時空のバザール 図書館
●第二の鍵:現在の鍵
フォーラー図書館は、町の北端にひっそりと佇んでいた。石造りの外壁は、幾星霜もの時の風に磨かれ、翡翠色の蔦が静かに絡みつき、古ぼけた雰囲気を一層引き立てている。重厚なオーク材の扉を押すと、微かな、しかし抗いがたい魅力を持った軋みとともに、書物の匂いが空気に溶け出した。それは、単なる紙とインクの香りではない。誰かの喜び、悲しみ、そして忘れられた記憶の断片が混ざり合った、甘くほろ苦い「知」の香りであった。
ドラキチは、カツカツと鳴る自身の足音すら冒涜であるかのように感じながら、館内の静けさに一歩ずつ足を沈めた。張り詰めた空気の中を、彼は奥のカウンターへと向かう。そこには、フォーラー図書館の主、館長がいた。白髪を油で丁寧に撫でつけ、厚い眼鏡の奥に、百万の知識を宿したかのような鋭い光を秘めた人物。彼の声は、まるで千年前の古文書を慎重にめくるように、静かで、しかし重みがあった。
「確かにその『現在の鍵』は、当館に厳重に保管されています。ただし、それはこの世ならざる重要な文化財。持ち出すには、正式な許可が必要です」
ドラキチは、館長の言葉に内心少しだけ焦りながらも、表向きは恭しく頷いた。そして、指先をそっと動かした。空気がビリビリと震え、消費者契約魔法が発動する。淡い琥珀色の光がカウンターの上に広がり、契約の具体的な特典が、まるでホログラムのように鮮明に浮かび上がる。
「貸出許可の特典」
それは、この世の理不尽な契約の扉をこじ開け、知識という名の真実へと至るための鍵そのものだった。
館長は、消費者契約魔法の光で構成された難解極まりない文字列を、眼鏡を押し上げながら食い入るように見つめた。そして、やがて静かに、深く頷いた。
「……なるほど。契約の形式は、いささか異例……いや、極めて現代的ですが、効力は認めざるを得ません」
彼は諦めたようにため息をつき、背後の誰も触れることを許されない特別棚から、黒いベルベットの布に幾重にも包まれた小さな小箱を取り出した。その中には、古びた、しかし荘厳な金属の鍵が眠っていた。何の装飾もなく、ただ静かに、確かな存在感だけを放っている。ドラキチはそれを受け取りながら、ふと、好奇心から問いかけた。
「この鍵、誰が最初にここへ預けたんですか?」
館長は少しだけ目を細め、遠い、遠い記憶の彼方を探るように、意味深な声で言った。
「……それは、いかなる記録にも残っていません。けれど、鍵というものは、常に何かを開けるために存在するとは限らない。時には、パンドラの箱のように、決して開けてはならないものを『閉じる』ために作られることもあるのです。どうか、その消費者契約魔法の力を持ってしても、開くべきではない扉があることを忘れず、慎重に使ってください」
ドラキチはゴクリと喉を鳴らし、武者震いをしながら頷き、鍵を厳重にポーチにしまった。図書館の重い扉を再び開けると、外の、あまりにも平凡な昼下がりの光が、先ほどよりずっと眩しく、そして少しだけ希望に満ちて感じられた。知の静寂という名の異世界を抜け、彼は再び、騒がしい現実の世界へと歩き出す。まだ見ぬ扉の向こうにある、隠された真実の断片を探すために。
●第三の鍵:未来の鍵
予言の塔は、天界の嫌がらせかと思うほどひょろ長く、まるで空に刺さった巨大なストローのようであった。雲を突き抜けた尖塔は、風が吹くたびに「あー、こっちかな? いや、あっちかな?」と迷う優柔不断な杖のように揺れている。ドラキチがその錆びついた扉をくぐると、空気は一瞬、湿った古文書のような重さを帯びた。
「いらっしゃい。営業時間は未来が決めることになっているのだけれど、まあ、間に合ったようね」
塔の奥、埃一つ落ちていない空間で彼を待っていた者は、未来予知師であった。彼女の瞳は、昨日食べた朝食を忘れ、目の前のドラキチも見ず、ただ「来週の火曜日に特売になる卵の値段」のような未来だけを慈しむように見つめていた。その声は、まだ誰も喋っていない言葉のこだま。彼女の声は、まるでまだ起こっていない出来事の残響のように、耳の奥に届いた。
「未来の鍵は、確かにここにあったわ。でも、ちょっとした時空の胃もたれ……つまり異常現象で、どこかへ勝手に転送されてしまったの」
「やれやれ、これだから無機物は自由奔放で困る」
ドラキチは肩をすくめると、指先で優雅に円を描いた。消費者契約魔法が発動し、空気が震える。光の粒が塔の床を這い、過去の痕跡を拾い集めるように浮かび上がる。
「……鍵は、時空の裂け目に吸い込まれた」
予知師は、まつ毛に溜まった未来の残滓を払うように目を閉じた。
「裂け目は、時間の境界線が洗濯に失敗したセーターのようにほどけた場所。鍵は、そこに眠る力を引き出す道具として作用している」
ドラキチは腰のポーチから二つの鍵を取り出した。それぞれが、過去と現在を象徴するもの。そして、未来の鍵は、まだその姿を見せていない。
「なるほど。裂け目自体に行けば、鍵が使えるってことか」
彼は塔を後にし、時空の裂け目へと向かった。
「次は三百年後に会いましょう」
背後で予知師が挨拶を投げた。
空は、いちごジャムと夜のインクを混ぜ合わせたような、名状しがたい夕暮れ色に染まっていた。風はもはや言葉を捨て、ただ静寂だけを運んでいる。
時空の裂け目の前に立った時、ドラキチの手の中で、過去と現在が共鳴を始めた。そして、まだ手にしていないはずの「未来の鍵」が、時間軸を無視してその姿を現す。三つの鍵が、呼吸を合わせるように淡く、それでいて強烈な光を放った。それは、時間の扉を開くための合図であった。
「さて、この宇宙の契約内容を確認させてもらおうか」
ドラキチが鍵を掲げると、世界の継ぎ目が、ゆっくりと剥がれ始めた。音もなく、光もなく、ただ世界が静かにほどけていく。ドラキチは、その裂け目に足を踏み入れた。
そこは、時空のバザールであった。宇宙の綻びをパッチワークしたような場所、「過去」「現在」「未来」が同時に存在する風景。「昨日」の夕焼けと「今日」の入道雲と「明日」のオーロラが、マーブルチョコのように混ざり合う空の下。地面は、誰かが忘れた幼少期の記憶と、誰かが抱く野心的な予測で編み込まれた、踏むとふかふかする不思議な絨毯だった。
過去の商品は、滅びた文明の魔法書や、錆びたが美しい古代の武器。
現在の商品は、生活を支える便利な道具や、洗練された魔法ガジェット。
未来の商品は、未完成の技術、予測不能な力を秘めたアイテム。その全てが、まだ名前を持たない。
「いらっしゃい、お客さん。掘り出しものの『絶滅したはずの溜息』なんてどうだい?」
露店には、滅びた古代王国の魔法書(表紙はドラゴンの鼻水でコーティングされている)や、使い道はないがやたらと光る、錆びた聖剣が並んでいる。その隣では、「全自動で靴下を裏返す魔法ガジェット」といった極めて現代的で世俗的な道具が売られ、さらにその先には、半透明で輪郭が定まらない「まだ発明されていない何か」が、赤ん坊のような声を上げて蠢いていた。
「よし、そろそろ『消費者契約魔法:特約の穴探し』を発動するか」
ドラキチが指を鳴らすと、空中にキラキラと輝く文字が踊り狂った。商品の裏側に隠された「メタデータ」が露わになる。
彼は、未来の棚に置かれた、まだ実体すら危ういモヤモヤした塊――「時空ポケット(仮)」に目を留めた。
「ふむ、この未完成品……。普通に買えばただのガラクタだが、消費者契約魔法の『開発完了特典』を、過去の『確定した事実』というスパイスで煮込めば……」
彼は不敵な笑みを浮かべ、指を振り下ろした。
「消費者契約魔法執行!」
契約が成立した瞬間、空間がわずかに震えた。過去が「懐かしいわぁ」と囁き、現在が「忙しいんだよ!」と笑い、未来が「……はじめまして?」とゆっくり目を開ける。
次の瞬間、ドラキチの手の中には、無限の奥行きを持つ漆黒のポケットが握られていた。どの時代のガジェットも、想い出の飴玉も、明日捨てるはずのゴミも、念じるだけで瞬時に取り出せるアイテムである。
ドラキチは静かに呟いた。
「時間って、案外、買い物みたいなもんだな。選び方次第で、未来も変わる」
ドラキチは、手に入れたポケットに、さっそく隣の店で買った「食べても減らない魔法のポテトチップス」を放り込んだ。そして次なる契約へと歩き出した。時の裂け目は、まだ語り尽くされていない物語を、静かに待っていた。次のターゲットは、どうやら「まだ誰も見たことがない、終わらない週末」という、かなり高額な概念商品のようだった。




