<5>
長い黒髪の、同い年くらいの女の子だった。
傍にいたトーマが慌てて駆け寄って、女の子を起こそうと手を差し出している。
尻もちをついた拍子に、肩から下げていたポシェットの中身が転がり出たらしく、携帯電話と財布が地面に転がっていた。丁度手を拭こうとハンカチを出したところにタケルとぶつかったらしい。
タケルは慌てて携帯電話と財布を拾い、ついた泥を自分のズボンでごしごしと拭った。そして慌てて立ちあがった。
「ごめん! 大丈夫だった?」
女の子は顔をしかめて汚れたスカートを手で払っている。そしてタケルから携帯電話と財布を受け取った。
「……ありがとう」
「けが、してない?」
「うん」
うつむき加減に頷くと、そそくさと人混みの中へと紛れて行く。人前でぶざまに尻もちをついてしまったのがよほど恥ずかしかったのだろう。
「悪いことしちゃった……」
タケルは頭をかきながら隣のトーマを見た。
トーマはぼーっと女の子が消えて行った方を見ている。
「トーマ?」
タケルの中に、トーマの心のざわめきが伝わってくる。今までに感じたことのない、妙に浮ついた、ほのかにピンク色のざわめき……。
「トーマ?」
もう一度声をかけるとトーマははっと我に返った。
「タ、タケルは大丈夫?」
慌ててタケルの背中や膝を見る。トーマのやつ、何を動揺してるんだ? タケルはきょとんとしながらトーマを眺めた。
決まりが悪くなったのかトーマはきょろきょろと視線を泳がせた。
「ん?」
急にしゃがみこみ、何かを拾い上げた。立ちあがったトーマの手の中にはビー玉ほどの水晶玉と龍の彫り物のついた根付けが乗っていた。
「何?」
タケルが覗き込む。
「ストラップ? えらく渋いな」
トーマは柄杓の水をかけて泥を落とした。水晶玉には小さな幾何学模様が彫りこまれている。家紋のようだ。
「根付けだよ。紐が違うだろ?」
確かに細い黒い糸のような紐ではなく、古びた細い組紐だ。千切れたようである。
「財布とかにつける、おまじないみたいなものだよ。……これって、もしかして、さっきの?」
トーマがタケルを見た。
「確かに財布、落としたよな。でもさ、子供が持つのに渋くない?」
「……まあ、確かに」
トーマは手の平に根付けを乗せてじっと見つめている。
「……でも、なんとなく、さっきの子の持ち物のような気がするんだけどな」
そう呟きながら、トーマは自分のポケットに根付けをねじ込んだ。
二人はそのままなんとなく歩き出し、神社の方へと向かった。
人波に押されるように境内に入り、本殿の前にたどり着く。財布から賽銭を出そうとして、ほとんど露店で消えてしまったことを思い出し、タケルはぺろっと舌を出した。
「タダでも願い事、聞いてくれるかな」
「さあ」
トーマは笑いながら十円玉をタケルに渡してくれた。
申し訳程度に手を合わせると、参道から少し離れたところでベビーカステラを口に放り込む。
「これ、アユミちゃんにお土産じゃなかったの?」
トーマが覗きこむ。
「こんなの食わせて、うっかり喉に詰めたらどうするんだよ! って母ちゃんがうるさいんだ。それにさ、まだ露店の食べ物は食べさせないで!ってさ。俺には何食っても大丈夫! みたいな事いうくせに、アユには妙に細かいこと言うんだよ。ああいうのを猫かわいがりって言うんだろ?」
タケルは不服そうに唇を尖らせた。
「タケルだってアユミちゃんの事、充分猫可愛がりしてると思うけど。ちょっとすりむいただけでも大騒ぎしてるじゃん。自分はしょっちゅうズルむけで、だらだら流血してるのに」
「しょうがねーよ。かわいーんだから。ほれ、トーマ、食え」
トーマの口に無理やり一つ押し込み、自分は続けざまに二つ三つとほおばる。と、
「う……喉に……詰まった」
急に目を白黒させる。トーマが慌てて背中をぽんぽんと叩いてくれた。
「タケルが詰めてどうするんだよ。欲張りすぎなんだってば」
タケルはうぐうぐ(水、水)と言いながらさっきの手水屋の方へと向かって走りだした。
苦笑いしながら仕方なくついてきたトーマがあっと声を上げた。
手水屋のところにさっきの女の子の姿があった。下を見ながらきょろきょろと何かを探しているようだ。
「やっぱりそうだったんだ!」
トーマがタケルを追い越して走り出す。いつもは大人しいトーマが珍しいこともあるものだとタケルは首をかしげて後を追った。
泣きそうな顔で足元を覗き込んでいる女の子にトーマは声をかけた。
「あの!」
はっと顔を上げた女の子と視線が合った途端に、トーマは急におどおどし始める。
追いついたタケルは柄杓で水を飲みながら、トーマと女の子を交互に見比べた。
それほど明るくない中でもはっきりとわかるくらいトーマは耳まで真っ赤になりながら、上を見たり下を見たり、女の子を見たりタケルを見たりしながら、あの、その、と言葉を探している。じゅわ~っと頭のてっぺんから湯気でもたっているのではないかとタケルは心配になってきた。
それとは対照的に、女の子の方は不安げな表情でトーマとタケルを見ている。と、タケルの心の中に奇妙な不安感が津波のような勢いで伝わってきた。あまり普段感じたことのない感情の波だ。強い警戒心と怯え。まるでライオンの視線を恐れる草食動物のそれのようだった。よほど人見知りの強い子なのだろうか。
「あのさ、もしかして、さっき、ここで落し物した?」
トーマがあまりおどおどしていて話が進みそうにないので、仕方なく、タケルが口を挟む。
「え……うん」
女の子がためらいながら頷く。
「それって、ストラップみたいなヤツ?」
タケルはトーマを肘でつついた。はっと我に返ったトーマは、慌ててポケットからさっきの根付けを取りだした。
「これ」
「あ」
女の子の顔がぱっと明るくなる。
「良かった。あった」
トーマがおずおずと手を伸ばした。女の子の手の平にそっとそれを置く。
「大切なものだったの。良かった、あって」
「俺がぶつかったから……。ごめんね」
タケルはそう言って改めて女の子を見た。トーマがドキドキする訳がようやくわかった。
提灯の明かりに浮かびあがる顔立ちは、びっくりするほど色白で整っていた。可愛いというよりは綺麗と言った方がいい。それも日本的な、透き通ったような綺麗さ。この子なら、さっきの古風な根付けを持っていても不自然ではないと思わせるような。きっと、着物が似会うに違いない。深い湖を思わせるような不思議な瞳をしていた。こんなに綺麗な子は見た事がない。
が、色気より食い気の方が優先しているタケルはあっさりと視線をトーマに移した。
「トーマ、そろそろ行こうぜ」
固まっているトーマの肘を引っ張る。
「あの!」
女の子が思いきったように口を開く。
「北口の方に行きたいんだけど……道がわからなくなって」
タケルとトーマは顔を見合わせた。確かにだだっ広いが、それほどわかりにくい公園ではない。地元の人間なら滅多なことでは迷子にはならない。
「ここ、初めて?」
「……うん」
女の子は小さく頷いた。
「い、いいよ!」
トーマが素っ頓狂≪すっとんきょう≫な大声を出す。
「僕たちが、お、送っていくから」
「え?」
「どうせ僕達ももうじき帰るし! ね、タケル!」
え? 今来たところじゃん。まだトウモロコシとベビーカステラしか食ってないし。タコ焼きとミルクせんべいも外せないでしょ。あ、そういや俺の財布は空だった。いやいや、トーマはまだいくらか残ってるはずでしょ。タケルはそう反論しようとしたが、トーマは既に先頭に立って歩きだしていた。
トーマのヤツ、何舞い上がってるんだ??
タケルは心の中でぶつぶつ呟きながら二人の後を歩き出した。
女の子は不安そうに時々人混みの中へと視線を走らせる。誰かを探しているようにも見えた。そう言えば最初に声をかけた時にも妙に怯えた様子だった。
なんだろう、何をそんなに怖がっているんだろう。迷子になったという不安感だけではなさそうだ。
「ここ広いから、初めてきたら迷子になるかもね」
タケルは二人に並ぶと声をかけた。あまりにも不安そうなので可哀そうになってきたのだ。
「今日は人も多いしね。でもそんなに複雑な場所でもないから、昼間だったら大丈夫だよ」
「よく来るの?」
「俺はサッカーの練習で毎週来る。トーマはビオトープで虫見たりするのにしょっちゅう。な、トーマ」
タケルはトーマを見た。トーマは赤い顔をしたまま視線を合わさずうんうんと頷いた。
「ビオトープがあるんだ」
女の子の声が少し明るくなる。
「虫好きなの?」
トーマがやっと女の子を見た。クラスの女子などは虫と言うだけできゃあきゃあ大騒ぎする。
「好き……という程でもないけど、怖くはないかな。慣れてるから」
「へえ、珍しいね。ここのビオトープ、いいよ。糸トンボもいるんだ」
「へえ、こんな街なのに?」
トーマの目が急に輝きだす。ほら、来たぞ。虫の話になると急にスイッチが入るんだ、こいつは。タケルはおかしくなってにやにやした。
初めて出会った女の子相手に糸トンボについて熱く語りだす。
トーマは優しいし、大人しいし、とんでもなく頭が良いから、女子からも好かれそうなものだが、案外人気がない。あんまりにも興味が偏っているのだ。テレビで見るのはニュースとかドキュメントとか、動物や昆虫物ばかりで、アイドルやらスポーツやらには全く興味がないようだった。だからクラスの女子とはほとんど共通の話題がない。うっかりクラスの女子に虫の話なんかしようものなら、十秒で逃げられる。もっともトーマにとって、そんな事はどうでもいいようで、おかしくなるくらいマイペースに自分の興味を追求していく。良く言えば学者、悪く言えばオタクといったところか。
が、今日は少し様子が違うようだ。意外な事に女の子はうんうんと熱心にトーマの昆虫談義をを聞いている。それもかなり興味深いような手ごたえだ。さらに驚いた事には、彼女の心の中の不安感がだんだん小さくなってきているようだった。世の中には不思議なことがあるもんだ。と、タケルは感心した。
露店の続く道から枝分かれしている遊歩道の方へと向かう。北口に向かう道は帰る人よりも来る人の方が多い。まだまだ宵の口だ。これから祭を楽しもうという人達だろう。
「この近くに住んでるの?」
女の子がトーマに尋ねる。
「自転車で十五分くらい。君は?」
「……家は遠いんだけど」
一瞬口ごもる。そのわずかな時間にタケルの中に“声”が響いた。
なんて答えたらいいんだろう……。ヒノオとは関係ない人達だとは思うけど……。
それは明らかに焦っているといった様子だった。タケルははっとして女の子を見た。ヒノオ? なんの事だろうか。
「親戚の家に遊びに来てて……。夏休みだから……」
慎重に答えを選んでいるようだった。
トーマは女の子の心のぶれにはまったく気がつかず、楽しそうにしゃべっている。女の子の心もまた穏やかになり、トーマとのおしゃべりを楽しんでいるようだ。
なにやら訳がありそうだ。ただの綺麗な女の子……そんなものではないような気がしてならない。この子は何かが違う。そんな思いがざわざわと心の表面を撫でて行く。それはトーマの心のざわめきとはまた違う戸惑いだった。予感と言った方がいいのかもしれない。
「そうだ!」
トーマの大声にタケルははっと我に返る。
「明日、僕ビオトープに行くつもりしてるんだけど、一緒にどう?」
トーマのセリフに思わず目をむいた。トーマが女子を誘っている? なんだ、なんだ、この展界は? トーマが女の子をナンパしている!?
「タケルも行くんだよね?」
トーマは強い口調で言いながらタケルを見た。その目が、「頼むから、うんって言って!」と懇願している。
「え? う、うん」
そんな約束はしていなかったはずだよな……。タケルはとまどいながら勢いに負けて頷いてしまった。
「え? いいの?」
「もちろん。高乃城の案内してあげるよ。ね、タケル!」
「う、うん」
なんだこの積極性は……。タケルはあっけにとられてトーマを見る。
三人は北口にたどり着いた。広い道路の向こう側から誰かが叫ぶ。
「琴音ちゃん!」
女の子ははっとした顔で声の方を見て、ペロッと舌を出した。
「親戚のおばさん。見つかっちゃった」
そして二人に向かって丁寧に頭を下げた。
「どうもありがとう。……明日、本当にいい?」
「もちろん。じゃあ、ここで。午後は暑いから、午前中がいいよね。十時とかでもいける?」
「うん。……ええっと、名前は」
女の子は二人の顔を見比べた。ああ! と、トーマは声を上げる。
「僕トーマ。こっちがタケル」
そして右手を差し出した。女の子はびっくりしたようにその手を見ていたが、ふっと笑みを浮かべた。
「私、琴音」
トーマの手をふわりと握り、そしてくるりと踵を返した。
「じゃあ、また、明日!」
琴音というその少女は小走りに声の主の方へ向って走り出した。
交差点を渡ったところに若い女性が琴音を待っていた。勝手に家を抜け出した事を叱っている声が微かに聞こえてくる。
「琴音って言うのか……綺麗な名前だな」
トーマがぽそっと呟いた。遠くに見える琴音の後ろ姿と、上気した顔で見送るトーマを、タケルはきょとんとした顔で交互に見比べた。
<続く>