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平成元年、DV父親、娘の最強同級生にボコられたら「お仕えモード」が止まらない

作者: 水戸直樹
掲載日:2026/06/11

「……なんだ、これは」


 父・鉄男の声の温度が、一気に氷点下まで落ちた。


「幼稚園児みたいな字を書きやがって! ふざけてるのか、お前は!」


「……えっ?」


「こんな、やる気のない字を見せつけて、親を馬鹿にしてるのか!」


 鉄男は、小五の琴子が懸命に埋めたページを、躊躇なく引き裂いた。


 ビリッ、という乾いた音が、琴子の心を切り裂くように響く。


「お父さん、やめて!せっかく教えてもらったのに……っ!」


「俺のセリフだ!せっかくいい気分で酒飲んでたところを……台無しだ!」


 鉄男の重い掌が、琴子の頬を弾いた。


 畳に倒れ込む琴子。


 散らばったノートの破片に、彼女の涙が落ちる。


 母親は、見て見ぬふりをして、換気扇の音に紛れるように溜息を吐くだけだった。


「ひっ、ううぅ……っ」


「泣けば済むと思ってるのか! おい、立て! もう一回叩き込んでやる!」


 その時だった。


 ピンポーン! ピンポーン! ピンポーン!


 玄関のチャイムが、狂ったような勢いで連打された。




 


 夜の公園。


 鉄男は、ベンチの上でパチリと目を開いた。


「……」


 五月の夜空、星々が瞬いている。


「……なんだ……頭が割れそうに痛い」


 だが、二日酔いの頭痛ではない。


 もっと脳の奥深くから響く強烈な違和感。


「俺は……」


 一気に記憶の濁流が押し寄せる。


 アルコール。


 怒りに任せた説教。


 暴力。


 泣き顔。


 そして――玄関チャイムを破壊する勢いで殴り込んできた、化け物みたいな少年。


「うわああああああああーーーッ!!」


 跳ね起きようとするも、手足にわずかな力しか入らない。


「俺は……何てことを……」


 頭の中に、昨日まで影も形もなかった強迫観念が流れ込んできた。


『生涯をかけて、償え』


「うわわぁぁ!申し訳ございませんーーーッ!」


 ベンチからごろんと転げ落ちた。


 鉄男は誰もいない公園で、地面に頭をこすりつけた。




「……」


 朝食の席。


 娘の琴子は、箸を持ったまま完全にフリーズしていた。


 食卓の上には、いつもの目刺しと焦げた目玉焼きではない。


 黄金色に輝く卵焼き。


 湯気を立てる高級合わせ味噌の味噌汁。


 彩り豊かなサラダ。


 そしてなぜか、デザートとしてうさぎの形に丁寧に剥かれたリンゴが鎮座している。


「お、お父さん……?これ、お父さんが?」


「おはようございます。琴子さん」


 鉄男は、ナショナル製のカラーテレビの前で、完璧な姿勢で正座をしていた。


 妻の由美も固まっていた。


「あ、あなた?どうしたんですか?頭でも打ったの?」


「いいえ。今までの我が身の『恥の多い生涯』を猛省している次第です」


「熱、あるんじゃない?体温計持ってくるから……」


「平熱です」


 鉄男は真面目な顔で言い放った。


「本来であれば、私は速やかに割腹すべき家庭内粗大ゴミですが、それではお二人に多大なるご迷惑をおかけします。生涯かけて、家庭に尽くす所存です」


「お、大げさねぇ……。新興宗教にでも引っかかったの?」


 あまりの豹変ぶりに、母娘は顔を見合わせるしかなかった。




 その日の夜。


 仕事から帰ってきた鉄男は直立不動の姿勢でアプローチした。


「琴子さん」


「ひっ、な、なに……」


 身構える琴子。


 また怒鳴られるのかと肩をすくめる。


 だが、鉄男が両手で恭しく差し出したのは、ピカピカのキャラクタープールバッグだった。


「これをお受け取りください」


「え?これ……マロンクリームのバッグ……?」


「来月から学校でプールの授業が始まると耳に挟みました」


「……でも、プールはダメって……言ってたよね?」


 その瞬間、殴る音。


 鉄男の拳が、鉄男自らの頬を打ちつけていた。


「ぐう……ッ!私のせいです!」


 畳に転がる鉄男。


「お、お父さん!ど、どうしたの!自分を殴るなんて!」


「申し訳なかった!私の暴力がバレるのを恐れ!プールを許可してきませんでした!」


 部屋の隅で畳に頭をすりつける鉄男。


「自分は万死に値します。せめてこれで、少しでも青春をエンジョイしていただければと」


 琴子は、渡された新品のバッグを見つめる。

 

 ビニール特有の匂いがした。


 デパートのサンリオショップでしか買えない、ちょっとお高めのやつだ。


「……腕の痣が治ったら、プールの日、行ってみる」





 三日後、会社の休憩室。


 灰皿にマイルドセブンの煙を落としながら、同僚が鉄男に話しかけた。


「いやあ鉄男、最近お前、付き合い悪いじゃん。タバコもやめてどうした?娘さん元気?」


「はい」


 鉄男は缶コーヒーをグイと飲み干し、真顔で頷いた。


「つい最近まで、私は家庭で娘を殴り、妻に威張り散らす最低の『昭和の残党』でした」


 ブッ!!


 同僚がコーヒーを吹き出した。


 休憩室の空気が凍りつく。


「え!?お、お前何言って……」


「仕事のストレスを言い訳に家庭で暴君として振る舞い、テレビのチャンネル権は一ミリも譲らなかった。外面だけが取り柄の、中身空っぽの男。それが私です」


「おいおいおいおい!鉄男!」


 同僚が慌てて周囲を見回す。


 24時間戦う男たちがギョッとしてこっちを見ている。


「そういう洒落にならないブラックジョークは社内で言うなよ!出世に響くだろうが!」


「ジョークではありません。私は生まれ変わったのです」


 同僚たちは顔を見合わせた。





 さらに一週間後。


 鉄男は、行きつけの証券会社の営業マンと喫茶店で向き合っていた。


 世間は空前の株ブーム。


「亀井さん、今が買い時ですよ!この銘柄、秋には間違いなく倍になります!」


 イケイケの営業マンが熱弁を振るう。


 しかし、鉄男はすっと紅茶のカップを置き、静かに首を振った。


「不要です。それと、保有株は全部処分してください」


「は!?何言ってるんですか!亀井さん、今売る人なんていませんよ!」


「株は暴落します」


「こ、根拠は……!?」


 根拠はない。


 だが、分かる。


 あの化け物小学生は、その全てを見抜いていた。


『鉄男は死んだと思え。今日からお前はアイアンマンだ』


 私を生まれ変わらせた、あの少年。


 彼より信用できる大人を、私はまだ知らない。


 鉄男は、ただ一言、告げた。


「なんとなくです」


「は?」


「ですが、絶対に売ってください」


 証券マンは、鉄男がノイローゼにでもなったかのような顔で絶句した。




 五年三組の教室。


「お父さん、最近、変なんだよね」


 琴子がぽつりとこぼす。


「……困ってるのか?」


 隣で、慎太がボソッとつぶやく。


「ううん、前よりいいけどさ。……なんか、慣れない」


「前よりいいなら、問題ないだろ」


「いやさ、ビール飲まなくなって、カゴメトマトジュース飲んでるし。別人みたい」


 琴子が小さくため息をつきながらぼやく。


「……アイアンマンなりの努力だろ」


「へ?なに、アイアンマンって?」


「……いや、こっちの話だ」




 七月のある日の夜。


 琴子がドアを開けて居間に入ると、父親がテレビの主電源をパチリと消すところだった。


 テレビの画面が、スーッと真ん中に向かって白い点になりながら消えていく。


「あ……テレビ、見ないの? 巨人戦やってるよ?」


「今日は槙原が完封ペースなので、もう大丈夫です。あとは、琴子さんが好きに使ってください。私は瞑想をしてから先に眠ります」


「……」


 気まずい、しかしどこか不思議な沈黙が流れる。


 以前なら、父親がプロ野球中継を独占してビールをこぼし、時折、ちゃぶ台をひっくり返していた空間だ。


 それが今や、クラシック音楽のカセットテープが微かに流れる、妙に居心地の良い空間に変わっている。


「今日」


 鉄男が、正座のままぽつりと言った。


「プールは楽しかったですか」


 琴子は少しだけ驚いて、胸元に抱えたマロンクリームのバッグをぎゅっと握りしめた。


 少しだけ考える。


 そして。


「うん。みんな可愛いって言ってくれた。……楽しかったよ」


 鉄男は、小さく頷いた。


「そうですか。それは……何よりです」


 琴子は、かつてあれほど怖かった父親の背中を見つめながら、なぜか少しだけ、クスッと笑ってしまったのだった。




――――


鉄男を「アイアンマン」にした少年と、琴子の物語はこちら。


『最強騎士、昭和に帰還。理不尽をやり返す話』

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