平成元年、DV父親、娘の最強同級生にボコられたら「お仕えモード」が止まらない
「……なんだ、これは」
父・鉄男の声の温度が、一気に氷点下まで落ちた。
「幼稚園児みたいな字を書きやがって! ふざけてるのか、お前は!」
「……えっ?」
「こんな、やる気のない字を見せつけて、親を馬鹿にしてるのか!」
鉄男は、小五の琴子が懸命に埋めたページを、躊躇なく引き裂いた。
ビリッ、という乾いた音が、琴子の心を切り裂くように響く。
「お父さん、やめて!せっかく教えてもらったのに……っ!」
「俺のセリフだ!せっかくいい気分で酒飲んでたところを……台無しだ!」
鉄男の重い掌が、琴子の頬を弾いた。
畳に倒れ込む琴子。
散らばったノートの破片に、彼女の涙が落ちる。
母親は、見て見ぬふりをして、換気扇の音に紛れるように溜息を吐くだけだった。
「ひっ、ううぅ……っ」
「泣けば済むと思ってるのか! おい、立て! もう一回叩き込んでやる!」
その時だった。
ピンポーン! ピンポーン! ピンポーン!
玄関のチャイムが、狂ったような勢いで連打された。
夜の公園。
鉄男は、ベンチの上でパチリと目を開いた。
「……」
五月の夜空、星々が瞬いている。
「……なんだ……頭が割れそうに痛い」
だが、二日酔いの頭痛ではない。
もっと脳の奥深くから響く強烈な違和感。
「俺は……」
一気に記憶の濁流が押し寄せる。
アルコール。
怒りに任せた説教。
暴力。
泣き顔。
そして――玄関チャイムを破壊する勢いで殴り込んできた、化け物みたいな少年。
「うわああああああああーーーッ!!」
跳ね起きようとするも、手足にわずかな力しか入らない。
「俺は……何てことを……」
頭の中に、昨日まで影も形もなかった強迫観念が流れ込んできた。
『生涯をかけて、償え』
「うわわぁぁ!申し訳ございませんーーーッ!」
ベンチからごろんと転げ落ちた。
鉄男は誰もいない公園で、地面に頭をこすりつけた。
「……」
朝食の席。
娘の琴子は、箸を持ったまま完全にフリーズしていた。
食卓の上には、いつもの目刺しと焦げた目玉焼きではない。
黄金色に輝く卵焼き。
湯気を立てる高級合わせ味噌の味噌汁。
彩り豊かなサラダ。
そしてなぜか、デザートとしてうさぎの形に丁寧に剥かれたリンゴが鎮座している。
「お、お父さん……?これ、お父さんが?」
「おはようございます。琴子さん」
鉄男は、ナショナル製のカラーテレビの前で、完璧な姿勢で正座をしていた。
妻の由美も固まっていた。
「あ、あなた?どうしたんですか?頭でも打ったの?」
「いいえ。今までの我が身の『恥の多い生涯』を猛省している次第です」
「熱、あるんじゃない?体温計持ってくるから……」
「平熱です」
鉄男は真面目な顔で言い放った。
「本来であれば、私は速やかに割腹すべき家庭内粗大ゴミですが、それではお二人に多大なるご迷惑をおかけします。生涯かけて、家庭に尽くす所存です」
「お、大げさねぇ……。新興宗教にでも引っかかったの?」
あまりの豹変ぶりに、母娘は顔を見合わせるしかなかった。
その日の夜。
仕事から帰ってきた鉄男は直立不動の姿勢でアプローチした。
「琴子さん」
「ひっ、な、なに……」
身構える琴子。
また怒鳴られるのかと肩をすくめる。
だが、鉄男が両手で恭しく差し出したのは、ピカピカのキャラクタープールバッグだった。
「これをお受け取りください」
「え?これ……マロンクリームのバッグ……?」
「来月から学校でプールの授業が始まると耳に挟みました」
「……でも、プールはダメって……言ってたよね?」
その瞬間、殴る音。
鉄男の拳が、鉄男自らの頬を打ちつけていた。
「ぐう……ッ!私のせいです!」
畳に転がる鉄男。
「お、お父さん!ど、どうしたの!自分を殴るなんて!」
「申し訳なかった!私の暴力がバレるのを恐れ!プールを許可してきませんでした!」
部屋の隅で畳に頭をすりつける鉄男。
「自分は万死に値します。せめてこれで、少しでも青春をエンジョイしていただければと」
琴子は、渡された新品のバッグを見つめる。
ビニール特有の匂いがした。
デパートのサンリオショップでしか買えない、ちょっとお高めのやつだ。
「……腕の痣が治ったら、プールの日、行ってみる」
三日後、会社の休憩室。
灰皿にマイルドセブンの煙を落としながら、同僚が鉄男に話しかけた。
「いやあ鉄男、最近お前、付き合い悪いじゃん。タバコもやめてどうした?娘さん元気?」
「はい」
鉄男は缶コーヒーをグイと飲み干し、真顔で頷いた。
「つい最近まで、私は家庭で娘を殴り、妻に威張り散らす最低の『昭和の残党』でした」
ブッ!!
同僚がコーヒーを吹き出した。
休憩室の空気が凍りつく。
「え!?お、お前何言って……」
「仕事のストレスを言い訳に家庭で暴君として振る舞い、テレビのチャンネル権は一ミリも譲らなかった。外面だけが取り柄の、中身空っぽの男。それが私です」
「おいおいおいおい!鉄男!」
同僚が慌てて周囲を見回す。
24時間戦う男たちがギョッとしてこっちを見ている。
「そういう洒落にならないブラックジョークは社内で言うなよ!出世に響くだろうが!」
「ジョークではありません。私は生まれ変わったのです」
同僚たちは顔を見合わせた。
さらに一週間後。
鉄男は、行きつけの証券会社の営業マンと喫茶店で向き合っていた。
世間は空前の株ブーム。
「亀井さん、今が買い時ですよ!この銘柄、秋には間違いなく倍になります!」
イケイケの営業マンが熱弁を振るう。
しかし、鉄男はすっと紅茶のカップを置き、静かに首を振った。
「不要です。それと、保有株は全部処分してください」
「は!?何言ってるんですか!亀井さん、今売る人なんていませんよ!」
「株は暴落します」
「こ、根拠は……!?」
根拠はない。
だが、分かる。
あの化け物小学生は、その全てを見抜いていた。
『鉄男は死んだと思え。今日からお前はアイアンマンだ』
私を生まれ変わらせた、あの少年。
彼より信用できる大人を、私はまだ知らない。
鉄男は、ただ一言、告げた。
「なんとなくです」
「は?」
「ですが、絶対に売ってください」
証券マンは、鉄男がノイローゼにでもなったかのような顔で絶句した。
五年三組の教室。
「お父さん、最近、変なんだよね」
琴子がぽつりとこぼす。
「……困ってるのか?」
隣で、慎太がボソッとつぶやく。
「ううん、前よりいいけどさ。……なんか、慣れない」
「前よりいいなら、問題ないだろ」
「いやさ、ビール飲まなくなって、カゴメトマトジュース飲んでるし。別人みたい」
琴子が小さくため息をつきながらぼやく。
「……アイアンマンなりの努力だろ」
「へ?なに、アイアンマンって?」
「……いや、こっちの話だ」
七月のある日の夜。
琴子がドアを開けて居間に入ると、父親がテレビの主電源をパチリと消すところだった。
テレビの画面が、スーッと真ん中に向かって白い点になりながら消えていく。
「あ……テレビ、見ないの? 巨人戦やってるよ?」
「今日は槙原が完封ペースなので、もう大丈夫です。あとは、琴子さんが好きに使ってください。私は瞑想をしてから先に眠ります」
「……」
気まずい、しかしどこか不思議な沈黙が流れる。
以前なら、父親がプロ野球中継を独占してビールをこぼし、時折、ちゃぶ台をひっくり返していた空間だ。
それが今や、クラシック音楽のカセットテープが微かに流れる、妙に居心地の良い空間に変わっている。
「今日」
鉄男が、正座のままぽつりと言った。
「プールは楽しかったですか」
琴子は少しだけ驚いて、胸元に抱えたマロンクリームのバッグをぎゅっと握りしめた。
少しだけ考える。
そして。
「うん。みんな可愛いって言ってくれた。……楽しかったよ」
鉄男は、小さく頷いた。
「そうですか。それは……何よりです」
琴子は、かつてあれほど怖かった父親の背中を見つめながら、なぜか少しだけ、クスッと笑ってしまったのだった。
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鉄男を「アイアンマン」にした少年と、琴子の物語はこちら。
『最強騎士、昭和に帰還。理不尽をやり返す話』




