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時空のバザール 忘却の谷

やがて、忘却の谷の入り口が見えてきた。谷は深い霧に包まれていた。その霧は、ただの水蒸気ではない。谷底から、いや、人々の魂の奥底から静かに立ち上る、おびただしい数の「記憶の残滓」が空気に溶け出したものだった。風が吹くことはない。しかし、霧は常に不気味に渦を巻いている。

「契約内容を忘れた~」

「解約方法が分からない~」

中からは悲痛な叫び声がこだましていた。


「ここが、すべての記憶が失われ、不当で不本意な契約だけが幽霊のように残る場所か…」

ドラキチは、背筋を凍らせながら呟いた。「忘却の谷」、その別名「悪徳商法の吹き溜まり」。かつては情報弱者を食い物にした古代文明が栄えた場所だという。

崩れかけた石柱は、まるで架空請求書の山積みのよう。苔むした階段は、悪質なマルチ商法の勧誘トークのように、滑りやすく足元を惑わせる。そして、誰にも読まれぬ文字が刻まれた石碑が、不毛な宣伝文句のように、沈黙の中に佇んでいた。


ドラキチは、足元の、いかにも不当表示されていそうな岩を踏みしめ、注意深く遺跡の中心部へと進んだ。空は、未来への希望を全て奪われたかのような灰色に沈み、世間の無関心のように音はすべて霧に吸い込まれていく。


中心にあった石碑は、半ば土に埋もれながらも、まるで返済催促の督促状のように確かな存在感を放っていた。表面には、見たこともない、いや、見たかもしれないが記憶から抹消されたいような文字が刻まれている。それは言語というより、過去の過ちの記憶の断片のように、意味の輪郭すら曖昧だった。


「この文字……まるで、複雑怪奇な保険約款みたいだ。見たこともないけど、消費者契約魔法で何とかなるかも」

ドラキチは、冷静なプロの表情で指先を軽く動かした。空気中の記憶の残滓が震え、「消費者契約魔法・真実開示Truth Disclosure」が発動する。淡い、しかし確固たる魔法の光が石碑を包み込み、都合よく書き換えられていた文字の意味が、浮かび上がるように変化した。


●記憶喰らい

「鍵は地下に眠る。ただし、記憶喰らいの守護のもとに」

その言葉に、ドラキチは眉をひそめた。記憶喰らいMemory Eaterは、この谷に巣食う最悪の魔物。接触した者の、特に契約に関する重要な記憶を喰らい、支払いの義務だけを残して過去を奪う存在。それは、物理的な剣では斬れず、普通の攻撃魔法でも封じられない。ただ、消費者契約法第4条第3項に基づいた、「記憶を守る」術だけが対抗手段だった。


ドラキチは、腰の、生活感あふれる布製ポーチから、小さな護符を取り出した。

「記憶保護のお守り」

それは彼が過去にパン屋で契約した際、なぜかおまけで付いてきたものだった。「今なら特別に!」という、あの胡散臭い言葉が脳裏をよぎる。しかし、効果は本物で、消費者契約魔法のブーストにより効果は二倍になっていた。

「まさか、あの時の防御系特典がここで役立つとはね」

彼は少しだけ口元を緩め、決意を新たに霧の奥へと歩みを進めた。地下への入口は、石碑の背後に隠されていた。階段を降りるごとに、空気は重く、冷たく、まるで冬のボーナスが予想より少なかった時の心境のように冷え切っていく。そして、最下層にたどり着いた時、それはそこにいた。


その魔物は、実体のない「後悔」を煮詰めて形にしたようだった。輪郭は不当な契約書の端っこが燃え上がる煙のようにゆらゆらと揺れている。目はない。しかし、獲物の「大切な思い出」を正確に狙い定める、底なしの食欲だけがそこにはあった。声もない。ただ、奴がそこに存在するだけで、周囲の空間は色彩を失い、昨日何を食べたか、初恋の人の名前は何だったかといった過去が、砂時計の砂のようにこぼれ落ちていく。


ドラキチの脳裏にも、一瞬、不穏な霧が入り込んだ。

(あれ……? なんでこんな湿っぽい地下にいるんだっけ? ローンの返済に来たんだっけ……?)

「危ない、職務放棄するところだった」

ドラキチは、パン屋の「おまけ」である護符を、大切な実印でも扱うかのように胸元へ強く押し当てた。その瞬間、護符に刻まれた「※ただし効果には個人差があります」という微細な文字が黄金に輝き、聖なる消費者保護のオーラが爆発した。記憶喰らいは、まるで見覚えのない違約金を突きつけられたかのように、その忌まわしい気配をわずかに後退させる。


ドラキチは確かな意志を持って歩を進めた。最深部、石の台座に置かれたのは、古びているが気品のある「過去の鍵」。彼はそれを手に取った。


魔物はなおも彼を飲み込もうと周囲を漂ったが、ドラキチを包む「契約の守護」は鉄壁だった。正当な手続きを経て得た特典の前では、論理なき忘却など無力に等しい。何も語らず、何も奪われず。彼はただ、そこに「存在」し続けることで勝利した。


重い石の扉を押し開け、地上に戻ったとき、谷を覆っていた濃霧は、まるでクーリングオフが適用されたかのように、少しだけ晴れやかになっていた。ドラキチは、手の中の鍵を夕陽に透かしながら、柄にもなくぽつりと呟いた。

「記憶を守るって……案外、自分を守るのと地続きなのかもな」


それは、大層な英雄譚ではない。朝、左右で微妙に色の違う靴下をどっちにしようか迷ったこと。あのパン屋で、おまけの護符を渡されたときに店主と交わした、なんてことのない苦笑い。そんな、領収書にも残らないような、ささやかで、下らなくて、愛おしい記憶の積み重ねが、今の自分という「唯一無二の契約体」を形作っている。

彼は護符を丁寧にポーチにしまい、長靴の泥を落とすと、歩き出した。背後の霧の中からは、もう悲痛な叫び声は聞こえてこなかった。


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