<2>
母屋の一室ではまだ薬で朦朧としている琴音が女達の手によって着替えさせられていた。
白い着物の上に緋色の薄絹の衣を着せられ、両脇から支えられながら椅子に腰かけさせられている。後ろに立った女は琴音の髪を結いあげ、豪華なかんざしを何本もその髪に差していく。雛人形のようなあでやかな姿だった。
根岸が現れた。
「女神の支度は出来たかな」
髪を結っていた女が振り向いてにっこり笑う。琴音を支えている女達はさっきまで台所にいた女達だったが、この女は明らかに外の、都会の匂いがした。紅い唇がきゅっと笑う。
「お綺麗です。火の女神にふさわしいお姿ですよ。着物も髪形もよくお似合いだわ」
「古臭い巫女の格好など、我らの女神には不釣り合いだからね。君にデザインを頼んで良かった。さすが売り出し中のデザイナーさんだね」
根岸はお世辞を口にし、こけた頬に薄笑いを浮かべながらうつらうつらしている琴音を眺めた。そして細い顎を右手でつかみ、上を向かせた。
「恐ろしい龍もこうして眠っていたら、ただの子供だな。女神さま、もう少し大人しく眠っていてくださいよ。準備が全て整うまではね。目が覚めたら、あなたは祭壇の上で、炎の女神として君臨することになるのだから」
根岸は琴音から手を離し、踵を返した。部屋を出るとそのまま土間へと向かい、社務所へと入った。
社務所の窓のカーテンを少しずらすと、境内が見える。そこには既に大勢の若者が集まって来ていた。参道の脇に整然と並んでその時を待っている。
そう、長い間、根岸はその時を待っていたのだ。初めてこの村を訪れてから二十年以上の間。
その頃、根岸はまだ大学生で民俗学の研究をしていた。たまたま火龍教に興味を持ち、研究のために訪れた火王村で琴音の母、真山鈴子と出会ったのだ。まだ少女といってもいいような年頃の鈴子だったが、その美しさは目を見張るものがあった。そう言えば、琴音はその頃の鈴子によく似ている。
火龍教の研究にのめりこみながら、次第に鈴子に心惹かれていった。その思いは抑えがたく、大学卒業を機に火王村に移り住んだ。根岸は火龍教と鈴子に自分の青春の全てを注ぎ込むことを誓った。根岸のそんな思いを鈴子は知っていると信じて疑わなかった。
それなのに、鈴子は神社を継ぐために婿養子を取ったのだ。神職の資格を持つ貴臣を夫に選んだ。それは鈴子の意思というよりは、鈴子の父親や神社の氏子達の意思であった。それはわかっていたのだが、実際に鈴子が結婚するという事実を根岸は受け入れられなかったのだ。いつのまにか、根岸は火龍教と鈴子は自分の物であると思い込んでいたのかもしれない。
根岸は絶望した。こんなに尽くしているのに、何故自分を省みようとしない? 絶望は次第にどす黒い感情へと変質していった。と同時に、鈴子を慕う心もまだ枯れずに根岸の心の奥底で種火となって残っていた。
やがて鈴子は笙を生んだ。根岸の目の前で、鈴子は幸せそうに笙を抱き、ほほ笑んでいる。その姿を見るたびに、根岸の心の闇はどんどん膨張していった。
しかし琴音が生まれて事態は一変した。
原因がわからない不審火が続き、幸せそうだった鈴子の顔に深い苦悩が現れるようになった。苦悩の理由を鈴子は根岸に打ち明けた。
「琴音は龍の印を持っているの。火を操り、野を焼き、山を焼き、村を焼き、窟に閉じ込められた龍の印を……」
鈴子の祖母が同じような力を持っていたらしい。真山家には時々龍の印を持った子供が生まれるのだと母から聞いた事がある。龍の窟の封印を護るため脈々と受け継がれてきた真山の血筋に龍の印が現れるという事は龍の呪いの他ならない。誰にも知られてはならないのだと言い聞かされていた。
「誰にも言えない……。琴音が呪われた力を持つ娘だなんて……」
不安に震える鈴子を見ながら、根岸の心は歪んだ喜びに満ち溢れていた。ようやく鈴子が自分を信頼し、頼ってきた。そして重大な秘密を共有している。
そして根岸の心の闇は琴音へとその目を向けたのだ。龍の炎は全てを焼き尽くした。野も、山も、畑も、村も、人も、自分の邪魔をする物全てを。龍の力が欲しい。そうすれば邪魔なものは全て焼き尽くす事が出来るのに……。
恐ろしい願望はやがて打ち払いがたい妄想となった。根岸はその妄想に取り憑かれ、心の闇が一気に根岸を支配していった。
琴音が三歳になった時だった。発端は些細な兄妹喧嘩だったのだろう。普通であれば、兄が妹突き飛ばして、妹が癇癪を起して泣き叫ぶ。それで済んだはずだった。
が、琴音が癇癪を起して泣き叫んだ時、部屋のカーテンに火がついた。炎は一気に薄い布を舐めて、天井へと走る。
火事に気付いた根岸が部屋に駆け付けた時、笙が這いつくばりながら部屋から出てきた。慌てて笙を外に連れ出す。そこへ父親の貴臣が駆けつけた。まだ琴音が中に残っていると笙から聞き、血相を変えて中に飛び込んだ。
根岸も慌てて部屋の中に一歩入った。その時は貴臣の手伝いをしようと思っていたのだ。その時は。
渦を巻く煙の中から泣き叫ぶ琴音を抱えた貴臣が苦しそうにむせながら出てきた時、根岸の中の闇が吠えた。
焼き尽くせ。龍の炎で、焼き尽くせ。
根岸は琴音を貴臣の腕から抱き取った。貴臣は床に膝をついて激しくせき込んでいる。根岸は琴音を床の上に置くと、貴臣の腕をつかみ乱暴に引き起こした。そして、渾身の力を込めて、炎の渦巻く部屋の中へと突き飛ばした。
貴臣の姿が煙に呑まれて消えた。
扉を勢いよく閉め、手で押さえる。
扉を激しく叩く音。
がたがたとゆれる扉。
隙間から吹き上げる黒い煙。
琴音の泣き叫ぶ声。
そして、長い長い断末魔の悲鳴……。
根岸は身体で扉を押さえながら、笑っていた。それは狂気の笑いだった。
琴音の力は龍の力であり、闇そのものだ。自分が長年心の中で飼い慣らし、育ててきた闇。そして誰の心の中にも存在する闇。龍の炎は闇を解き放つ力なのだ。心の闇こそ人々が恐れ忌み嫌いがらも惹かれてやまないモノ。いつか自分は闇を支配する者になってやる……。
境内に集まっている若者の群れを見ながら根岸は満足げに頷いた。ここに集う者達は皆自分の心の闇に囚われ、もて遊ばれている。そう、以前の自分のように。彼らを支配する事は闇を支配する事の他ならぬ。
根岸の顔に浮かぶほほ笑みはいつかの狂気の色を帯びていた。
山深い神社の境内は暗くなるのが早い。日が少し傾きかける頃には山影となり、夕刻の金色の光は届かなくなる。闇が他の場所よりも早く訪れる場所だ。
白い着物の上に黒い衣をまとった女達が本殿に現れた。手には火のともった小さなろうそくを持っている。整然と並んで静かに本殿の短い階段を下り、参道沿いのかがり火に火を入れて行く。
集まった群衆からおおっという低いどよめきが湧きあがった。いよいよ始まるのかという期待の声だ。少し涼しさを帯びた山の空気を押しのけるように、炎の熱気が境内に満ちて行く。
本殿の中には大きな和太鼓があり、黒装束の男が撥を手に叩き始めた。よく見ると、根岸と共に琴音とトーマをさらった男だった。鋭い瞳は興奮と喜びで異様な輝きを帯びている。
太鼓の太い音がびりびりと腹に響く。
太鼓はゆっくりと規則正しいリズムで境内に響いていた。それはまるで龍の鼓動のようだ。ざわついていた境内はやがて静まりかえり、龍の鼓動だけが響き渡る。
松明を持った黒装束の男達が本殿から現れ、大松明を取り囲んだ。
太鼓の刻む鼓動が徐々に速さを増していく。
松明が一斉に大松明の中に差し込まれた。
ごおおっという低い音と共に大松明から炎が上がった。
一気に炎の柱と白い煙が薄紫の夕暮れの空へと駆け上る。
歓声と拍手が境内に満ち溢れた。あちらこちらでフラッシュの白い光が瞬く。観客達の携帯の光だ。記念すべきこの聖なる炎を、なんとか自分の物にしたい。自分達の望みを叶えてくれる、奇跡の炎。人々の欲望が油のように炎に注ぎ込まれていく。
大松明の炎は時々大きく火の粉を巻き上げながら、勢いよく燃えさかる。
「あちぃ……」
タケルは頬がちりちりと痛くなるような熱気を感じた。異様な興奮が炎と共に境内の中を渦を巻きながら流れて行く。その勢いにタケルは船酔いのような気分の悪さを感じ、思わずしゃがみこんで耳を押さえた。
「立っておけ。何があるかわからん」
竜介が厳しい声で言いながら、タケルの腕を引っ張りその身体を支える。
太鼓の音が激しく鳴り響き、炎が吠え、煙がうねる。
本殿に人影が揺れた。
朱塗りの輿を担いだ黒装束の男達。そして、その輿の上には一人の小さな人影があった。
白い着物に緋色の上着、金色の髪飾り。
「!」
タケルは気分の悪いのも忘れ、叫びそうになり、竜介に口を押さえられた。
うつろな表情で輿に座っているのは紛れもなく琴音だった。
「琴音さまが出ました」
根岸の元に報告が入る。
社務所で境内の様子を見ていた根岸は大広間へと戻った。
大広間ではトーマがやはり夢うつつの状態で座布団の上に寝かされていた。
「さあ、君の出番がやってきたよ。起きなさい」
根岸は不気味なまでのにこやかさでトーマを覗きこんだ。
トーマは重たい瞼を必死で開け、根岸を見上げた。身体に力が入らない。必死で寝がえりを打つと、なんとか上半身を上げることが出来た。
「薬もそろそろ切れてきたころだが、こういう薬は結構後にひく。琴音も目は覚めているがぼんやりしていたよ」
「……琴音ちゃんは、どう、したんですか?」
「今から舞台の上でお披露目だ。新しい火龍教の教祖としてね」
「……」
トーマは必死で立ちあがろうとする。なんでこんなに身体が重いんだろう。まるで身体中に鉛でもくっついているみたいだ。
根岸がぐいっとトーマの腕を持ち、乱暴に引き上げた。
「さあ、君にもお仕事がある。こっちに来てもらおうかな」
そしてトーマを引っ張りながら歩き始めた。
<続く>