忘却の砂時計
「いらっしゃい、勇気ある迷い人。ここでは『時間』さえも分割払いで買えるよ……」
ドラキチの耳に、シルクをナイフで切り裂くような声が届いた。
目の前に浮遊していたのは、全身が「特約事項」の羊皮紙で編み上げられたような、異形の店主――『約款の魔人』プロトコルの屋台だった。
「見てごらん、この『忘却の砂時計』を。これを使えば、過去に犯した誤発注の記憶だけを消去できる。お値段はたったの、君の『将来受け取るはずの幸運』の三割さ」
ドラキチは鼻で笑い、消費者契約魔法で鑑定した。
「ほう……『将来の幸運』を担保にした割賦販売か。だが、その幸運の評価額は誰が決める? そもそも、この砂時計の原産地証明書が見当たらんな」
ドラキチは空中を漂う小さな文字を読み取る。
「超極小の文字で注釈が書いてある!『※効果には個人差があります。また、幸運の徴収は事前の通知なく一括で行われる場合があります』……これは悪徳なサブスクリプションだ!」
ドラキチが指を鳴らすと、周囲に青白い魔法陣が展開し、魔人が提示した不当な契約条項を次々とシュレッダーにかけていく。
「甘いな、店主。その契約魔法は、消費者契約魔法の『クーリングオフ結界』の前では無力だ」
「な、なんだと!? 私の『不可抗力条項』を無視するのか!」
狼狽する魔人を背に、ドラキチはさらに奥へと進む。
●記憶の契約書
バザールの深淵へ足を踏み入れるごとに、現実の物理法則は「不当表示」の重圧に耐えかねて悲鳴を上げ始めていた。そこはもはや市場というよりも、経済学の墓場に咲いた毒花の園の感がある。
ドラキチの眼前に広がるものは、黄金の文字で「全品99%オフ! 閉店投げ売り(※恒久的に)」という巨大な看板を掲げた、その名も『二重価格の森』だ。眩い割引率に目を眩ませた冒険者たちが吸い込まれていくが、その入り口には米粒より小さなルーン文字でこう刻まれている。
「※ただし、入場料として魂の50%を右心房より徴収する。分割払い不可」
森の中では、魂を半分失い、虚無的な表情で「実質無料……実質無料……」と呟きながら、定価の百倍で売られる聖水(ただの泥水)を買い漁る亡者たちが彷徨っていた。
その隣には、一度足を踏み入れたら最後、足首に絡みつく粘着質の呪いによって「購入を止める権利」を剥奪される『定期購入の沼』が口を開けている。一度でも試供品のポーションを手に取れば、百年にわたり毎月、代引きで大量の「マンドラゴラの絞りカス」が自宅に強制転送される。解約するには、地獄の最下層にあるカスタマーセンターで、魔王の印鑑を三つ揃えねばならない。
「……世も末だな。もはや消費者倫理が息をしていない」
ドラキチが額の汗を拭ったとき、一際異彩を放つテントが目に留まった。店主は、影を煮詰めて仕立てたような漆黒のローブを纏い、顔の半分を奇怪な仮面で隠している。ドラキチの姿を認めると、店主は三日月のように口角を吊り上げ、慇懃無礼に頭を下げた。
「おやおや、賢明なる消費者殿。その瞳……さては、表面上の価格に惑わされぬ『消費者契約魔法の守護者』とお見受けいたします」
店主が震える手で祭壇から取り出したのは、銀の鎖で幾重にも封印された、ただの『白紙の本』だった。
「これは『記憶の契約書』。極めて高貴な取引を望む方への限定品です。お客様の脳髄に眠る『不要な記憶』の一部を担保として差し出せば、代償として深淵の知識や、神をも屠る魔力を即座にチャージいたしましょう」
ドラキチは油断なく構え、瞳の奥に魔導回路を走らせた。
「解析展開――『消費者契約魔法』!」
彼の視界に、虚空から警告のポップアップが次々と浮かび上がる。古の契約書に隠された、悪意に満ちた特約事項を暴き出した。
【契約特典】
対象記憶に関連する「後悔」「恐怖」「羞恥」等の負の感情を完全消去。
取引成立後、速やかに知識を付与。
【副作用】
記憶の喪失は不可逆。再インストール不可。
「失ったという事実」さえ忘却するため、自己同一性の崩壊を招く恐れあり。
「……なるほど。嫌な思い出を消してパワーアップできる、というわけか。一見すれば、現代の過剰ストレス社会における救済措置に見えるが」
ドラキチは冷ややかな目で店主を見据えた。
「だが、この契約には『不利益事実の不告知』の匂いがぷんぷんする。記憶の喪失が取り戻せないということは、その記憶が将来どれほどの価値……例えば、最愛の人の名前や、財宝の隠し場所だったとしても、俺は『損をした』ことさえ自覚できなくなる。これではクーリングオフすら成立しない」
店主は、蛇のような舌で唇を湿らせ、さらに囁きかける。
「ククク……あなたのように消費者契約魔法を極めし者なら、この本を媒介に市場価格を操作し、さらに強大な力を『レバレッジ』することも可能でしょう。リスクのない冒険に、一体何の価値があるのです? 失った記憶が重要だったかどうかは、忘れてしまえばゼロと同じです。あなたは、ただ最強になればいい……」
ドラキチは静かに本を閉じ、その手を祭壇から離した。
「悪いが、俺の『自分という資産』は、まだジャンク債として売り払うほど暴落しちゃいない。そのリスキーな商品は、もっと自分の価値に絶望した連中にでも売ってくれ。俺はまだ、自分の失敗や恥ずかしい過去も含めて『自分』だと思っていたいんでね」
「……左様ですか。それは、実にもったいない。実に」
店主の失望したような、あるいは嘲笑うような声を背に、ドラキチは再びカオス極まるバザールの喧騒へと歩き出した。
「さて、次はもっと安全で……良識の範疇に収まっている『お得』を探すとしよう。魂を担保に取られない程度のな」




