世界で一番優しい悪役
配役が決まった瞬間、教室がどっと沸いた。
「悪役、佐野ね」
演出係の三浦が、くじ引きの結果を黒板に書きながら言った。白いチョークが「悪役・ゲルド――佐野悠」と書き終わるより早く、後ろの席から笑い声が上がった。
「佐野が悪役って、逆に面白くない?」
「無理でしょ。あいつ、蚊も殺せなさそうじゃん」
「優しさで世界を救う悪役」
みんなが笑う。僕も笑う。困ったときも、嫌なときも、僕はとりあえず笑う。そうすれば場が丸く収まることを、十六年かけて学んできたからだ。笑顔は便利だ。何も言わなくても「気にしてないよ」「大丈夫だよ」「君は悪くないよ」を一度に伝えられる。たとえそのどれもが、本当じゃなくても。
「悠、まじウケる。せいぜい頑張れよ、大悪党」
隣の席の拓海が、僕の肩を遠慮なく叩いた。拓海は僕の親友だ。中学からの付き合いで、明るくて、声が大きくて、教室の真ん中にいるのが似合う男。そして、面倒なことは全部「悠、頼むわ」の一言で僕に回してくる男でもある。
「頑張るよ」と僕は言った。「頑張って嫌われてくる」
また笑いが起きた。僕はその笑いの輪の中心にいて、同時に、誰よりも外側にいた。
うちのクラスの出し物は演劇だった。二年三組、演目は『最後の勇者』。よくある剣と魔法の話だ。勇者の親友だった騎士が、嫉妬と劣等感から勇者を裏切り、仲間を傷つけ、魔王側に寝返って、最後には勇者の手で倒される。脚本は演劇部から借りてきたオリジナルで、書いたのは隣のクラスの真山という女子らしい。話したことは一度もない。
放課後、三浦から台本の束を渡された。藁半紙をホチキスで留めただけの、ざらりとした手触りの冊子。表紙に手書きで『最後の勇者』とあり、その下に小さく「decompose ver.3」と謎の英単語が添えられていた。
「佐野、悪いな。くじとはいえ」
三浦は本当にすまなそうな顔をした。三浦はいいやつだ。だからこそ僕は、いつもの笑顔で首を振った。
「全然。逆に楽しみだよ」
家に帰る電車の中で、僕は台本の重みをずっと膝の上に感じていた。悪役。人に嫌われる役。舞台の上で、何十人もの観客から「こいつが悪い」と思われる役。考えただけで、胃の底が冷たくなった。
僕は人に嫌われるのが怖い。怖いという言葉では足りないかもしれない。小学三年のとき、些細なことでクラスの女子を泣かせてしまって、一週間ほど口をきいてもらえなかったことがある。たった一週間。今思えば子供の喧嘩だ。でもあの一週間の、教室の空気が自分のまわりだけ薄くなったような感覚を、僕の体は今でも覚えている。それ以来、僕は誰にも強く言わない。頼まれたら断らない。怒らない。笑う。
その処世術は、完璧に機能してきた。佐野悠は「いいやつ」だ。誰に聞いてもそう答えるだろう。敵がいない。摩擦がない。なめらかで、無害で、便利な人間。
その夜、僕はベッドの上で台本を開いた。
悪役ゲルドの最初の長台詞は、第二幕にあった。勇者を裏切る直前、月夜の城壁の上でひとり呟く独白だ。
『どうして俺ばかりが我慢しなきゃいけないんだ』
声に出さずに読んだ。読んだだけなのに、喉の奥が熱くなった。
『勇者様は剣を振れば褒められる。俺は盾で受け続けても、誰も見ちゃいない。当たり前だと思われてる。断らないから。怒らないから。笑ってるから』
ページをめくる指が、かすかに震えた。
『いい人でいるのは、もう疲れた』
『誰かに嫌われてもいい。一度くらい、本当のことを言いたかった。それだけなんだ』
僕は台本を閉じて、天井を見た。心臓がうるさかった。
これ、誰が書いたんだろう。
もちろん知っている。隣のクラスの真山だ。話したこともない、顔もぼんやりとしか思い出せない女子。なのに、この台詞は全部、僕が押し入れの一番奥に畳んで隠してきた言葉だった。一字一句、僕のものだった。
誰かに日記を盗み読まれたような気持ちになった。それも、書いた覚えのない日記を。
僕は電気を消して、布団をかぶった。暗闇の中で、台詞の一行が瞼の裏に残って消えなかった。
『一度くらい、本当のことを言いたかった』
うるさい、と僕は思った。お前は台詞だ。紙の上の文字だ。僕じゃない。
僕じゃ、ない。
稽古は十月の頭から始まった。
放課後の教室、机を後ろに寄せて作った即席の舞台で、僕らは毎日二時間ほど稽古をした。勇者役は拓海だった。くじ運というのは皮肉なもので、裏切る騎士と裏切られる勇者を、現実の親友同士が演じることになった。
「ゲルド! お前、どうして……!」
「どうして、だと? 本気で分からないのか、それがお前の罪だ」
拓海は意外と芝居がうまかった。声がいいし、物怖じしない。対する僕は、ひどいものだった。
「佐野、ストップ。もっと声出して」
三浦に何度も止められた。
「悪役なんだから、憎まれてなんぼだって。怒鳴っていいんだよ、そこは」
「ごめん、もう一回」
怒鳴れなかった。本気で怒鳴る声を、僕は持っていない。正確には、持っていないことに、ずっとしてきた。喉の手前まで声は来ている。でもそこに、見えない弁みたいなものがあって、強い感情を載せた音だけを堰き止める。十六年かけて作り上げた、優秀な安全装置。
それでも、不思議なことがあった。
台詞を口にするたび、体のどこかが軽くなるのだ。『どうして俺ばかり』と、たとえ蚊の鳴くような声でも、言葉として外に出すとき、肺の底に溜まっていた古い空気が、すうっと抜けていくような感覚があった。稽古が終わったあと、いつも少しだけ呼吸が楽になっていた。
それが、怖かった。
台詞という皮を一枚かぶせているから、僕はこの言葉を口にできる。でも稽古を重ねるほど、その皮はどんどん薄くなっていく。いつか破れて、中身がそのまま出てしまったら。それはもう演技じゃない。ただの、本音だ。
ある日の稽古帰り、拓海と二人で昇降口まで歩いているとき、ふいに言われたことがある。
「悠ってさ、ゲルドの台詞言ってるとき、ちょっと別人みたいだよな」
「……そう?」
「うん。声は小せえんだけど、なんつーか、目が本気っていうか。普段のお前、あんな目しねえじゃん」
心臓が、嫌な跳ね方をした。僕は咄嗟に笑った。いつもの角度で。
「役作りだよ。一応、悪役なんだから」
「ふうん。まあ、いいことなんじゃね? 三浦も『佐野、最近よくなってきた』って言ってたし」
拓海はそれ以上追及しなかった。下駄箱で靴を履き替えながら、彼はあくびまじりに「俺、勇者よりゲルドのがやりたかったなあ。台詞かっこいいし」と言った。
「……代わろうか」
「無理無理。お前が勇者って、それこそ無理あるだろ」
笑い話のつもりだったんだろう。僕も笑った。でも帰り道、ひとりになってから、その言葉が変な角度で胸に刺さっているのに気づいた。お前が勇者って、無理あるだろ。そのとおりだ、と思った。僕は誰かを救う側の人間じゃない。かといって、堂々と誰かを傷つけられる人間でもない。じゃあ何なんだと言われたら、答えは持っていなかった。
十月の半ば、稽古帰りに一度だけ、脚本の真山と話すことができた。
演劇部の部室に台本の追加コピーを取りに行ったとき、彼女はひとりで折りたたみ椅子に座って、文庫本を読んでいた。眼鏡の、小柄な人だった。僕が用件を言うと、彼女は棚からコピーの束を出してきて、それから、思い出したように言った。
「ゲルド役の人だよね」
「あ、うん。佐野です」
「どう、あの役」
どう、と訊かれて、僕はいつもの笑顔を作りかけた。難しいけど頑張ってます、とか、悪役って新鮮で楽しいです、とか。無難な答えの在庫はいくらでもあった。なのに口から出たのは、別の言葉だった。
「……あの台詞、どうやって書いたんですか」
真山は眼鏡の奥で、少しだけ目を見開いた。
「どうやって、って?」
「いや、その。ゲルドの台詞がなんていうか――」本物すぎる、と言いかけて、やめた。「……すごくリアルだなって」
真山はしばらく僕の顔を見ていた。値踏みするような目ではなかった。どちらかというと、答え合わせをするような目だった。
「ゲルドはね」と彼女は言った。「ずっといい人だった人が、いい人を辞めようとして、失敗する話なの。だから悪役なんだけど、あの劇の中で一番、嘘をついてないのはゲルドだよ」
「……失敗、するんですか」
「最後、倒されるでしょ。でも私は、あれは罰だと思って書いてない」
じゃあ何なんですか、と訊く前に、部室の戸が開いて演劇部員が何人か入ってきた。真山は文庫本に視線を戻し、僕はコピーの束を抱えて部室を出た。
廊下を歩きながら、彼女の言葉を振り返った。一番、嘘をついてないのはゲルド。
じゃあ僕は、と思った。十六年間にこにこ笑ってきた僕は、この劇の登場人物に混ぜたら、どの役になるんだろう。
文化祭前日は、朝から学校中が浮き足立っていた。
授業は午前で打ち切られ、午後は丸ごと準備に充てられた。僕らのクラスは体育館の割り当てが夕方からだったので、それまでに大道具を全部、教室から体育館脇の倉庫まで運ばなければならなかった。城壁のパネル、玉座、張りぼての岩。べニヤと角材でできたそれらは、見た目以上に重かった。
僕は拓海と組んで、一番大きい城壁のパネルを運ぶ係になっていた。一往復しただけで、腕がぱんぱんになった。あと四往復はある。
二往復目を終えて教室に戻ると、拓海がスマホを見ながら立っていた。
「あ、悠、ごめん。俺、バスケ部のOB戦の手伝い頼まれてさ、今から体育館の方……じゃなくて第二体育館な。残り、頼むわ」
いつもの台詞だった。いつもの、軽い、悪気のない声。
いつもなら、僕は「おう、いいよ」と笑う。実際、口はその形に動きかけた。頬の筋肉が、慣れた角度に持ち上がりかけた。
でも、そのとき。
腕の痛みと、昨夜も遅くまで台詞を覚えた寝不足と、何より、ここ一ヶ月毎日口にしてきたゲルドの言葉が、喉の手前のあの弁を、内側からこじ開けた。
「……なんで」
声が出た。自分でも驚くほど、低い声だった。
「ん?」
「なんで、いつも僕なの」
拓海が振り返った。きょとんとした顔。冗談だと思っている顔。その顔を見た瞬間、堰が切れた。
「パネル、二人じゃなきゃ運べないって分かってるよね。僕がひとりで四往復するか、誰かに頭下げて頼むか、どっちかになるって分かってて言ってるよね。分かってないなら鈍感すぎるし、分かってて言ってるなら――」
息を吸った。教室の空気が、急に薄くなった気がした。
「――拓海は僕のこと、便利だと思ってるだろ。頼めば断らないって。実際断らないけど、それは断れないだけで、いいわけじゃないんだよ。僕だって疲れるし、嫌なときは嫌なんだ。なんでそれくらい、言わなくても分かって……」
言葉が、続かなかった。
教室が静かだった。装飾を作っていた女子たちの手が止まっていた。クラスの半分くらいが、こっちを見ていた。誰も何も言わなかった。
拓海の顔から、笑いが消えていた。
「……何だよ、急に」
その声には、怒りよりも、戸惑いの方が多く混じっていた。それが余計に惨めだった。怒鳴り返してくれた方が、まだ喧嘩の形になった。でも拓海は、知らない生き物を見るような目で僕を見て、それから小さく「OB戦、断れないんだよ」とだけ言って、教室を出ていった。
残された空気は、雑巾を絞ったあとの水みたいに濁っていた。
「……佐野、パネル、俺手伝うよ」
三浦が見かねて言ってくれた。僕は「ありがとう」と言った。声が掠れていた。残りの搬入は三浦と二人で終わらせた。三浦は何も訊かなかった。その優しさが、ありがたくて、痛かった。
夜、家に帰っても、台本を開けなかった。
夕食のとき、母に「明日、観に行くからね」と言われた。僕は「うん」とだけ答えた。「悠が悪役なんて、お母さん想像つかないわ」と母は笑った。「あんた、保育園のときの劇でも、木の役だったのに」
木の役。覚えている。台詞のない、舞台の端でじっと立っているだけの役。先生に「悠くんは何の役がやりたい?」と訊かれて、僕は「なんでもいい」と答えたのだ。五歳のときから、僕の返事は決まっていた。なんでもいい。どっちでもいい。みんなに合わせるよ。
「……木の方が、向いてたかも」
僕がそう言うと、母は冗談だと思って笑った。僕は自分の部屋に戻った。
机の上の藁半紙の束が、僕を見ている気がした。お前のせいだ、と思った。お前の台詞を毎日唱えていたから、あんなことになった。十六年間、一度も故障しなかった安全装置が、よりによって本番前日に誤作動した。
スマホを何度も見た。拓海からの連絡はなかった。クラスのグループラインは、明日の連絡事項だけが事務的に流れて、僕の名前はどこにもなかった。それが答えのような気がした。
やっぱり、言わなければよかった。
本音なんて、出した瞬間に毒になる。分かっていたはずだった。僕は十六年それで上手くやってきた。佐野悠は、いいやつ。敵がいない。摩擦がない。なめらかで、無害で――
布団の中で目を閉じると、真山の言葉が浮かんだ。
あの劇の中で一番、嘘をついてないのはゲルドだよ。
うるさい、と僕は思った。嘘をつかなかった結果が、これだ。
本番当日の朝、教室で拓海と目が合った。
合った、というのは正確じゃないかもしれない。視線が一瞬触れて、どちらからともなく逸れた。おはよう、の一言が、こんなに重いものだとは知らなかった。結局どちらも言わないまま、僕らは衣装に着替え、メイクをされ、別々の袖から舞台に立つ時間になった。
体育館は満員だった。後ろには立ち見まで出ていた。袖の隙間から客席を覗いた三浦が「やばい、めっちゃ入ってる」と青い顔で笑った。
開演十分前、暗い舞台袖で、僕は壁に貼られた香盤表をぼんやり眺めていた。鎧の衣装は重く、付け髭の糊が頬で突っ張っていた。鏡で見た自分は、確かに悪役の顔をしていた。眉を太く描かれ、目元に影を入れられた、知らない男。これなら大丈夫だ、と思おうとした。今日舞台に立つのは佐野悠じゃない。この知らない男だ。こいつが裏切って、こいつが憎まれて、こいつが倒される。僕は幕が下りたら、メイクを落として、いつもの僕に戻ればいい。
反対側の袖に、勇者の衣装を着た拓海が見えた。距離にして十メートル。普段なら大声で「緊張してる?」とからかってくる距離。今日は、暗がりの中でお互いの輪郭だけが見えていた。
幕が開いた。
照明は、思ったより熱かった。
第一幕、僕の出番は少ない。勇者の隣で、寡黙な騎士として立っているだけだ。拓海の演じる勇者は、稽古のときよりずっと声が通っていた。客席が時々笑い、時々静まる。劇は、ちゃんと劇として進んでいた。
第二幕、城壁の独白。
『どうして俺ばかりが我慢しなきゃいけないんだ』
言えた。声は小さかったかもしれない。でも、言えた。客席は静かだった。スポットライトの中で、僕は紙の上の言葉を、ひとつずつ口に運んだ。『いい人でいるのは、もう疲れた』。一ヶ月唱え続けた言葉たちは、もう僕の口の形を覚えていた。
裏切りの場面も、仲間を傷つける場面も、段取りどおりにこなした。剣がぶつかる音、倒れる味方、客席のざわめき。袖で三浦が拳を握っているのが見えた。いける。このまま、最後まで。
そして、最終幕。最後の対決。
崩れた玉座の前で、勇者と裏切りの騎士が向かい合う。拓海が剣を構える。客席が静まり返る。ここで僕が、悪役としての最後の台詞を言う。
『俺は間違っていない。間違っているのは、お前たちの方だ』
そのはずだった。
僕は口を開いた。
何も、出てこなかった。
台詞が、消えていた。一ヶ月かけて口に覚えさせたはずの言葉が、頭の中から綺麗に蒸発していた。残っているのは白だけだった。照明と同じ色の、焼けつくような白。客席のざわめきが、遠くで波の音みたいに聞こえた。
拓海が、剣を構えたまま固まっているのが分かった。袖から三浦が小声で台詞を飛ばしてくる。「俺は、間違って、いない」。聞こえている。聞こえているのに、口が動かない。
なぜなら、その台詞が、嘘だったからだ。
舞台の上で、スポットライトの真ん中で、僕は突然、はっきりと分かってしまった。ゲルドは、自分が間違っていないなんて、思っていない。昨日の僕がそうだったように。本音をぶつけた夜、布団の中で「言わなければよかった」と何百回も思った僕が、そうだったように。間違っているのはお前たちだと言い切れるなら、そもそもこんなに苦しくない。
長い、長い数秒だった。体育館の何百人かが、僕の沈黙を見ていた。
その沈黙の底から、出てきたのは、台本のどこにもない言葉だった。
「……僕は」
ピンマイクが拾った自分の声が、体育館に響いた。一人称が、違っていた。ゲルドは「俺」だ。「僕」は、佐野悠だ。もう、戻れなかった。
「僕は、悪役になりたかったんじゃない」
客席が、しんとした。
「強くなりたかったわけでも、誰かを傷つけたかったわけでもない。ただ、一度くらい、誰かに止めてほしかったんだ。我慢しなくていいよって。無理してるだろって。怒っていいんだよって。誰かに、言ってほしかった。それだけだったんだ。それだけのことが言えなくて、僕は、こんなところまで来てしまった」
言い終わってから、気づいた。
これは台詞じゃない。
体育館は静まり返っていた。咳ひとつ聞こえなかった。拓海が、構えた剣を、ゆっくり下ろしかけて、袖からの必死の身振りに気づいて、慌てて構え直した。
「……それでも、罪は、罪だ!」
拓海がアドリブで叫んで、段取りどおり剣を振った。僕は倒れた。床は冷たかった。勇者の勝利を讃えるファンファーレが流れて、幕が、閉じた。
拍手は、まばらだった。
袖に戻ると、三浦が頭を抱えてしゃがみ込んでいた。
「佐野ぉ……最後、何だったんだよ、あれ……」
「ごめん」と僕は言った。本当に申し訳なかった。一ヶ月、クラス全員で作ってきた劇だ。それを僕は、最後の最後で、自分の言葉で上書きしてしまった。劇としては、たぶん失敗だった。打ち上げの空気を想像して、胃が重くなった。
でも。
倒れる直前、僕は見てしまったのだ。
涙ぐんでいる拓海を。
あの拓海が。
片付けの合間、衣装のまま水を飲みに廊下へ出たとき、声をかけられた。
「ゲルド役の人」
真山だった。隣のクラスの出し物のエプロン姿のまま、廊下の壁際に立っていた。観てくれていたらしい。僕は反射的に頭を下げた。
「すみませんでした。最後、台詞……勝手に変えてしまって。せっかく書いてもらった脚本なのに」
真山はしばらく黙って僕を見ていた。怒られる、と思った。当然だ。脚本家にとって、台詞は作品そのものだ。それを役者が、それも素人が、本番で踏み潰したのだから。
でも彼女は、眼鏡を少し押し上げて、こう言った。
「この前、訊きかけたでしょ。最後にゲルドが倒されるのは罰じゃないなら何なのか、って」
「……はい」
「私の中では、あれは介抱なの」
「かいほう?」
「重い鎧着て、限界まで戦って、立ったまま倒れられない人をね、誰かが力ずくで横にしてあげるの。もう戦わなくていいよって。だから勇者の剣は、あの劇では止めの一撃じゃなくて、止めてあげる一撃。伝わらなくていいと思って書いてたんだけど」
真山は、廊下の窓の外に目をやった。
「あなたのアドリブ、私の書いた台詞より、ゲルドだった。脚本家として完敗。すごく悔しい。だから謝らないで」
言うだけ言って、彼女はエプロンの裾を翻して自分のクラスの方へ歩き出した。数歩行ってから、振り返らずに付け足した。
「decompose ver.3って表紙に書いたでしょ。『分解』って意味。三回書き直して、やっと壊せたの、ゲルドのこと。――あなたは一回でやったね」
彼女の背中が人混みに消えるまで、僕は廊下に突っ立っていた。止めてあげる一撃。倒されることは、終わりじゃない。鎧ごと支えきれなくなった人間を、横たえてやること。
紙コップの水を飲み干したとき、ポケットのスマホが震えた。拓海からだった。
『体育館の裏。ちょっと来て』
終演後の片付けの途中、僕は体育館の裏に呼び出された。
十一月の夕方の空気は、汗の引いた体に冷たかった。拓海は倉庫の壁にもたれて、衣装の勇者のマントを脱ぎもせず、しばらく黙っていた。僕も黙っていた。校舎の方から、後夜祭の準備の音楽が切れ切れに聞こえてきた。
先に口を開いたのは、拓海だった。
「悪役、全っ然似合ってなかったよ、お前」
「……知ってる」
「台詞は飛ばすし、最後は脚本無視するし。ひでえ悪役だった」
「ごめん」
「だから、よかった」
顔を上げると、拓海は明後日の方を向いていた。マントの裾を、意味もなく指で弄っていた。
「昨日のさ」と拓海は言った。「……ごめん。俺、お前が断らないの、平気だからだと思ってた。ほんとに、そう思ってた。嫌なら言うだろって。言わないってことは、いいんだろって。……でも、舞台の上のあれ聞いて、分かった。あれ、台詞じゃなかったろ」
僕は答えなかった。答えは、もう届いていた。
「中学からずっと、俺、お前に止めてもらってばっかりだったのにな。調子乗ってるとき、やりすぎてるとき、お前だけは止めてくれた。なのに俺は、一回も、お前を止めたことがなかった」
風が、二人の間を抜けていった。
「……僕も、ごめん」と僕は言った。「あんな言い方しかできなくて。前日の、忙しいときに。もっと前から、ちゃんと言えばよかった」
「いや、まあ」拓海は鼻の下をこすった。「言われなきゃ分かんなかったから。俺、鈍感すぎる方だから」
「うん。鈍感すぎる方だと思う」
「そこは否定しろよ」
拓海が小さく噴き出して、僕も笑った。それは、場を丸く収めるための、いつもの笑いじゃなかった。腹の底から、勝手に出てきた笑いだった。十六年もののあの安全装置は、どうやら昨日、本当に壊れたらしい。直すつもりは、たぶん、もうない。
倉庫の角を曲がって、三浦が顔を出した。
「いた! お前ら、打ち上げの買い出し――」言いかけて、僕らの顔を見て、何かを察したらしい。「……仲直りした?」
「喧嘩なんかしてねえよ」と拓海が言った。
「してたよ」と僕は言った。「で、仲直りした」
三浦は呆れたように笑って、「じゃあ二人で買い出しな。荷物持ち、よろしく」と言い残して戻っていった。いつもなら、僕がひとりで引き受けていた類の仕事を、当たり前のように二人に振って。
歩き出しながら、拓海が言った。
「なあ。劇、失敗だったかな」
「どうだろう」と僕は言った。「コンクールなら、0点かもね」
「だよなあ」
「でも」
夕方の校舎の窓に、文化祭の灯りがひとつずつ点いていくのが見えた。あの灯りのどこかに、隣のクラスの脚本家もいるんだろうか。最後、あれは罰だと思って書いてない、彼女の言葉の続きが、今なら少しだけ分かる気がした。倒されることは、終わりじゃない。いい人の皮も、悪役の鎧も脱がされて、ただの自分に戻されること。彼女はたぶん、それを書いたのだ。
いい人にもなれなくて、悪役にもなりきれなくて、その中途半端な真ん中に、たぶん本当の僕がいる。それでいいのかは、まだ分からない。怖さが消えたわけでもない。明日になればまた、笑わなくていい場面で笑ってしまうかもしれない。
でも、今日だけは。
今日だけは、世界で一番下手くそだった悪役を、ほんの少しだけ、許してやろうと思った。
「悠? 『でも』、何だよ」
「――でも、僕は結構、いい劇だったと思う」
拓海は一瞬黙って、それから「俺も」と言った。
その一言だけで、十分だった。




