アントニーは自らの出自を語ったことは無いが、特殊部隊崩れということなのだろう。
「そのために俺が来たんだ」
「お前とヘンリエッタを悪く言ってるわけじゃない。俺個人の問題だ。だから……期待しているぞ。お前の〈知覚〉にも、お前にも」
それは、何気ない一言だったが、京介にとって最も重要な言葉だ。それに気がついているのは、残念ながら一人しか居なかったが。
「ああ、任せろ」
京介は雨が降りつける三階に上がり、バーナードの横に腰を下ろした。まだ明るくてもおかしくない時間だが、既に太陽は雨雲の向こうに隠れてしまっている。視界は最早夜と大差なかった。
直に大気中に十分な密度となった魔素の干渉光が、辺りを白く薄ぼんやりと照らす筈だ。そうしてライトアップされた戦場を、未だ現代最強の局地兵器AMFが無数の魔法陣を伴って踊るのだ。
AMFはアーマード・マジックフレームの名前が示す通り、マジックフレームと呼ばれる純魔法物質である素体に、科学技術に由来する武装・装甲・コンピュータ類を取り付けることによって造られる。後付けの武装・電装は勿論電力によって動作するが、素体は純粋に魔力によってのみ動く。
大気中・水中を漂う微細な粒子として知られる魔素は、雨天時、大気中濃度が飛躍的に高まる。そのため雨が降っているときが最適なのだ。魔力供給量が大幅に上昇する雨中では、全力稼働を続けたり大魔法を連続行使すればその限りではないが、適度な休息さえ挟めば雨の振り続く限り無制限の活動が可能だ。
「どうだ?」
スコープを覗いたまま、時折銃身を小さく動かしつつ敵を探るバーナードに聞いた。
敵の野営地までおよそ十キロほど。雨が降り始めたこともあり、敵からこちらが見えることはないだろう。京介の〈知覚〉がなければこの距離からの狙撃など冗談にすらならなかっただろう。
「多分向こうの連中も建物の中だ。見てくれ」
雨音に混じって〈知覚〉が無ければ聞き逃していたかもしれない小声。極力顎を動かしたくないのだろう。
バーナードはそれだけ言うと黙り込んだ。雨に濡れた前髪が額に張り付いていても気障ったく払いのけないところを見ると、既に狙撃用に頭を切り替えているのだろう。
「分かった」
それだけ言って、京介もその場で目を閉じた。
魔法が使えない代わりに、世界で彼だけが使うことの出来る異能〈知覚〉が、中東の雨を走り抜けた。
雨が剥き出しの地面を叩く。染みこむ水分が行き着く地下水脈、あるいは下水。その下水管を辿って全ての建造物へ。
乱雑に立ち並んだ砂色の住居群は雨に濡れて土色に変わりつつある。車が辛うじて擦れ違えるかどうか、そんな通りを挟んで各々の建物は向かい合っている。
魔法ではない。しかし、その理は世界の法則――魔素の縛りから外れることはない。
海より雨雲が運び来る高濃度魔素。雨となって降下した水分は微量の魔素を伴って街全体を覆い、京介により多くの情報を〈知覚〉させる。雨が降り始めてようやく、京介の〈知覚〉は真価を発揮する。単なる周囲の情報把握から、戦術レベルの索敵へと変貌するのだ。
知覚できる情報は形状に始まり、色、温度、質量など、人間が五感で知覚できるおよそ全て。しかし最も反則染みているのはその範囲である。魔素が行き届く限りほぼ無制限である。
結果、およそ半径にして10キロ圏内の全ての地形、建造物、敵兵の配置が京介によって把握された。
敵兵に至っては所持している武装から弾薬数までが筒抜けの状態だ。
「……居るな。昼前から配置も大して変わってはないが、少し動きがあるか」
「向こうで動きがあったか」
「ああ、ミナジルカスの本隊だろう」
ミナジルカスは京介たちの居る街・アルドリカーネから見て東に位置する盆地に造られた街だ。今回の作戦でアラブ連合軍の本隊が奪還目標としている。
そして、この盆地こそがアナトリアの侵攻開始以来の激戦地である。
盆地は降水量が少ないが、一度降り始めると大気中の魔素濃度が極端に上昇することから、通常兵器での侵攻の難しさも相まって、AMF同士の戦闘が発生しやすい地形である。また、その性質故に防御結界の設置場所としても優秀であるため、地形を通常兵器に、魔法をAMFに対する備えとした城塞都市となっていることが一般的である。
よって歴史上でも盆地は砦同然の扱いを受けており、侵攻側は高い優先度で制圧を目指すべきとされているが、近年では航空機の発達もあってかその重要性は年々薄れつつある。とはいえ制圧さえできれば、雨中における進軍を支える強固な橋頭堡と成りうる点は、未だ重要視されている要素だ。
三階に上がってきたアントニーが京介の横へ音もなく中腰で駆け寄り、囁いた。
「メアリーからゴーサインだ。アラブ連合軍の動き、俺達の目標共に変更無し」
「エッタは?」
「あと一分もしない内に地形情報を伝え終えるはずだ」
「分かった……じゃあ、動くか」
京介はちらりと腕時計に目をやって、罅割れたサファイアガラスの水滴を拭った。既に半分が割れてなくなったガラスから、さらに欠片が幾つか落ちた。
首を回して、髪を掻き上げ、目を閉じ天を仰ぐ。
瞼を開くと眼に向かって落ちてくる雨水――異能〈知覚〉による超感覚がもたらす体感時間の加速が京介に見せた光景は、さながらストロボ効果だ。
辺りが白くぼんやりと明るくなってくる。
高濃度魔素は可視光線の伝搬をも妨害し、高濃度となるにつれて辺りの光量を低下させるが、逆にそれ自体が薄ぼんやりと発光する性質を持っているため、ある一定の閾値を超えた段階で光量は次第に復帰し始める。もっとも、明るさが改善するだけで視界は狭まったままであるが。
そしてこの発光こそが、魔法使いが舞う戦場の開幕、その証だ。
「バーナード。事前に確認した狙撃ポイント、Cはやめだ。アナトリア兵の配置が今変わった」
「それなら俺からも一つ、ポイントEに条件がある。事情が変わった。あそこから撃つのは一度だけだ」
撃てば必ずバレる、そういう事だ。
「分かった」
《前線の四人へ》
立ち上がった京介の思考に、メアリーの声が介入した。数十キロ離れた距離に居るはずのメアリーの声を最前線まで届けているのは、ヘンリエッタの異能〈思考転写〉だ。ヘンリエッタ自身も含めて、京介たち四人に同時に伝達している。
《予定通りお姫様を釣りだして頂戴。AMFは最低でも二機以上鹵獲すること。それと急いで》
《……予定変更か。誰にせっつかれたんだ》
溜息混じりの京介の質問に、メアリーも不快な色を隠さなかった。
《SSFよ》
ブリタニア連邦軍第二特殊作戦群(Second Special Forces)は、電子戦を得意とし雨中以外でのAMF戦闘を主眼においた全世界を見ても特異な部隊である。およそAMFの正統からかけ離れた運用法を採るこの部隊は、しかし世界屈指の展開能力を持った、ある意味で大魔法使いのみで構成される決戦火力である第一特殊作戦群以上に、ブリタニア連邦の切り札的存在である。
非雨天下におけるAMFの全力稼働時間は凡そ五分。しかし稼働時間さえ眼を瞑れば、豊富な魔素がなくともAMFは通常兵器では戦闘が成立しない程の戦力である。その五分を以て戦場に決定的な突破口を作り出す、ただそのためだけにブリタニア連邦SSFは存在している。
SSFは京介達にとって今回の作戦の鍵となる存在である。最も、逆にSSF側もまた京介達を良いように使おうと思っているのは同じだろうが。
《投下予定を十分繰り上げ。なんでも、『非雨天下のAMF投入は避けられるものならば避けるに越したことはない』そうよ》
《尻込みしやがって、腰抜け共が》
バーナードが舌打ち混じりに文句を行って、立ち上がる。
《まあ、〈霧の魔女〉が居ると分かった上での作戦だ。その気持ちも分からないでもないが……》
《向こうは私達を出し抜きたい腹積もりでしょうね》
どちらかと言うと出し抜きたいのはメアリーを含んだ京介達の部隊そのものではなく、メアリー個人だろう、そう思っても口にはしなかった。どうせ思っていることは全員同じだろうからだ。
メアリー・レイヤード。
世界に個人名で通じる魔法使いは多かれど、その何れもが彼女に匹敵することはまず無いだろう。
彼女がどのような人物か端的に言うならば『世界最強の魔法使い』である。大魔法使いが駆るAMFに生身で対抗しうるとすら言われる彼女の戦闘能力は、かつて彼女が籍を置いていたブリタニア連邦が彼女個人の名前を組織図において一軍団戦力と同列に記していたという逸話だけで十分に伝わることだろう。
伴侶を持たないまま四十路を目前にして二十代と変わらない美貌。お伽話的な意味も加えて『魔女』と呼ばれることすらある。そして、そんな見た目とその強さ以外に一切の個人情報が謎に包まれたままであるというのも特筆すべき点だ。ブリタニア連邦はおろか、京介たちですら彼女の生い立ちについて何ら情報を持っていないのだ。一説にはアナトリア特級貴族の出自だとも言われるが、さて、その真偽は如何なものか。
しかし、彼女の最も常人離れしているのはその頭脳である。政治経済のセンスもさることながら未来予知じみた戦略眼は、彼女がブリタニア連邦から出奔した後秘密裏に組織した京介たちの部隊に、たかだか一部隊だけの戦力でありながら大国の正規軍を翻弄するだけの立ち回りを実現させているのだ。
つまるところ、彼女の指示は未来予知も同然で、それにさえ従っていれば勝利は揺ぎないのだ。
最も、彼女の指示を実行出来るだけの部隊が世界にどれだけ居るかという点に疑問が残るが。
そして何より、京介達自身、メアリーが何を目的として指示を出しているのか知らないのだ。徹底的な秘密主義。彼女と京介達は、ただ各々が彼女と何らかの『契約』を以てその指示に従っているというだけだ。
京介達は、ただ単に、そういう集まりだった。
《とにかく、分かった。予定時刻を十分繰り上げる》
《二十分よ。それ以下は許さないわ》
《今の計画で既に限界なんだぞ。これ以上は犠牲が出かねない》
《可能不可能は聞いてないの。やりなさい》
全周十数キロへ再度、京介の〈知覚〉が走る。前線指揮を任されているのは京介だ。異能〈知覚〉と機転、それ以外を京介は持っていない。
《命令よ》
メアリー側から〈思考転写〉が一方的に打ち切られた。その方法は全くもって不明だが、ヘンリエッタの異能〈思考転写〉以外では再現不可能の絶対能力を一方的に阻害できるのは、世界でメアリー・レイヤードただ一人である。
「相当の無理が必要だな……」
京介の重い呟きは雨に掻き消されたが、その場にいた全員が察した。
メアリーがやれというのなら、それがこの世で彼女の目的を達するのに最も最短で、無駄がなく、そして最適の方法なのだ。同時に、京介が難しいというのなら、それは掛け値なしの難題なのだ。
しかし、京介は嘘を言わない。彼が『難しい』と言ったのなら、それは『不可能ではない』ということに他ならない。
「バーナードはポイントAに移動だ。対物ライフルはやめだ。積んできた特殊狙撃砲を持っていけ。数キロ壁ごと抜くからその積りで居ろ」
「……了解」
長身の対物ライフルを片手で持ち上げ、肩に担いだバーナードは荒っぽい足取りで階下に降りていった。いつもの様に茶化した返事をする余裕もなかった。
「エッタは最新の地形情報と敵兵配置を読んで、全員に送れ。それと敵兵から情報を抜け」
「分かった」
ヘンリエッタは京介の横にしゃがみ込み、眼を閉じた。京介の言った『情報を抜け』というのは敵兵士の思考を読み取ってその行動目的や予定を教えろ、という意味である。
「敵のAMFは?」
残ったアントニーが問う。彼ら四人のうち、単純な戦闘を担当するのが彼だ。
「喜べよ。一個機動中隊――三機だな。こんな辺鄙な所に三個中隊とは、アラブ連合の情報は筒抜けらしい」
返す京介の気の抜けた皮肉が虚しい。
通常、AMF一機を運用するためにパイロットである主力魔法使いに加え、整備員や輸送機パイロット、予備パイロットを兼ねた護衛の魔法使いなど、十人程度が必要とされる。大抵の軍ではこれを一個機動小隊としており、一個機動中隊は三個機動小隊から構成される。
単純な話、京介達は四人でAMF三機を運用するアナトリア軍正規軍魔法使い三十人を相手取ることになる。
さらに事を難しくしているのは、これが陽動であるということだ。素早く、彼らが対処不可能にならない程度の増援を送らせる――つまり、絶妙な数減らしが必要である。加えて、援軍に送られる人物の指定付きだ。
「一機はバーナードに潰させる。一機奪って、最後の一機は確保。ルートは作る。北東、屋根の半壊したモスクだ」
AMFが配置されるである場所は事前に確認してある。結局、アナトリア軍AMFは最有力候補地に配置された。
「行け」
アントニーは自分の装備を背負うと、そのまま何も言わず表の通りに飛び降りた。そして、間髪置かずにヘンリエッタが京介から記憶を読み取り終える。
《地形と敵兵情報、いくよ》
宣言から皆の返事を待たずして、記憶への情報の直接転写が始まった。
《伝わってるぞ……ああ、分かるな》
地上のバーナードから返事が〈転写〉されてきた。
《つくづく、強力な魔法だ。この街の全てが手に取るように解る》
《魔法じゃない……アントニー、その通りを右だ。突き当りの民家を通り抜けたほうが早い》
アントニーの言葉に不機嫌に訂正を入れつつ、京介は通りの向かいの建物、その壁を凝視した。〈知覚〉がその壁を抜けさらに数本奥の通りを疾走するアントニーの姿を伝えている。魔法使いの移動力は速度で乗用車を軽く上回り、上下動も自由自在で地形無視と、戦場における魔法使いの強さを如実に物語っている。
ものの二、三分でアントニーはモスクに到達するはずだ。
《ポイントA、狙撃準備完了。詳細データ頼む》
配置についたバーナードから連絡。
戦闘が開始すればヘンリエッタは常に自信以外の思考を監視し、発言や伝達に類するものがあれば即座に〈転写〉を行えるように用意している。音波以外のあらゆる通信手段を無効化する高濃度魔素の中で自由自在に情報の融通が出来る事の優位性は絶対的である。
この雨の戦場で、京介達四人だけが密な連絡を取る事が出来るのだ。
《間髪入れずに行くぞ。試射無し。殆ど連射だが一発も外すなよ》
《外すかよ》
京介の〈知覚〉が十キロ先のアラブ連合軍兵へ向けて飛ぶ。即座に得た全ての情報――目標とバーナードの相対位置、距離、緯度・経度、風速、射線上の魔素濃度――それらを生のまま整理せずヘンリエッタを介してバーナードの記憶に直接焼き付ける。
《クソ、熱いな……》
バーナードが呻く。
ごく短時間で焼き付けられる偽りの記憶に、脳が焼けて溶けるような気さえした。頭痛もしてきた。
今、バーナードの目の前にあるのは壁だ。比喩ではなく、バーナードの目の前に射線が開けているわけではなく、ただ物理的に壁があるのだ。
構えるは大型の特殊狙撃砲。大男を一人横たえたような巨大な本体から、折りたたみ式の長大な砲身が伸びる。言わば携行型の戦車砲である。外観からしてそもそも狙撃用途ではない。
それもそのはずで、もともとは分隊支援用の対戦車砲がベースの改造品だ。狙撃砲の名前は京介が便宜的に使っているだけで、砲弾の直進性も有りある程度の狙いは付くが決して『狙撃』を行える代物ではない。照準器すら付いておらず、砲身からして折りたたみなのだ。最早、馬鹿げているとすら言われかねない光景だった。実際、アラブ連合の前線基地に帰れば酒の席の冗談として、酔いが回りきった聴衆から失笑を買う程度は期待できるだろう。
《砲身調整、送るぞ》
しかしそれを可能にするのが京介の〈知覚〉だ。
京介がバーナードの構える砲を〈知覚〉し、最適なコンディションに調整するための調整値を伝える。計測誤差が寸分足りとも存在しない、言わば計測における理論値。受け取ったバーナードが調整ネジを身長に回してゆく。
《やり過ぎだ、少し戻せ……まあ、それくらいで良いだろう》
これでも実際は『狙撃』には遠く及ばない。しかしこれで良いのだ。これで充分である。
これだけの口径ならば、知覚に着弾さえすれば生身の人間は千切れ飛ぶのだから。
相手が魔法使いであろうとも、防御できるはずがない。
魔法によって音速を超えて限界加速された弾速ならば、建造物を貫いてなお、人間の知覚を上回る速度である。
《よし》
バーナードの指が引き金に添えられる。絞る。
一瞬の無音。
雨音すら消えた。
《撃て》
メアリーは本作唯一の純粋なチートキャラ。