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ただいま! と大声で家の扉を開けると、妹のアユミがペタペタと足音を立てながら廊下を全速力で走って来た。
「にぃに~~~!」
「おお、アユ~」
タケルは手にしていた上靴袋を放り投げて、駆け寄ってきたアユミをぎゅうっとハグした。
「なんだ、帰ってたのかぁ」
ぷにぷにのほっぺたをつんつんすると、アユミはにぃ~っと笑った。
妹のアユミはまだ二歳で、保育園に通っている。ふわふわの髪の毛を頭のてっぺんでチョロリンッとくくっていて、走る度にそのチョロリンがぷかぷか揺れる。やたら人懐っこい性格で、タケルを見上げる瞳からはいつも“好き好きビーム”が出ているような気がしてしょうがない。まるでハムスターかミニウサギみたいだとタケルは思っている。歳が離れているからか、タケルはこの妹が可愛くて仕方ないのだ。時々、宿題のプリントを派手に破かれたりするが、どうせ適当にしかやらないプリントである。どうってことはない。もっとも、その後、二人して母親に怒られるのだが……。
タケルはアユミをどっこいしょっと抱き上げる。背中にランドセル、前に妹、なんともかさの高いことだ。
廊下の奥の扉からひょいっと父親の哲司が顔を出した。
「あれ、父ちゃん。いたの?」
「ああ。近所の仕事だから昼ご飯は家で食べようと思って。もう少ししたらまた行く」
哲司は腕の良い大工だ。口数は少なく余計な事はほとんどしゃべらないが、荒っぽい口をきくこともない。後輩の話にもよく耳を傾け、相談にも乗ったりしているようだった。そんな哲司を慕って、家にはしょっちゅう大工仲間が出入りしている。絶大な信頼を得ているようだ。
日に焼けてがっちりした身体の、見た目はかなりいかつい男だが、意外なくらいに優しい目をしている。アユミには勿論、タケルに対しても穏やかで滅多に怒る事はない。しかし、何か悪い事をした時はどうにも逆らえない強い瞳で見据えられる。そんな時はまるで心の奥底まで見通されるような気がして、哲司の前では絶対に嘘はつけないとタケルはいつも思う。
タケルは妹を哲司に渡した。
「なんでアユミ帰ってんの?」
「今日は昼から母ちゃんが家にいるからって」
「あ、そうだった」
言われてみれば、高乃城祭に出店する町内会の準備で、近所の人が何人か家に来ると言っていたような気がする。
タケルはでかい声でわめきながら台所に入った。
「あ~、腹減った!」
台所では母親の佳奈がちょうどそうめんをゆがいていた。ショートカットで、スラリとした後ろ姿だけを見ていると二人の子持ちにはとても見えない。学生の頃は陸上をしていて、県大会で好成績を収めたそうだ。タケルの運動神経の良さは自分から受け継いだのだと、時々自慢している。
佳奈はタケルの声を聞いてちらりと振りかえった。
「おかえり」
「あ~、腹減った!」
「通知表は?」
「あ~、腹減った!」
「返してもらったんでしょ」
「あ~、腹減った!」
佳奈が片方の眉をつり上げて「こいつは……」という表情を浮かべる。まあ、予想通りなんだろうけど……という“つぶやき”がタケルの頭の中に届く。
「あ~、腹減った! メシ、メシ、母ちゃん、メシ!」
タケルはわざとらしいくらい大げさに叫んだ。
佳奈はにやりと笑うと、タケルに人差し指を突きつけた。
「食事の前に見たらきっと食欲失くすような内容なんだろう。後でしっかり見せてもらうよ。覚悟しておきな」
タケルはとほほ……と頭を抱えた。
佳奈は一人で工務店と家の事をやりくりしている。男勝りでしっかり者だ。タケルの友人達の間では「細くてきれいなお母さん」などと言われているが、なんのなんの、肝っ玉母ちゃんという言葉は佳奈のためにあるのだと、哲司が時々口にするくらい、肝が据わっていて頼りがいがある。中身は男なんじゃないかと思うくらいだ。竹を割ったような性格で、裏も表もなく、とにかくさばさばしている。体育会系で鍛えられてきたからか、恐ろしく負けず嫌いだ。責任感と正義感の強さは相当で、間違っていると思ったら相手がヤクザでも注意しかねない。口うるさくてかなわない時もあるが、佳奈が一家の太陽であり、彼女がいなければ家も仕事も回らないというのは子供のタケルでもわかる。
「トーマはいつ来るの?」
佳奈はテーブルの上にそうめんを大盛りにした大皿を置きながらタケルを見た。
「六時くらいだって。家の片付けしてから来るって」
「えらいねぇ。トーマは。お前も少しは自分の部屋、片付けな!」
佳奈に頭をはたかれそうになり、タケルは慌ててよける。
「明けても暮れてもサッカーサッカーって。ヘディングのしすぎでバカになったんだよ、きっと。バカにつける薬はないって言うけど、トーマの爪の垢でも煎じて飲んだら、少しはましになるかしら」
「腹壊します。……いてえ!」
べえっと舌を出した途端に佳奈に頭をはたかれた。
<続く>