夢幻の市場 心の試練
乳白色の霧が、意志を持つ生き物のように足元にまとわりつく。視界はわずか三歩先まで。
「おい、フンニャ。本当にこっちであってるのか?」
ドラキチがぼやくと、霧の向こうから場違いなほどチープなカランカランというベルの音が響いた。現れたのは、廃材と夢をボンドでくっつけたような、歪な造りの露店。カウンターには、表紙がカピカピに乾いた『後悔の記録帳Regret Note』が鎮座していた。
「……なんか、嫌な予感がするな」
ドラキチは用心深く、指先で魔法の術式を編み上げた。
「消費者契約魔法:契約内容詳細開示!」
虚空に浮かび上がる黄金の規約。それは驚愕の内容だった。
「なっ……書いた内容を世界から『なかったこと』にする!? しかも『操作ミスでも1回リトライ可』の特典付き?めちゃくちゃ便利じゃないか!」
ドラキチは身を乗り出した。しかし、ノートの隣に座る店主(のような何か)は、すり減った声で告げる。
「お代はゴールドじゃねぇ。ああんたの心の奥底、澱のように沈んでる後悔を一つ、生贄に捧げな」
ここでは金貨はただの光る石ころに過ぎない。感情こそが、最も高潔で残酷な取引材料であった。
「後悔か……あんまり深く考えたことなかったな」
ドラキチは少し困った顔をした。だが、市場の冷たい空気が彼の意識を強制的に引きずり出す。周囲の空間が歪み、現実と記憶の境界が溶け出した。
映し出されたものは、かつてのドラキチであった。肩書きだけは立派だが、商品知識は皆無の無能公務員的存在から、自部署の面子を死守するためだけに、役割外の仕事を押し付けられる哀れな男の姿だった。
無能公務員的存在は、ただ「会社の中で波風を立てずにタスクを回すこと」しか考えていない管理職だった。自身については「マニュアルがないから動けません」と繰り返すだけの思考停止した存在で、「いかに責任の所在を曖昧にするか」という保身のみを唯一の防具とする。ところが、できそうな人には仕事を押し付ける相互主義に反する存在であった。
会議室の空気は、いつものように濁っていた。誰も本音を言わない。誰も責任を取りたくない。ただ、誰かが「やってくれる」のを待っている。その中で例の無能公務員的存在が、いかにも「良いことを言ってやった」という顔で口を開いた。
「いやあ、君は自分の担当分野だけじゃなくて、システム全体の設計思想から末端の不具合までよく知っているからね。さすがだよ」
その言葉は、一見、多才さを称える「称賛」の皮を被っていた。しかし、民間感覚を持つ労働者ならば誰でも分かる。その言葉の裏には「専門性が低い」という冷酷な貶めが仕込まれていた。ドラキチは無能公務員的存在の「褒めハラ(褒めることによるハラスメント)」が、毒針のようにチクリと刺さるのを感じていた。
「他にできる人がいない」という言葉は、裏を返せば「君なら断らない」「君を犠牲にすれば部署の帳尻が合う」という経営的都合の言い換えに過ぎない。専門性を深める時間を奪われ、他人の尻拭いでシステム全体を這いずり回る労働を「全体把握」という耳あたりの良い言葉で正当化する。
「専門性が低いから、どこにでも回せるよね」
「替えが利くから、雑務も頼むね」
「責任は取らないけど、作業はよろしく」
そのような本音が、薄い笑顔の裏にべったりと貼り付いている。
無能公務員的存在ができないならば、やらなければいいだけである。ところが、自分の部署の面子を守り、他部署に良い顔をしたいというためだけに仕事を押し付ける。商品を販売することよりも、会社の中で仕事を回すことに意義を見出す倒錯した存在であった。
ドラキチは目眩を覚えた。この会社は、外の世界に商品を販売して利益を出す場所だったはずだ。ところが、無能公務員的存在の視界には、消費者の顔も、商品の機能も映っていない。無能公務員的存在が情熱を燃やしているのは、社内政治ででいかに上手く立ち回り、部署の面子という名の虚像を守るか、その一点のみだった。無能公務員的存在にとって、仕事とは「価値を生むプロセス」ではなく、「責任の所在を曖昧にしつつ、存在感をアピールするための儀式」に過ぎない。
商品の機能向上案を出しても却下、顧客から不満の声が上がっても個別対応で処理。
「……それで売上が増えるんですか?」
無能公務員的存在の顔が、引きつった。
「売上は大事だけど、それだけじゃないでしょう?会社はチームなんだから。みんなで気持ちよく働ける環境を作るのも、立派な仕事だよ」
ドラキチは視線を落とした。目の前の資料には、カラフルな円グラフと矢印が乱舞している。どれも数字とはほとんど関係がない。ただ「動いている感」を演出するための記号の羅列だ。その時、ドラキチの中で何かがはっきりと音を立てて切れた。彼はゆっくりと顔を上げ、無能公務員的存在をまっすぐに見つめた。
「私は、もうこの手の会議には出ません」
無能公務員的存在の目が一瞬、点になった。
「……は?」
「商品が売れるかどうかに関係のない話に、これ以上付き合う気力がありません。私の時間は、消費者に向けるべきだと思っています」
会議室に、重い沈黙が落ちた。
「うわ……」
誰かが小さくと呟いた。無能公務員的存在はしばらくドラキチを睨みつけていたが、やがてフッと息を吐いて笑った。
「まあ、そういう考え方もあるか。でもね。会社ってのは、そうやって正論で動いているわけじゃないんだよ。みんなが少しずつ譲り合って、なんとか回しているんだ」
記憶の中のドラキチは、虚ろな目で、ただ曖昧に笑っていた。反論すれば「協調性がない」と言われる。断れば「チームワークを乱す」と責められる。自身の市場価値を確実に蝕んでいくその毒を、処方箋のない劇薬のように、黙って飲み込むことしかできなかった。




