悲鳴をあげたのは私でした
毎日同じことの繰り返しだった。起きて、顔を洗って、歯を磨く。朝食も食べずに着替えて、化粧は必要最低限。鏡の中の私はひどい顔をしていた。せっかく綺麗にアイラインを引いたのに、右目からは、つう、と涙が流れてしまって、もう一度引き直す羽目になった。
(換気扇よし、コンロよし、水道よし、電気よし)
いつものルーティーンをして、もう一度して、最後にもう一度。まだ安心ではないけれど、諦めて仕事に向かう。途中で鍵を閉めただろうかと、アパートの階段で足を止めて、部屋に引き返した。ドアレバーに手をかけて引っ張る。がちゃん、と金属の音が響く。もう一度。もう一度。指差し確認をして、ようやく職場に向かった。
遅刻ギリギリの時間だった。唯一の救いは、家から職場が近いこと。全力で走って、なんとか始業時間には間に合った。乱れた呼吸を整えながら朝礼に立つが、グズリと胸の内が騒いだ。
みんなが笑っているように見える。笑い声が聞こえる気がする。遅刻しそうになった私を笑っているのだろうか。考えが勝手に膨らんでいく。
ぐるぐるぐるぐる。
考えすぎて目眩がした。頭ではわかっている。誰も私の悪口なんて言っていない。それなのに、脳みその奥でけたたましい警告音が鳴り続けていた。
(…もう疲れたな…)
警告音をぶち壊したかった。でも壊し方がわからない。結局、その音に従うしかなかった。仕事をしていても鳴り響く。
「数字はあっているのか」
「本当にあっているのか」
不安が次々と押し寄せる。追い返しても、諦めずにやってくる。だからもう、受け入れるしかなかった。
画面の数字を確認する。もう一度確認する。まだ足りない気がして、また確認する。周りに問題がないかを確かめる。それでも安心できない。
気づけば、私の容量は限界を超えていた。
ぽろ…ぽろ…。
こんなことは初めてだった。ディスプレイが歪んで見えた。歪んだ原因が涙だと気づいた時には、すでにデスクの上にいくつもの染みができていた。
体が震える。いままで耐えてきたというのに、トイレに駆け込んでやり過ごしてきたのに、今日はそれすらもできなかった。
止めたいのに止め方がわからない。遠くで聞こえる談笑が、ひどいノイズに変わる。
私は顔を隠しながら席を立った。胃がムカムカする。手が震える。涙は止まらず、顔はぐちゃぐちゃだった。トイレに駆け込んで内鍵をかける。便座の蓋を開けて顔を突っ込んで、盛大に嘔吐した。朝食を食べていない腹の中は空っぽで、出てくるのは胃液だけだった。
ここがトイレだということすら頭から抜け落ちて、汚いことなどお構いなしに、その場にへたり込む。頭の中では、今も警告音が鳴っている。
「早く戻って、数字を確認しないと」
赤いランプが、ぐるぐると回り続けていた。
トイレットペーパーで涙と鼻水を拭き、水を流したところで、ドアがノックされた。
「大丈夫?」
職場の友人の声だった。部署は違うはずなのに、どうしてここにいるのだろう。内鍵を外して扉を開けると、友人は眉尻を下げてこちらを見ていた。私の顔を見るなり、ぎょっとして、さらに悲しそうな顔になる。
「…大丈夫…」
本当は大丈夫なんかじゃなかった。誰かにすがりたかった。でも、友人にこんな顔をさせてしまったのだ。
一言だけ。そう決めていたのに、言葉が出てこない。決めただろう、そう決めただろう、と頭の中で繰り返す。
震える私の手を、友人がそっと握った。
その温もりに、張り詰めていた何かがふっと緩んだ。
「私、病院、行くよ…」
私の実体験が含まれています。




