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夢幻の市場 願いの石

「……ああ、そうか」

ドラキチの胸に、冷たい氷の粒が落ちたような感触が走った。それは波紋を広げ、全身の血を凍らせていく。

「そういえば、地球ではあまり役割と向き合わなかったかもな……」

ドラキチは自嘲気味に笑った。その笑みは、ひび割れた陶器のように脆い。

彼は震える声を絞り出した。その言葉は、市場の霧を切り裂く真実の調べ。

「もっと自分の役割を大切にすればよかったかな。無能被医的存在の保身のための『都合のいい穴埋め』じゃなく、俺自身の旗を立てればよかった。……クソ、後悔してるよ。今さら、猛烈にな」

静寂。

時が止まったかのような沈黙の後、台座に置かれた古びたノートが、咆哮を上げるように爆発的な輝きを放った。

それは、純度の高い「後悔」という高カロリーな燃料を得て燃え上がる、慈愛の光。ノートは意志を持つ生き物のように宙を舞い、ドラキチの未練を優しく包み込みながら、彼の胸元へと吸い込まれるように収まった。

「試練、合格です」

案内役のフンニャが、霧の向こうで三日月のような笑みを浮かべた。

「おめでとうございます。これであなたは、過去を消す権利を得ました。……でも不思議ですね。今のあなたの顔、過去を消したい人には見えませんよ?」

ドラキチは手の中のノートをぎゅっと握りしめた。

「……うるせーよ。これは『やり直す』ためじゃなく、二度と同じ後悔をしないための『お守り』にするんだ」

霧が晴れ、市場の向こうに新しい道が見える。

ドラキチはノートを懐にしまい込み、少しだけ前よりも力強い足取りで、次の「誰か」が待つ場所へと歩き出した。


次に現れたものは、透き通る水晶「願いの石」だった。その輝きは、深夜のテレビショッピングのスポットライトより眩しい。石の傍らには、古めかしい羊皮紙が浮いている。そこには「あなたの望みを一丁あがり。ただし、代償として相応の魂の重荷(または現金一括払い)を申し受けます」という、なんとも世知辛い文言が踊っていた。

「へっ、等価交換かよ。世の中にタダより高いものはないってか」

ドラキチは鼻を鳴らし、指先をパチンと鳴らした。

「だが、こっちには伝家の宝刀があるんだわ。『消費者契約魔法』発動!」

彼の脳内に、キラリと光るポップアップ広告のような魔力が展開される。

解析の結果、驚きの追加オプションが判明した。

【期間限定特典:今なら『代償軽減』の効果が追加可能です!実質負担ゼロ!】

「お得にする方法があるなら試さない手はないな」

ドラキチはニヤリと笑ったが、石は彼を嘲笑うかのように、さらに深く、冷たく輝きを増し、厳しい声が響いた。

「……真実の願いを供述せよ。さもなくば、キャンペーンは適用外なり」

「本当の願い……?」

ドラキチは、その場でフリーズした。異世界に転生してからというもの、彼の行動原理は「いかにコスパ良く、いかに楽しく、いかにお得に生きるか」の三点突破だった。だが、この石が見透かそうとしているのは、そんな表面的なポイント還元率の話ではないらしい。

(俺、本当は何を欲しがっているんだ……? 終身雇用か? 毎日がエブリデイサンデーな不労所得か?)

心の中の家計簿をいくらめくっても、答えが出てこない。しかし、目を閉じると、真っ先に浮かんできたのは「金貨の山」ではなかった。ギルドの仲間、冒険者たち、そしてマクラ……。

(……ああ、そうか。俺、一人が一番お得だと思っていたのに)

ドラキチは、少しだけ照れくさそうに頭をかいた。自分の「本当の願い」を認めるのは、全財産を投資に回す時よりも勇気がいった。

「……ちっ、これじゃコスパ最悪だな。俺の願いは、この異世界で、みんなと……楽しく過ごし続けることだよ。もちろん、損はしたくないけどな!」

その言葉が、嘘偽りのない「心のサイン」として刻印された瞬間だった。願いの石が、まるで特売日の開店合図のように爆発的な光を放った。手元に収まった石は、もう冷たい水晶ではない。まるで誰かの体温を宿したかのような、温かな輝きを放っていた。

「代償軽減のおかげで、支払いは『明日の朝飯抜き』くらいで済んだみたいだな……」

ドラキチは、手の中の「幸せの塊」をポケットにねじ込んだ。ドラキチの足取りは、タイムセールの行列に並ぶ時よりもずっと軽やかだった。


●火と果実が織りなす「至福の調べ」

夢幻の市場の喧騒は、夜が深まるほどにその輝きを増していく。第二の試練を、消費者契約魔法で切り抜けたドラキチは、空腹の限界に達していた。

「最後の試練の前に、魂の燃料補給が必要だ……」

彼が辿り着いたのは、市場の片隅で怪しく、しかし抗いがたい香りを放つ焼き肉店「冥府の業火亭」。そこは、一度契約を結べば最後、美味の代償に記憶や感情を差し出さねばならない「契約制レストラン」であった。


店主の悪魔が、禍々しい羊皮紙を差し出す。

「さあ、この『永久に満たされぬ食欲の呪約』にサインを。引き換えに、最高級のケルベロス・ロースを食らわせてやろう」

ドラキチは不敵に笑い、消費者契約魔法を行使すると、黄金の法典が展開された。


【消費者契約魔法:重要事項説明の不備】

店主が提案した契約には、「食後の胃もたれ」および「精神的対価」に関する明確な説明が不足している。ドラキチは不利益事実の不告知を主張し、「適正価格での単品注文」へと契約を上書きする!


「な、なんだと!? 私の呪約が書き換えられるだと!?」

狼狽する悪魔を尻目に、ドラキチは悠然と注文を告げた。

「特選厚切りドラゴン・カルビ。それと……この店で最強の『琥珀の聖水(ぽん酢)』を」


運ばれてきた肉は、業火の網の上で猛々しく、情熱的な音を立てて脂を弾けさせている。しかし、ドラキチは焦らない。彼は静かに、小皿に満たされた黄金の滴を見つめた。

「ゆくぞ、第三の試練の前の、最高の贅沢だ」

彼は焼き上がった肉を、その琥珀色の滴にどっぷりと浸した。

黄金の滴に浸し、 一口含めば、心ゆくまで駆け巡る。

ああ、ぽん酢で焼肉、至福の調べ。

口に入れた瞬間、爆発的な肉の旨味が広がる。しかし、すぐさまそれを追いかけるように、清冽な柑橘の香りが鼻腔を抜けた。滴る脂を、澄んだ酸味が優しく浚う。猛々しい肉の熱情を、琥珀色の滴が静かに宥める。それは、暴れ馬のような肉の脂を、高潔な貴婦人が優しく手懐けるような、奇跡の調和であった。重厚な旨味と爽快な香気が、舌の上で鮮やかに溶け合う刹那。それは、火と果実が織りなす、至福という名の調和。

「これだ……この『不当な脂っこさの相殺』こそ、食の正義……!」

ドラキチの瞳には、感動のあまりうっすらと涙が浮かんでいた。


最後の一切れを食べた時、ドラキチの全身は新たな魔力で満たされた。消費者契約魔法によって守られた彼の魂は、一点の曇りもなく、ただぽん酢の爽やかさで研ぎ澄まされている。

「ごちそうさま。対価は魂ではなく、この『正当な満足感』で払わせてもらったよ」

ドラキチは、呆然とする悪魔の店主を背に、店を出た。夜空には星が輝いている。

「さあ、来い。今の私なら、神との契約不履行だって勝ち取ってみせるさ」

ドラキチの足取りは、ぽん酢の酸味のように軽やかであった。


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