異世界転移、そして初契約
ある朝、ドラキチは黒の靴下を手に取った。ソフトウェアサポートエンジニアとしてのドラキチは、ソフトウェアに向かい合う日々である。その日常に、ささやかな快適さをもたらす一品、それがこの靴下だった。
見た目は無口なほどにシンプル。簡素な外見に潜む、どこか奥深い職人技の気配。指先に触れた瞬間、確かな弾力が語りかけてくる。まるで生き物のようにしなやかに反発し、適度な張りが心地よい抵抗を生む。
履いてみると、足に吸い付くように馴染み、歩くたびに柔らかな生地が静かに寄り添う。締め付けることなく、しかし離れない。まるで、長年の友のような靴下だった。通気性も抜群で、長時間の歩行でも蒸れることなく、疲れを寄せ付けない。
黒という色は、沈黙の中に無限の可能性を秘めている。カジュアルなデニムの裾から覗くもよし、フォーマルなスーツの厳粛なラインに溶け込むもよし。あらゆる場面で、靴下は静かに、しかし確実にその存在感を主張した。ドラキチは思った。
「これは、足元の自由だ」
この靴下は、ただの道具ではない。日常のささやかな瞬間を、密かに高貴なものへと昇華させる魔法の品なのだ。
だが、その靴下を履いて三日目の朝。突如、視界が真っ白になった。次に目を開けると、ドラキチは見知らぬ石畳の道に横たわっていた。空は異様なまでに青く、遠くには輪郭の曖昧な山々が霞んでいた。風はどこか懐かしい匂いを運んでくる。そこは、どう見ても彼の知る世界ではなかった。
「なぜ、俺がここに?」
その疑問が頭をよぎる間もなく、古い物語から抜け出したような魔法使いの装いの杖を携えた老人が現れた。ローブの裾が風に揺れ、彼の瞳は星のように光っていた。老人は、開口一番、荘厳とも滑稽ともつかぬ口調で告げた。
「おお、選ばれし者よ! 汝には特別な魔法を授けよう。その名も『消費者契約の魔法』じゃ!」
魔法の名前は、あまりに世俗的で、どこか拍子抜けする響きだった。そのためにドラキチは眉をひそめた。
「この世界は悪徳商人が跋扈している。彼らから人々を救ってくれ!」
この世界には「詐欺師ギルド」なるものが存在し、巧妙な口実で冒険者たちに欠陥品や高額なだけの魔法アイテムを売りつけているという。老人は古びた魔導書を差し出した。タイトルは『消費者契約魔法概論』。
ドラキチは、魔導書を読み始めた。読み進めるうちにドラキチの表情は次第に興味へと変わっていく。この魔法は、商品やサービスを「契約」することで商品やサービスの恩恵が即座に発動する。それは、魔法というより、生活の革命だった。
半信半疑ながら、ドラキチは近くのパン屋へと足を向けた。木の看板が軋む小さな店内で、彼は試しに言ってみた。
「このパンを一つ、契約します」
すると、店主の目が驚きに輝き、まるで伝説を目撃したかのように声を上げた。
「おお、これが消費者契約の魔法か!」
店主はパンを差し出した。パンを受け取った瞬間、目の前に光の文字が浮かび上がる。
「追加バター無料」
「三個購入で一個プレゼント」
まるでクーポンの精霊が踊っているかのようだった。
ドラキチは、ふっと笑った。
「……これ、普通の生活にめちゃくちゃ便利じゃね?」
パンを一口かじると、バターの香りが口いっぱいに広がった。
異世界の小麦は、どこか懐かしい味がした。
「……これ、現実より現実的じゃね」
ドラキチは思わずつぶやいた。
魔法という言葉が、幻想ではなく利便性の象徴に変わっていく。この世界では、契約が力だった。そして、その力は、生活の隅々にまで浸透していた。通りを歩けば、契約魔法を使う者たちがあちこちにいた。薬草屋では「疲労回復保証」、理髪店では「似合う髪型確定」、果ては宿屋の看板に「ぐっすり眠れる契約あります」の文字が踊っている。ドラキチは、ふと立ち止まった。
「この魔法……使い方次第で、世界を変えられるかもしれない」
異世界フォーラーは美しい都市であった。あらゆる人々が住んでいる。学生や商人、職人、技術者など、あらゆる人間がひしめいていた。オレンジ色の袈裟を着た托鉢僧侶もいた。フォーラーは温暖な気候に恵まれ、豊かな農産物の宝庫であり、穀倉地帯であった。
ドラキチは町の中を歩いた。靴音が石畳に吸い込まれていくたび、昨日までの自分が少しずつ遠ざかっていくようだった。「もう戻れない」——そう思った瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。それは悲しみではなく、自由の予感だった。




