となりの魔女
就職を機に上京した。
家賃は七万六千円だった。
地元だと古い一軒家を借りられる金額だった。
これが東京なんだなあ、と思った。
最初の夜は変な感じがした。
両親はいない。
弟の気配もない。
居住空間にぼくしかいない。
寂しいわけじゃない。
不安があるわけでもない。
ただ、落ち着かなかった。
何だか胸の奥で風船が膨らんでいるような感じがした。
それで、なかなか眠れなかった。
布団のうえで何度も寝返りを打っていると、何か聞こえてきた。
呪文のような、念仏のような、呟き声だ。
ぼくは耳をすました。
声はとなりの部屋から聞こえてくる。
女性の声だった。
何を言っているのか聞き取れない。
日本語なのかどうかもわからない。
最初はちょっと怖かった。
けれど、不思議とだんだん耳に馴染んできた。
聞くともなしに聞いていると、眠たくなってきた。
気がつくと、朝になっていた。
へんてこりんな呪文のお陰で、ぼくはひとりぐらし初日の夜を無事に乗り切ることができた。
翌日、必要なものを買いそろえるため、朝から出かけた。
向かった先は渋谷だ。
わざわざ渋谷まで行く必要はなかったのだけれど、単純に渋谷という場所に行ってみたかったのだ。
平日にもかかわらず、スクランブル交差点にはたくさんの人が行き交っていた。
上京した人がよく、東京は毎日お祭りをしているようだとか言ったりするけど、ぼくは運動会をしているみたいだと思った。
みんな何かの競争をしているように見えたのだ。
渋谷の無印良品で、ベッドとテーブルと座椅子とゴミ箱と衣装ケースとラックと食器類と調理器具と、スリッパとランチョンマットを買った。
合計で八万三千五十七円だった。
ぼくの人生で一番高い買い物だった。
無印でなく、もっと安いホームセンターで買い揃えてもよかったのだけれど、ぼくは無印の品々に囲まれる生活に憧れがあったのだ。
無印の次にヨドバシカメラに向かった。
ヨドバシでは、洗濯機と掃除機と冷蔵庫とテレビを買った。
十五万六千七百円かかった。
人生史上もっとも高額の買い物記録はあっさりと更新されてしまった。
そのあと渋谷の街を歩いてみた。
人が多くて、ビルが高くて、道が広くて、店はいくらでもあった。
地元の繁華街とは比べものにならなかった。
ぼくは一回り大きな世界に足を踏み入れたような気になった。
これが東京なんだなあ、とまた思った。
朝十時に家を出て、自宅に帰ってきたのは夕方六時だった。
まだ一泊しかしていないのに、アパート付近まで来ると、家に帰ってきたという気になるから不思議だった。
もしかしたら、この街はぼくに合っているのかもしれない。
アパートは二階建てで、全部で八部屋ある。
アパートといっても、正確にはハイツと言うらしく、古い映画に出てくるようなボロい建物ではない。
見た目もおしゃれだし、外壁もまだ新しい。
地元の友達に威張れるくらい十分な都会感があった。
二階の奥がぼくの部屋だ。
角部屋に入れたのはラッキーだった。お父さんの友人が東京で不動産屋さんをやっていて、その人が良い物件を紹介してくれたのだ。
初めての一人暮らしにしては、贅沢過ぎるくらいの部屋だった。
アパートに着くと、郵便受けを覗いてみた。
引っ越してきたばかりでまだ何も入っていないと思っていたのに、水道修理屋のマグネットシール、マッサージ屋とスポーツジムのチラシ、それから区の暮らし案内が入っていた。
ぼくのことを知ってくれている人がすでにこの街にいるような気がして、ちょっと嬉しくなった。
チラシを手に隣の部屋の前をとおり過ぎたとき、かわったにおいがした。
お香のような、薬品のようなにおいだ。
どこかで同じようなにおいをかいだことがあった。
どこだったろうと考えると、すぐに思い出した。
おばあちゃんの家のタンスがこんなにおいをしていた。
そう言えば、昨夜、隣から変な声が聞こえてきた。あれは何だったのだろう。
そんなことを思いながら、ぼくは自室のドアを開けた。
家具類や家電は配送してもらうことにしたので、手荷物は少なかった。
食器類や調味料、洗剤を棚にしまうと、スリッパとランチョンマットだけが残った。
何となく勢いで買ってしまったのだが、果たしてこれらの品はぼくの生活に必要だったのだろうかと早くも疑問に思い始めた。
とりあえずスリッパを履いて、床にランチョンマットを敷いてみた。
何だか虚しくなった。
夕飯は近所のお弁当屋さんで買ってきた。
基本的に自炊する予定なのだけれど、冷蔵庫が届くまでは、お弁当で済ますつもりだった。
自炊するより高くついてしまうが、仕方が無い。
ぼくは唐揚げ弁当をランチョンマットの上に置いてみた。
何の意味もないことがわかった。
夕飯を食べ終わるとやることもなくなってしまった。
床にごろりと横たわったら、背中が痛くなった。
実家は畳敷きだったから、フローリングの部屋は外国っぽくて格好良いと思っていたのだけれど、案外、硬くて冷たいものなのだと知った。
そうだ、とぼくは起き上がった。
引っ越ししたらお隣さんに挨拶に行くようにとお母さんに言われていた。どうせ自分で買ったりしないだろうからと、蕎麦まで持たされていた。
あんまり日を空けて、引っ越しの挨拶に行くのも失礼だと思い、今夜のうちに済ませてしまうことにした。
スマホで時間を確認すると、七時半を回っていた。
ちょっと遅いかもしれないけど、何となく東京なら許されるような気がして、ぼくは立ち上がった。
お母さんが用意してくれた蕎麦を手に部屋を出た。
結構高級な蕎麦だったので、お隣さんにあげてしまうのはもったいない気もした。
しかし、これから長い付き合いになるのだ。
このくらいの手土産を出し惜しんではいけない。
ぼくはお隣さんのドアの前に立ち、こんこんと丁寧に礼儀正しくノックした。
返事はない。
もう一度、ゆっくりとノックした。
やっぱり返事はない。
もしかすると、まだ帰宅していないのかもしれない。
これが最後ともう一度だけノックした。
するとようやく向こう側からドアノブが回り、ドアが開いた。
しかし、十センチほど開いたところで止まった。
隙間から人が顔を覗かせた。
白い肌に、赤い髪、黒いフードをかぶっている。鼻は高く、目は大きい。外国の女の人だ。
その女性は青色の瞳でぼくを睨みつけると、どっか行け、と言わんばかりバタンとドアを閉じた。
ぼくは部屋の前に取り残されてしまった。
これが東京なんだなあ、と思い、ぼくは自分の部屋に戻った。
部屋に帰ると、買ってきたスリッパを履いてみた。毎回部屋に入る度に、これを履かなければならないと思うとやっぱり面倒になり、スリッパを下駄箱にしまった。
ぼくにはまだスリッパ生活は早かったようだ。
部屋に上がり、無駄になった蕎麦をランチョンマットの上に置いた。
ふう、とひと息ついた。
いや、いや、いや、いや、いや、いや、いや、いや、いや、いや、いや、いや、いや。
ねえよ。
東京、関係ねえよ。
全然、関係ねえよ。
外人だよ。
肌、真っ白だよ。
でも、目の下にクマがあって不健康そうだよ。
髪は真っ赤だよ。
黒いフードかぶってるよ。
やばいよ。
やばいよ。
信じられねえよ。
こんなことあんのかよ。
いや、ねえよ。
やっぱ、あるよ。
今、見ちまったよ。
どうすんだよ。
わかんねえよ。
お母さんに電話しようか。
できねえよ。
何て言うんだよ。
信じるわけねえよ。
どうすんだよ。
となりに魔女が住んでるよ。




