誘拐 <1>
タケルとトーマは夏祭りの夜に琴音という美少女と出会う。ひと夏をこの町で過ごすためにやってきたという。タケルは琴音の心の中の影に気がつくが、トーマはこの美少女に一目ぼれをしてしまったらしい……。
祭から一週間が過ぎた。
タケルはこのところ毎朝トーマの襲撃で起こされる。
八時前にはトーマが家にやってきて、タケルを叩き起こし、無理やり宿題をやらされ、十時前にはトーマに公園に連れて行かれる。夏休みの自由研究と称して毎日のようにビオトープに虫の観察に行く。 しかし、虫の観察というのは表向きで、なんの事はない、そこで祭で出会った美少女、琴音と会うのだ。
正直タケルはどうでも良かったのだが、トーマの変貌ぶりがおかしくて、ついつい付き合ってしまう。トーマの浮かれっぷりはただ事でなく、毎日うきうきしているのは一目瞭然だった。ようするに一目ぼれというやつだ。
琴音はタケルやトーマと同じ六年生だった。夏休みを高乃城の親戚の家で過ごすという。住まいは東京だということだった。
今時の女子にしては珍しく、トーマが採った虫を興味深そうに覗きこんだり、触ったりする。
「怖くない?」
トーマが遠慮しながら小さなアマガエルを見せた時も、にこにこしながら、
「全然。かわいい」
と、自分の手のひらに乗せてみせた。
「今の学校に来るまではしょっちゅうこんな事してたから。久しぶり」
「今の学校ってことは、引っ越しして東京に?」
トーマが何気なく尋ねると、琴音の顔に一瞬戸惑いの色が浮かんだ。
「……うん。とんでもない田舎から東京に来たから……。すごくびっくりした!」
すぐに明るい口調に戻ったが、タケルはちらりと琴音の横顔を見た。
トーマは気がつかなかったようだが、一瞬、琴音の心が動揺したことがタケルに伝わってきたのだ。
タケルは二人から少し離れたところでリフティングの練習をしながら考えていた。
琴音には何か秘密があるに違いない。それが何かはわからないが、どうやら他人にはあまり知られたくない事である事は確かだった。
この一週間、琴音の様子を見ていたが、時々琴音から不思議な波を感じるのだ。それは自分が予期していないような質問をされた時や、びっくりした時などに伝わってくる。その波は今まで周りの人間、家族やトーマ、クラスメートがびっくりした時などに感じるものとは全く質の違ったものだった。
その違和感は少し危険な匂いがする。動物的な直感とでも言うのだろうか、理由はわからないがタケルの中の本能の部分がそうささやいているような気がしていた。
タケルの不安をよそに、トーマはどんどん琴音に引き寄せられていく。それが手に取るようにわかるだけに、タケルは自分の不安をトーマに言えないのだ。こんな事をいったらきっとトーマは怒るだろう。自分にとって大切な兄弟のような親友を怒らせるのはこわかった。今のタケルにとっては誰よりも信頼できる友達なのだ。
「タケルくん!」
琴音の声にはっと我に返る。いつの間にかトーマの姿が消えていて、琴音がタケルの傍に立っていた。
「あれ? トーマは?」
「お手洗いだって」
タケルは地面に転がっていたボールを右足でひょいとすくい上げ、手で受けた。
「すごい」
琴音が目を丸くする。
「ジャグラーみたい」
「いやあ、それほどでも」
さっきまでの琴音に対するほのかな不安はどこへやら、タケルは思わず照れる。おだてにはからっきし弱いのである。
「サッカー上手いのね。もう随分長くやってるの?」
「サッカークラブに入ったのは一年だけど、保育園の頃から父ちゃんとボール蹴りやってたかな」
「じゃあ、将来はサッカー選手だ」
「う~ん、ま、なれればいいけどね」
タケルはボールを地面に落とし、軽く蹴りながら日陰へと移動した。そこに腰をかけると琴音もその隣に腰を下ろす。
「琴音ちゃんはスポーツとか得意な人?」
「……だめ。どんくさいっていつも笑われる。ぼーっとしてるから、周りのスピードについていけないの」
琴音は小さく笑うと肩をすくめた。
「小さい頃から、あんまり同じ年頃の友達がいなかったんだよね。小学校に入ってからも、なんか上手く話せなかったりで……。だからトーマくんとタケルくんがすごくうらやましい……」
「……そうなんだ」
琴音の顔には寂しそうなほほ笑みが浮かんでいる。大人の女ならともかく、十二歳の子供には似つかわしくないほほ笑みだ。その途端に、タケルの脳裏に映像がフラッシュのようにちらつく。
小さな子供達が遊んでいるのを少し離れたところから眺めている琴音。一緒に遊んでいる友達を大人が慌てて連れて行ってしまう。まるで琴音から逃げるかのように……。
頭の芯がちりちりと痛む。タケルは思わずこめかみを押さえた。
「大丈夫?」
琴音がびっくりしたように覗き込む。
「大丈夫……。太陽に当たりすぎたかな」
タケルはとっさにその頭痛を太陽のせいにした。見てはいけないものを見た、琴音に悪い事をした、そんな気持ちが湧きあがってくる。
「ずっと直射日光に当たってるからよ。頭冷やす?」
立ち上がりかけた琴音を慌てて止める。
「大丈夫大丈夫。これくらいなれてるから」
そお? と琴音は心配そうに再び腰を下ろした。
「ねえ、試合とかってよくあるの?」
琴音はふいに明るい口調で聞いてきた。
「うん。しょっちゅうある。練習試合とか交流試合とか、毎月なんかあるね。公式試合だけでも年に五、六回はあるかな。そういや、次の日曜日も試合だ」
隣の市のサッカーチームとの交流試合だ。
「出るの?」
「うん。一応レギュラーだからね」
ちょっと自慢気にタケルは鼻の下を指でこすった。実際、選抜メンバーの時でもたいていはレギュラーに入っている。今度の試合はチームの六年生が全員出場する予定なので、当然タケルも入っている。
「ここのサッカーグランドでするんだ」
タケルは木立の向こう側を指さした。へえ~っと言いながら琴音が指の方を眺めた。
「一度見てみたいな。サッカーの試合」
琴音のつぶやきを聞きながら、タケルの視界にトーマが小走りに戻ってくるのが見えた。
「じゃあ、トーマと一緒に見に来る? でも、言っとくけど、暑いよ」
「うん!」
琴音は嬉しそうに言うと、トーマに向かって手を振った。トーマが少し離れたところから顔を上気させながら手を振り返した。
<続く>