夢幻の市場 闇の試練
第三の試練は闇の試練。それは「自分という名の在庫処分」との対峙であった。
ドラキチの前に現れた者は、彼と全く同じ姿をした「影」。それは、鏡合わせの自分ではない。ドラキチから「セールのワクワク」と「おまけへの執着」という脂身をすべて削ぎ落とした、カチカチのフリーズドライのような「影」だった。
影の瞳には、タイムセールの戦場で流れるアドレナリンの煌めきも、ポイントが十倍になった瞬間の神々しい輝きも宿っていない。そこにあるのは、ただひたすらに乾燥しきった、返品不可の「現実」という名の無機質な闇だった。
「お前はただ、『お得』という言葉というシェルターに逃げ込んでいるだけだ」
影が、重々しく、しかしどこか虚しい声で断罪する。その声は、重厚なファンタジーの魔王のようでありながら、その実、マンション契約書の裏面に米粒のようなフォントで卑怯に記載された「※将来、南側に地上四〇階建てのビルが建ち、日照が絶望的になる可能性があります」という不利益事実のような冷たさを持っていた。
「真剣に何かと向き合ったことがあるのか? 目の前の平穏が、巧妙に隠蔽された『将来の建設計画』の上に成り立つ虚飾だとしたら? お前の人生という名のレシートに、一パーセントでも定価の真実があるというのか!答えてみろ、この期間限定の男め!」
ドラキチは沈黙した。脳裏をよぎるものは、ポイントカードの有効期限という死神の鎌に追われ、深夜のスーパーで割引シールが貼られる「聖なる角度」を熟練の暗殺者のような目で見守り、常に「損をしないこと」だけを北極星にして航海してきた少し情けなくて、やけに必死な日々。
「俺の人生は……」
ドラキチの唇が震える。
「俺の人生は、三点買いで一点無料になる、あのワゴンセールのような……寄せ集めだったというのか……?」
かつて不動産会社を相手に「だまし売り」だと叫んだ先人たちの怒りが、今のドラキチには痛いほどわかった。彼らが戦ったのは「隠された壁」だが、今ドラキチが直面しているのは「隠してきた自分」という壁だ。
「そうだ、ドラキチ。お前の心は、いつも『実質無料』という甘い毒に侵されている。真実の価値など、お前は一度も支払ったことがないのだ」
影が最後通牒を突きつける。ドラキチの脳内に、無情にも「期限切れ」のビープ音が鳴り響いた。だがその時、ドラキチの胸のポケットで、有効期限が切れる寸前の古いクーポン券が、奇跡のような微光を放ち始めたのである。
彼は一歩、前に出た。
「……たしかに、俺は『お得』ばかり考えているよ」
ドラキチの唇が、不敵な弧を描く。その笑顔は、大手不動産会社相手に勝ち取った勝訴判決文のように晴れやかだった。
「でもさ、想像してみろよ。一円でも安く買えたとき、主婦の眉間のシワが少しだけ消えるだろ? おまけでもらったアメ玉一つで、子どもが太陽みたいに笑うだろ? 俺が追い求めているのは『数字』じゃない。その先にある、ささやかで、かつ誰にも奪えない消費者の勝利なんだよ」
彼は影の目を真っ直ぐに見つめ、一気に畳みかける。
「真剣に向き合ってないだと? 笑わせるな。俺は、この世界の不条理な『定価』と、いつだって命がけで戦っているんだ。それが、たとえ誰かにとっての逃避だとしても……みんなが笑顔になるなら、そのコストパフォーマンス、最高だと思わないか?」
その瞬間。
ドラキチの背後から、神々しいまでの「赤札(セール品)」のオーラが噴出した。
「なっ……バカな……! 期待値が……計算不能……だと……!?」
影は、まるで不当な契約書が破棄される時のように、ハラハラと白く乾いた紙屑となって霧散した。
暗闇は晴れ、最後の扉がギギギ……と重苦しくも、確かな音を立てて開かれていく。
扉の向こうから差し込む光に、ドラキチは目を細めた。
●市場の贈り物
暗闇が晴れた市場の最奥。そこには、金貨の山も、伝説の武器もなかった。
代わりに置かれていたのは、ひび割れ一つない、静謐な輝きを放つ一枚の鏡。
「――おめでとう。これが、あなたが手に入れるべき最後の『目玉商品』です」
フンニャが、まるで特売日の開店直前のような、穏やかでいて身の引き締まる微笑みを浮かべた。その差し出した掌には、「心映しの鏡」が握られている。
「この鏡は、あなたの預金残高や、所持しているポイント数を映すものではありません。あなたの心の中を映し、進むべき『最安ルート』を指し示す道標なのです」
ドラキチは、その鏡を震える手で受け取った。
鏡面には、かつて悪徳不動産営業が提示した「バラ色の未来」のようなキラキラした加工は一切ない。代わりに映し出されたのは、不格好なほど一生懸命に生き、一円の損に涙し、一円の得に拳を突き上げる――あまりに人間臭い、自分の姿だった。
「自分をよく理解している……?」
ドラキチが自嘲気味に呟くと、フンニャは深く頷いた。
「ええ。自分が何に怒り、何を救いたいのか。あなたは『不利益な事実』から目を逸らさなかった。自分がただの『お得好き』であることを認め、その欲望を他人の笑顔のために昇華させた。その『誠実さ』こそが、この市場で最も価値のある通貨なのですよ」
ドラキチが鏡を覗き込むと、鏡の中の自分が悪戯っぽくウインクをした。そこには、契約書の小さな但し書きを見逃さず、消費者の権利を叫び、不当な販売手法に「NO」を突きつけるジャーナリズムの魂が宿っているようだった。
「……なるほど。これが俺の、一番の戦利品ってわけか」
ドラキチは、鏡を大切にマントの内側に仕舞い込んだ。これから先、どんなに甘い誘惑が、あるいはどんなに理不尽な「だまし売り」が待ち受けていようとも、この鏡があれば迷うことはない。
「ありがとうよ、フンニャ。この鏡があれば、どんなブラックな闇市でも、俺は『最高の買い物』ができる気がするぜ」
ドラキチは踵を返し、光に満ちた市場の出口へと歩き出す。
その背中には、もう迷いはなかった。
「さて……次は、この世界の『不当な価格表示』を全部ひっくり返しに行くとするか!」
フンニャの鈴を転がすような笑い声が、夢幻の市場にいつまでも響き渡っていた。
次回予告
夢幻の市場での試練を乗り越えたドラキチが次に目指すのは「冥界の市」。そこでは、命を超越した商品が取引されているという――!?




