08
中学三年の年、美幸は進路を変えると田中に言い出した。理由を聞くと、だれにも内緒だといって、訳を話してくれた。
どうしてもお近づきになりたいのだと。
自分の家庭を築ける、唯一の女性かもしれない、と。
美幸の目は真剣だった。少女らしい風貌で気づかれないが、桜井家のひとり息子は、中身は男っぽかった。周囲が期待するように笑顔を浮かべもするし、坊ちゃん育ちで鷹揚だったり、鈍かったりもするが、きっぱりしてリーダーシップを発揮したりもする。
「協力してくれる?」
「はい」
「…………自分が夫になりたくなったりしない?」
「しません」
「どうしてそういえるの」
「家庭を夢みたことなどありませんので」
美幸は、田中の返事を聞くと、腰掛けていた椅子から足をのばしてうつむいた。
「……ですが、坊ちゃんの子供をこの目で見ることができれば、わたしはきっと嬉しいとおもいます」
顔をあげて美幸はすこし微笑んだ。
ほんとうは、赤ちゃんを抱いて喜びをいっぱいたたえた美幸の笑顔が見てみたい。画像で見せてもらった、美幸よりよっぽど男らしいひとつ年上の高校生が、妊娠する可能性がある本来なら世界で保護すべき対象であることなど田中は問題にしなかった。
「では、さっそく手配をいたしましょう」
「――父さんは怒るかなあ」
「新しい進路先の高校も、そう悪くないとおもいます。大学さえ社長のご希望どおりであれば、そう強く反対されないでしょう。そこはわたしがうまく話しておきます。坊ちゃんはぜひ、高校がいっしょの間に、このかたと婚約を交わしてくださいますように」
「緊張するなあ」
学力の点からは問題はない。通学距離の長さが欠点だろう。それは天童の仕事だ。
*
耕四郎は田中を通じての美幸の画策に感づいているようではあったが、田中にあずけて黙認してくれた。真相を知ればさぞ驚くことだろう。自身の息子の純粋さと無謀に、眉をくもらせるかもしれない。
剣持始という女性性をもつ存在については、美幸の優秀な従兄からの情報提供だというから、その後のプロテクトも如才ないことだろう。
田中は美幸があっけなく合格した北方高校の入学説明会に出席し、教科書や制服やカバン、体操着など細々したことを片付けてきた。美幸はしきりと行きたがったが、天童に反対されて入学式まで夢見ている相手を目にする機会を延ばされていた。
帰宅すると教科書や書類はそっちのけで、剣道部はのぞいてきたかとか、あのひとはいたかと美幸にまといつかれた。
「あやしい行動は慎みました。坊ちゃんの楽しみをわたしが先に味わうわけには参りません」
「ああ、おにいさんの意地悪……! ちょっとくらい様子を見てきてよ」
「学校はのんびりとした雰囲気でしたよ、田舎の学校ですね」
「その様子じゃない!」
オーバーに抗議する美幸に、田中は無表情で応酬した。そうしているうちに、美幸が指折り数えて日々がすぎた。
*
人生に夢のある子供。将来を夢見られるとは、またそれにむかって進んでいけるとは、なんという生命力だろうか。
桜井美幸は当然のように、そうしている。
世界倫理から見れば、個人の卑小な欲望にすぎないかもしれないが、かつて男と呼ばれた性がそうだったように、かれは女性を獲得したいだけだ。
失われたと嘆かれるだけの女性がいて、夫婦のあいだに子供ができて、家庭を築く、ということを完遂したいのだ。それは半世紀前までは、ほんのささやかな、平凡な夢だった。
逆転された世界で、美幸は堂々と夢を見ている。見ているだけではなく、行動している。なんて眩しいことだろう。
明日を入学式に控えて、美幸はさっさとベッドにはいったがなかなか寝つけていないだろう。自分の部屋にさがった田中は、美幸が起きる予定の二時間前に時計をセットした。
パジャマに着替え、眼鏡をナイトテーブルにおき、ライトを消した。暗闇になれた目で、天井を見上げる。
いつの間に、自殺のことを考えなくなったのだろう。
もう三十二才になろうとしている。なぜ、生きているのか。
(いいさ、明日は早く起きて坊ちゃんを起こすんだ、もう寝よう)
田中は目を閉じた。
真新しい制服を着た美幸は、さぞかわいいことだろう。その姿に目を細める耕四郎や芝、大仰に褒め称える片山、控えめにうなずくだけの天童などの面々の顔が浮かんだ。
番外編一 完結




