竜の市場 火炎峰への旅
天空のバザールを揺るがした喧噪が、遠い雷鳴のように彼方へと消え去り、ドラキチの日常には再び、まどろむ猫のような平穏が訪れていた。彼は冒険者ギルドの隅で、ドラ茶とテフ茶を味わっていた。しかし、運命という名のいたずら好きな給仕は、彼に休息のデザートを供するつもりはなかったらしい。
その日、ギルドの掲示板は異様な熱を帯びていた。脂ぎった戦士たちが群がり、呪術師たちが老眼を細めて凝視するその中心に、羊皮紙というよりは「黄金の鱗を薄く叩き延ばした」かのような、不遜な輝きを放つ一枚の依頼書が鎮座していたのである。
ドラキチは野次馬の隙間から、その尊大な文字列を盗み見た。
『――古の約定に基づき、選ばれし強欲……もとい、勇気ある者にのみ告ぐ。
【伝説の竜の市場】開市。
そこには、神々が質入れしたと噂される秘宝から、死者をくしゃみで蘇らせる万能薬まで、この世の理を蹂躙する品々が眠る。
ただし、門を叩く権利を有するのは、我ら一族が課す「ドラゴンの試練」を、誇り高き精神をもって乗り越えし者のみなり』
「ドラゴンの試練、だと……?」
ドラキチは思わず天を仰いだ。言葉とともに吐き出されたのは、これまでの冒険で嫌というほど味わわされた「試練」という言葉に対する、深い、あまりにも深い辟易であった。
「また試練かよ。トカゲどもの相手は、鱗の数だけ愚痴が出るって相場が決まってるんだ。どいつもこいつも、なぜ真っ当な商売をせずに、客に命懸けの余興を強いるのかね」
ドラキチは鼻を鳴らし、踵を返そうとした。だが、その足は呪縛にかかったように動かない。その脳裏には、まだ見ぬ「最も希少で強力なアイテム」という甘美な響きが、吟遊詩人の竪琴よりも美しく、そして何より「お買い得」な調べとなって鳴り響いていたからだ。
「……だが待てよ。竜の市場ともなれば、伝説の聖剣がガラクタ価格で転がっているかもしれん。あるいは、不老不死の妙薬が、期限間近のワゴンセール並の投げ売りで……」
ドラキチの瞳に、冒険者の矜持ではなく、百戦錬磨の買い物客だけが宿す鋭い光が灯った。
「よし、決めた。その試練とやら、謹んで拝受しようじゃないか。ドラゴンの鼻柱を叩き折り、ついでに大幅な値引き交渉のチケットも毟り取ってやる!」
その背中には、新たなるトラブルの予感と、それを上回る「掘り出し物」への執念が、黄金のオーラとなって渦巻いていた。
●竜の市場への招待
竜の市場の黄金の門をくぐる資格を得るには、古の契約の証たる「竜の印」を携えねばならぬと、依頼書には記されていた。
ドラキチは、傍らで羽を休めていた案内役のマクラに視線を投げた。
「この『竜の印』ってのは、どこぞの露店で叩き売りされているような代物じゃないんだろう?」
マクラは、やれやれと言わんばかりに肩をすくめて応えた。
「それを得るには、天を突く険峻なる『火炎峰』へと赴き、そこに住まう誇り高きドラゴン族から直々に『認許』を賜らねばならないのです。いわば、トカゲの王からのお墨付きを頂戴するようなものですよ」
ドラキチの頬がわずかに引きつる。
「ドラゴンってのは、あれだろう? 一息で騎士の軍団を消し炭にし、その咆哮だけで城門を粉砕するような、物騒極まりない連中じゃないのか?」
「ええ。並の冒険者であれば、遺言状をしたため、家宝の剣を研ぎ澄まして挑む修羅の道です。……ですが、ドラキチさんならば、やはり……その、交渉で解決されるおつもりで?」
マクラの控えめな問いかけに、ドラキチは不敵な笑みを浮かべた。
「当然だろう。戦ったらお得じゃない。第一、貴重な鱗や牙を持つ相手と戦って傷つけるなど、経済的損失が大きすぎる。外交と知略こそが、最もコストパフォーマンスに優れた武器なのだよ」
かくして、黄金の野望を胸に秘めたドラキチは、煮えたぎる溶岩が川を成し、硫黄の薫りが立ち込める「火炎峰」へと足を踏み出した。その足取りは、死地へ向かう戦士のそれではなく、極上の商談を控えた敏腕商人のように軽やかであった。
「火炎峰」への道程は、詩人が好んで謳うような「英雄の旅路」とは、およそ程遠いものであった。ドラキチは、膝の関節が悲鳴を上げるたびに、この世界の物理法則を司る神々の配慮のなさを呪った。道中、視界に飛び込んでくるものは、勇壮な叙事詩を飾るにふさわしい絶景ではなく、ただただ無慈悲に続く上り坂と、酸素を拒絶するかのような希薄な大気である。
「……ふむ、なるほど。これが世に言う『冒険の醍醐味』というやつか。実態は、ただの過酷な肉体労働ではないか」
ドラキチは旅装の裾を泥に汚しながら、独りごちた。時折、物陰から様子を伺う低級モンスター――ゴブリンやスライムの類――がいたが、ドラキチは彼らを一瞥し、懐から取り出した「魔除けの香」を、あたかも高貴な香水でも振り撒くかのような優雅な手つきで焚いた。モンスターたちは、そのあまりに「世俗的で打算的な臭い」に戦慄し、戦う気概を失って霧散していった。
やがて、標高が上がるにつれ、周囲の植生は乏しくなり、代わって大地が熱を帯び始めた。足下の岩場からは、地球の吐息とも言うべき硫黄の煙が、不躾な調子で吹き出している。
「俺は、一歩ごとにこのブーツの靴底が磨り減る音を聴いている。この減価償却分を、果たしてドラゴンとの交渉で回収できるか……いや、させねばならん。端数の一銭に至るまでだ」
ドラキチは、額に浮かんだ汗を最高級のハンカチで拭った。そのハンカチには、かつて彼が交渉の末に王国騎士団からせしめた紋章が刺繍されている。
ドラキチは、これから出会うであろう古の巨竜を想像した。火を噴き、財宝を愛でる伝説の生き物。だが、ドラキチの目には、それは恐るべき怪物ではなく、「まだ誰も開拓していない巨大なマーケット」として映っていた。
「待っていろよ、ドラゴン。お前の持つ伝説を、私が最高のレートで換金してやる」
格調高き野望を杖代わりに、ドラキチは熱風吹き荒れる頂へと、最後の一歩を踏み出した。その足取りは、破格の大型契約を前にした消費者の高揚感に支配されていた。




