幻のバザールへの招待状
混沌と熱狂が渦巻いたグランバザールの騒動から、ようやく数日が過ぎた。ドラキチはギルドの隅で使い古された羊皮紙の計算書と格闘しながら、ドラ茶で喉を潤していた。戦いの傷跡(主に財布の)が癒えぬ彼のもとへ、不意に空間が歪むような感覚と共に、一人の配達人が現れた。
その配達人は、銀の糸で縫い合わされた影のような外套を纏い、足音一つ立てずにドラキチの前へ。
「失礼、ドラキチ殿とお見受けする。此度は特異な『約定の風』に乗り、こちらを」
差し出されたものは、ドラゴンの鱗を薄く伸ばして作られたような、異様な光沢を放つ封筒だった。封印には、見たこともない紋章が刻印されている。
ドラキチが封を切ると、中から飛び出したのは眩いばかりの金箔の文字。それは空中に浮かび上がり、朗々と謳い始めた。
「……選ばれし強欲……いや、選ばれし賢明なる消費者よ。汝を『幻のバザール(ファントム・マーケット)』へ招待せん。そこは因果律の狭間に漂う、この世で最も希少かつ、既存の市場原理を無視した逸品が集う聖域。入場資格はただ一つ――理不尽を理不尽と見抜く眼を持つ者であること……」
ドラキチは目を輝かせた。
「最も希少でお得な商品……? つまり、市場価格の歪み、裁定取引のチャンス、あるいは価格破壊という名の神話がそこにあるということか! これは行かねばならん、千載一遇のチャンスだ!」
マクラが心配そうに声をかける。
「幻のバザールって、ただの市場じゃないらしいですよ。何でも、消費者契約の裏側に触れる場所だとか……。契約書の一行目が読めた瞬間に精神が崩壊した賢者もいるって噂ですよ……?」
「それならば消費者契約魔法の使い手として、なおさら行ってみるよ。不当なキャンセル料、隠された特約、二重価格表示……それら全ての『悪意』を魔力に変換してきた俺にとって、そこは主戦場も同然だ」
●幻のバザールへの旅立ち
招待状に記された座標は、この世界の地図には存在しなかった。それは空間の「余白」に書き込まれた注釈のような場所だった。ドラキチは消費者契約魔法で魔方陣を展開する。魔法陣がシュレッダーにかけられた契約書のような光を放ち、ドラキチを飲み込んだ。
到着した先は、物理法則が消費者で書き換えられたかのような不思議な異空間だった。空には星々ではなく、契約の印章を象った星座が明滅し、足元の水晶の大地には、これまでに交わされた無数の「口約束」が結晶となって埋まっている。
「なんだここは……。空気中に、高濃度の『瑕疵担保責任』の匂いが満ちていやがる……」
空間のあちこちに、重力に従わず浮遊する極彩色の屋台。店主たちは、煙で編み上げたような精霊や、法衣を纏った巨大な多眼の蛙など、およそ人世の者とは思えぬ異形ばかり。
「あの浮かんでいる屋台はただの店じゃない。あれは欲望と論理が激突する、究極の商談の戦場だ」
●禁断の商品との遭遇
ドラキチは、鼻をつく腐った星屑と、どこか懐かしい焼きたてパンの香りが混ざり合う雑踏を歩いていた。彼の足元では、石畳のふりをした臆病な岩亀たちが、一歩ごとに「おっと失礼」と低く呻いている。
ドラキチの眼前に、常世のものとは思えぬ奇妙な商品が、傲慢なまでにその存在を主張し始めた。最初にドラキチの足を止めさせたのは、「未来予知の鏡」であった。その鏡面は、凝固した絶望のように黒く淀んでいる。店主である、頭部が巨大な砂時計の怪人が、カサカサという声で囁いた。
「旦那、これを覗けば、明日の晩飯から己の命日の天気まで、手に取るように分かりますぞ。ただし……」
怪人は、細長い指で鏡を叩いた。
「……未来を使いすぎれば、代償として貴方の『過去』が消えていく。最後には、自分が誰だったかも思い出せぬまま、輝かしい未来だけを持って野垂れ死ぬ。実に贅沢な最期だと思いませんかね?」
ドラキチは、鏡に映りかけた「昨日の記憶(好物の串焼きの味)」が薄まるのを感じ、慌てて視線を逸らした。
次に彼を誘惑した商品は、安っぽいジャムの瓶に詰められた、黄金色に輝く「時間停止の砂」だった。
ラベルには乱暴な筆跡で『数秒間の全能感。一回使い切り』と書かれている。
「これを振りまけば、世界は静止し、貴方だけが神となる。追い詰められた借金取りから逃げるもよし、片思いの相手に不意打ちの接吻を贈るもよし。だが、ご注意を。時間は止まっても、貴方の『老化』だけは倍速で進みます。数秒の自由と引き換えに、数年分の毛髪を失う覚悟はおありか?」
ドラキチは、自分の生え際を無意識に撫で、深く溜息をついてその場を離れた。
そして、奥まった天蓋の下に、それは鎮座していた。「願いを叶える壺」である。その壺は、見る者の欲望に合わせて形を変えるという。今は、ドラキチが幼い頃に欲しがった最高級の革靴の形をしていた。
「願いの対価は、貴方の『何か大切なもの』。それが初恋の記憶か、健康な胆嚢か、はたまた実家の権利書か……何が消えるかは壺の気分次第だ」
店主の姿は見えず、ただ空間そのものが語りかけてくる。どれもが、英雄を破滅に導き、愚者を王に変える、あまりに甘美で猛毒な果実たち。
ドラキチは、財布の中の銀貨を握りしめ、冷や汗を拭った。ここでは、慎重であることは臆病ではなく、生存のための唯一の技術であった。彼は一歩一歩、運命の地雷原を踏み抜かぬよう、神妙な面持ちで、次なる出店へと足を運んだ。




