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落ちこぼれ蟲使いと虫嫌いの婚約

作者: 玖珠ゆら


「リリス様あんまりです! ライネス様を、解放してあげてください!」


 

 学園のカフェテリア。

 婚約者を待つ私は、甲高い声で名指しされて顔を上げた。


 目の前にはミルクティーを零したような淡い茶髪に桃色の瞳の、可憐な女生徒。同じクラスなので顔見知りではある。男爵令嬢のフィオナ・シャルモワだ。

 そして彼女の言うライネス様とは、私の婚約者。


 言われた意味がわからなくて首を傾げていると、フィオナは一方的にまくし立てた。


 

「ライネス様は、幼い頃にリリス様に助けられたと聞きました。その見返りに、婚約を結んだんでしょう? ライネス様は本当だったら公爵家の嫡男として家を継ぐはずだったのに、リリス様のせいで伯爵家に婿入りすることになって、かわいそうです!」


 よく知っているなぁ、とぼんやり思う。

 とは言え、そういった私たちの事情にやんわり口を挟んでくる人はこれまでにもいた。

 公爵令息のライネス様は爽やかでなかなか整った容姿をしているので、モテるのだ。

 今までは主に高位貴族のご令嬢たちが、ライネス様が気の毒ではないか、と苦言を呈してきたのだけれど、いよいよ男爵令嬢にまで声高に非難されるとは。ライネス様、守備範囲が広い。


 

 ──さて、なんと答えるべきか。お喋りは得意じゃないし。


 手元に視線を戻し、考えを巡らせる私に、フィオナがびしっと指をさして大声を上げた。


「それですよ、リリス様! あなたのそういうところが、ライネス様はお嫌いなんですよっ!」

「…………嫌い…………」


 思わずおうむ返しに呟いた。

 

 フィオナの指さした私の手のひらの上には、黒いイモ虫が蠢いている。それも、通常よりも何倍も大きな。

 黒の中に紫と黄色の混じった模様も、ぴょこんと出た触覚も、何もかもが可愛らしい。

 …………と、私は思っているけれど、多くの人はそうじゃない。不気味で気持ち悪い、らしい。


 そしてそれは、ライネス様も同様だ。


 

「ライネス様は大の虫嫌いなのに! リリス様ってばいっつもそんな気持ち悪いイモ虫を連れてて、配慮ってものがないんですか!? 婚約者を大切にできないなんて、最低です!!」


「…………でも、蟲使いは常に使役する蟲と行動を共にするものですし……」


 

 我がノクターン伯爵家は、蟲使いの家系。

 ノクターン家の血を引く者は、多くが蟲の卵を持って生まれてくる。それこそが自分が使役する蟲の卵。

 共に成長し絆を深め、蟲の持つ特別な力を借りる。

 個々の能力は異なり、蟲を媒介して戦うこともあれば、特殊な薬を調合したり情報収集をすることもある。

 いずれも重要な役割を担い、代々王家に貢献してきた。


 一方で、蟲は忌避される存在でもある。

 単純に不気味で気味が悪い、というのはもちろん、育て方を間違えると、人を襲う魔蟲に変貌するからでもある。

 蟲は主のそばにいることで、その魔力を餌とし成長する。しかし魔力不足や信頼不足の末に、蟲が主を捕食してしまう例がある。

 主を食った蟲は餌となる魔力を求め人を襲い食らう、恐ろしい魔蟲となってしまうのだ。


 ────そして。 

 

「そうやってずっと一緒にいるのにまだ幼虫のままだなんて、絶対にリリス様の魔力不足だって、みんな噂してますよ! いつ魔蟲に変わるかわからない蟲を連れているなんて危ないです! みんな恐くて仕方ないって、迷惑してるんですよ!」

「…………」


 

 フィオナの言う通り。

 蟲がまだ幼虫の姿だなんて、異常なのだ。

 

 私はもう17歳。

 10歳までに成虫になることがほとんどの中、いつまでも幼虫のままの蟲と一緒にいる私は、影で落ちこぼれだとか、伯爵家を継ぐ資格がないとか言われていることを知っている。

 


「リリス様は今のままじゃ、ライネス様と結婚しない限り伯爵家を継げないんじゃないですか? 公爵家の力を利用しようとしてるだけですよね? そんなのライネス様がかわいそう! 優秀な養子でももらってその人にノクターン伯爵家を継いでもらって、ライネス様を解放してあげるべきです!!」


 

 フィオナはそれだけ言うと満足したのか、踵を返してカフェテラスを出て行った。


 残った私は周囲の突き刺さる視線を感じながら、黒いイモ虫の背をそっと撫でる。

 イモ虫の名前は、グロウ。私が名付けた。

 確かに成長はとても遅いけれど、可愛くて大切な私の蟲。

 


 他人の家の後継にまで口を出すのはどうかと思うけれど、フィオナは我が家の事情をよく理解している。


 蟲の卵を持って生まれる人間は、ノクターン家の者以外にも少ないが、いる。

 その場合、余程の身分でない限り、平民だろうが貴族だろうが我が家の養子になってもらう。蟲の育て方、使役の仕方を熟知しているノクターン家に入ってもらえば、蟲に食われる心配もそうそうないからだ。これは命を守るため。

 そして彼らもまた蟲の力を行使し、国に寄与するようになる。


 とは言え蟲使いとしての能力も魔力も、ノクターンの血筋の者には及ばない。養子がノクターン伯爵家を継ぐなんて、歴史上一度もなかったことだ。 


 しかしそんな勝手を言われるのも、魔力不足を疑われている私自身のせい。

 それに、何よりも。


  

「お待たせ、リリア」


 フィオナと入れ違いに、ライネス様がカフェテリアに現れた。王子様みたいな金色の髪に、熟れた果実のように甘い橙色の瞳。

 いつもの爽やかな笑みを浮かべ、私の正面の席につこうとして……。


 私の手元、イモ虫のグロウを見るなり、その顔を引きつらせた。


「……うっ……。気持ち悪い」


 吐き捨てるようにそう言って、顔色を悪くしてこちらから視線をそらせる。あさっての方向を向いたまま、席についた。



 ────ライネス様の、この態度。

 私が男爵令嬢にまで侮られる一番の理由。


 ライネス様いわく、グロウの姿を視界に入れるだけで鳥肌が立つらしい。冷や汗が止まらなくなり、どうしようもない不快感が込み上げてくるんだとか。

 失礼な。このうねうね動く姿が可愛いのに。


 ライネス様はいつもこんな調子で視線も合わさず、傍目にも具合が悪そうに私との時間を過ごすものだから、婚約者同士としてうまくいっていないことは誰の目にも明らかなのだ。


 

「ライネス様、ひとつお伺いしたいのですけれど。フィオナ・シャルモワ男爵令嬢と最近得に親しくされていますか?」 

「? いや、別に。クラスメイトの一人だ」

「…………そうですか」


 こちらを見ないままに返事をしたライネス様の言葉に、嘘はなさそう。

 でも、普通ただのクラスメイトがいくら不憫だからって、その婚約者に単身で直談判なんてするものだろうか。


 不安に駆られる私の気持ちが伝わったのか、グロウも私の手のひらの上で落ち着きなく這い回っている。

 そんな姿を見ていたら堪らなくて、私は勇気を出して口を開いた。

 


「…………あのっ。少しだけ、そちらに近づいてもいいですか?」

「いっ……いいわけないだろう!?」

 

 ライネス様は大きな声を出すと慌てて立ち上がり、距離をとるように後ずさった。

 その様子に、胸の奥がすっと冷えていく。


 こうして避けられるのは今に始まったことではないけれど。

 フィオナの言葉──解放してあげてください、という一言が、胸につっかえたまま、鉛のようにずっしりと重さを増していく。


 望まぬ婚約でライネス様を縛り付けているのは、紛れもない事実だ。

 


「わかりました。困らせてしまってすみません。今日はもう、失礼します」 



 私も立ち上がり、ライネス様に背を向ける。

 後ろからライネス様の戸惑うように名を呼ぶ声が追いかけてきたけれど、振り返らなかった。 


 足早に歩を進める私の肩の上で、グロウが慰めるように頭を寄せて、しっかりとしがみついていた。



 

 ◆◆◆




 蟲使いとして、王家からノクターン家への評価は高い。過去に何度か陞爵の話をいただいたこともあるんだとか。

 それを受けなかったのは、爵位が上がって煩わしい仕事が増えるより、蟲と向き合っていたいという我が家の方針ゆえのこと。


 しかし蟲と魔蟲の存在は紙一重。

 気味の悪い蟲と行動を共にするノクターン家は、王家の意に反して他の貴族家から恐れられたり見くびられたり。


 そんな状況で由緒あるエスター公爵家のご子息であるライネス様がノクターン家へ婿入りしてくれれば、我が家を見る目も扱いも多少は変わる。

 政治的な意味でも、私たちの婚約は意味があるもの。

 

 …………けれど。

 

 ライネス様とは七歳で婚約してから、一度もまともな交流ができていない。

 当初から彼の虫嫌いは懸念事項であったけれど、いずれ慣れるのでは……と、周囲は考えていた。

 けれど全くそうはならず、正面から目が合ったことも、ゆっくり落ち着いて話ができたこともない。


 一応プレゼントや手紙のやり取りはしてきた。


 ライネス様はまめな人で、手紙では饒舌だ。

 父である公爵様の影響で、狩りや乗馬に興味や憧れがあるらしい。

 森や草原に虫が出なければ、きっとそんな遊びばかりしていただろう、と綴られていた。

 

  

 対して私といえば。

 幼い頃から、暇さえあれば蟲について記録された資料を読み漁っていた。基本的に部屋にこもりがちな生活をしている。

 たまに外に出るとすれば、森や草原で虫の観察をするくらいか。


 私たちは、何ひとつ趣味が合わないのだ。正反対とも言える。


 


 カフェテリアでの一件の後、フィオナとライネス様の様子に注意を向けるようになって気がついた。

 二人は話題や興味があるものが同じで、相性がいい。


 ライネス様のお父様お気に入りの狩り場は、田舎で山ばかりのシャルモワ男爵領からほど近いらしい。

 また、フィオナは乗馬も嗜んでいる。

 

 ライネス様にとって、フィオナが幼少期を過ごした田舎での生活はとても興味深いようだ。ずいぶんと二人で盛り上がって話し込んでいる様子は、たびたび見かけた。



 たとえライネス様にその気がなくても。

 高位貴族の中でも、特別きらきらしくて高貴な身分の相手──公爵令息と親しくなれたフィオナが舞い上がるのも、無理はないのかもしれない。



 ────そう考えるに至った頃。

 事件は起こった。



「きゃあああ!」


 教室に響いたのは、フィオナの叫び声。

 その場にいた生徒たちの視線が、一斉に彼女に集まる。


 フィオナが怯えるように見つめる先は彼女の机で、その下には小さなイモ虫が何匹も蠢いていた。

 グロウとそっくりの、でもグロウよりはかなり小さな黒いイモ虫たち。

 

 

 教室中の視線が、フィオナの机の下と私の頭の上──グロウを行ったり来たりしている。

 まるで、グロウの仕業だとでも言いたげに。


 フィオナはイモ虫から逃げるようにして、「助けて!」とライネス様に駆け寄っていた。

 虫嫌いのライネス様に助けを求めるなんて、完全に人選ミスとしか言いようがない。


 ライネス様はイモ虫たちを視界に入れないように視線をさまよわせている。青ざめた顔をして、それでも咄嗟にフィオナを背中に庇った。

 そのさり気ない仕草に、胸がざわっとする。


 

 ライネス様の後ろから、フィオナが声をあげた。


「リリス様、ひどいです……! 私がライネス様と仲良くしてるからって、こんな嫌がらせをするなんて!」

「……私は……何もしていません」

「嘘よ! こんなこと、他に誰がするっていうんですか!?」


 フィオナの言葉に同意するような囁きが、いくつも漏れ聞こえてくる。

 

 注がれる冷ややかな視線。私とグロウに向けられるたくさんの非難の目に、どうしていいのかわからなくなる。

 ……否定、したのに。


 

 俯くと、所在なさげに床を這うイモ虫たちの姿が目にうつり、自分と重なって見えた。

 

 ……かわいそうに。こんな場所に連れて来られて。


 

 イモ虫たちに歩み寄ろうと足を踏み出すと、ライネス様が慌てたように叫んだ。 


「リリス! 下がれ、危ないだろう!」

「平気です。この中に毒虫や魔蟲はいません」

「一目見ただけでわかるなんておかしいわ! やっぱりリリス様の仕業なんですねっ」


 フィオナがそう口を挟んだけれど、別におかしくない。

 私は蟲使い。蟲や魔蟲、そして虫にも詳しいのだ。簡単に見分けくらいつく。


 

 ふいにライネス様の後ろから顔を覗かせるフィオナと目が合うと、明らかな優越の色が見てとれた。

 視線が私に集まっているのをいいことに、虫に怯えていた様子もなりを潜め、ひっそりと口角を上げている。



 ────ああ、そうか。この虫は、フィオナの自作自演。

 私を悪者に仕立て上げ、更にはライネス様の関心を引くためにやったのだ。

 そんなことに巻き込まれた虫たちが哀れだ。


  

 その場にしゃがみこみ、イモ虫たちを拾い集める。

 その途端に、ひぃっ、うわぁっ、という小さな悲鳴があちこちから聞こえてきた。

 

「信じられない……。素手で触ってる……」

「気持ち悪い……!」



 雑音は無視し、全てのイモ虫を手のひらに乗せ教室を出ようとすると、すれ違いざまに再びライネス様が声をかけてきた。


「リリス! どこへ行くんだ。その虫、どうするつもりだ?」

「かわいそうなので、外に逃がしてあげます。中庭なら緑も多いですし」



 ライネス様はまだ何か言いたげだったけれど、イモ虫たちを見せつけるように手を広げると、うっと小さく呻いて目を逸らしながら後ずさった。



 ライネス様も皆と同じ。

 虫を気持ち悪いと思っていることも、きっと私を疑っていることも。

 

 さっきだって婚約者として、私を庇ってくれることはなかった。


 交流がままならないのは虫嫌いのせいだと、だから仕方がないのだと自分の気持ちを誤魔化してきたけれど。

 見ないふりをしてきた私たちの間にある深い深い溝が、はっきりと姿を現したように感じた。




 ◆◆◆




 それ以来、もともと若干浮き気味だった私は、ますます孤立を深めて。

 時折フィオナの周囲に小さな虫が仕込まれることも続いた。

 そのたびに私は虫を平然と外に逃がすのだけれど、その様子は周囲からすれば、私の仕業だと証明しているようなものらしい。


 幼虫を使役する、蟲使いとしては未熟な私は、分不相応な婚約者と仲が良い女生徒に嫉妬し、虫を使った稚拙で陰険な嫌がらせに走ることしかできないのだと──そう思われているのだ。



 婚約者同士の交流として、ライネス様と昼食後にカフェテリアでお茶の時間を共に過ごす、という日課も続けてはいたけれど、私に向けられる周囲からの視線は鋭いし、ライネス様に同情するような囁き声も耳に届くし、とても居心地が悪い。

 それはライネス様も同様らしくて、今まで以上にぎこちない空気が漂う時間を過ごしていた。


 そのうちになんとなくお茶の時間が短くなって。

 そうしたら立て続けに、昼休みにフィオナの周りで虫が出ることが数日重なって、虫を逃がしていたらお茶の時間もなくなって。


 気づけばライネス様に一切近寄らないまま、三日ほど過ぎてしまった。

 そこでようやく、私は焦った。

 ライネス様ときちんと会わなければならない──と。


 

 同じクラスで婚約者であるというのにおかしな話でだけれど、その日朝一番、私は初めて登校してきたライネス様に教室で声をかけた。


  

「ライネス様、ちょっとよろしいですか。大切なお話があります」 


 人もまばらな教室が静まり返る。

 皆が私たちに注目し、聞き耳を立てていた。 


「話って……今からか? 昼休みでもいいんじゃないか?」

「駄目です。今すぐです」

「大切な話なら尚更、授業開始前の今じゃない方が……。リリス、グロウはどうした?」


 訝しげな様子だったライネス様がはっとしたようにそう言って、私をまっすぐに見た。

 婚約して以来初めて、目が合う。

 そのことに、私以上にライネス様の方が驚いたように目を見開いている。


 

 私はゆっくりと、抱えていた手を広げた。

 私の両手のひらの上で、グロウはぴくりとも動かずぐったりと横たわっている。


 グロウを視界に捉えて、ライネス様がさっと視線をそらせた。けれどその目はいつもの嫌悪や不快よりも、困惑の色が濃い。



 グロウの様子を見れば、ライネス様だって状況を理解したはずだ。

 これは婚約者同士のちょっとしたすれ違い、なんて単純な話ではない。


 そうわかっているはずなのに、ライネス様はそれでも眉根を寄せて床を見つめている。こちらに視線を戻そうともしない。

 このままでは、取り返しのつかないことになってしまう。 

 私の目からは知らずに涙が零れていた。


 溢れ出す感情をそのまま口にする。

 

「ライネス様、お願いです。一度でいいので、抱いてください」


 

 教室の空気が一変して、生徒たちがぴしりと固まった。

 そして当のライネス様はというと、顔面を蒼白とさせていた。

 

「ちょっ……いや、待て、リリス!」

「ライネス様のお気持ちは十分承知しています。その上で心苦しいですが、どうかお願いします。一度だけでもちゃんと抱かれて注がれたなら、後は多少捨て置かれてもきっと平気です。だからどうか……」


 私の必死の訴えにも、ライネス様は顔を手のひらで覆って俯いている。震えながら小さく呟いた。 


「…………心の準備が…………」


「なっ……! なんて破廉恥な! リリス様、あなたそれでも伯爵令嬢ですか!?」


 

 聞き覚えのある甲高い声が割って入った。

 見れば、教室の入り口に立ったフィオナが真っ赤になってこちらを睨んでいる。

 


「…………破廉恥?」

「違う! リリス、君は言葉が足りない。だからいつも誤解されて……っ、!」


 首を傾げる私にライネス様が言い募ろうとして、言葉を失った。 



 魔力が急激に濁る感覚がする。息をするのもためらうほど重苦しく忌まわしい気配が漏れ出す。

 私の手のひらの上──グロウからだ。


 他の生徒たちは気づいていない。

 私とライネス様だけが、恐ろしい予感を感じ取って息を呑んだ。



「逃げて!」



 私が叫ぶと同時に、グロウの体がぐにゃりと歪んだ。陽炎のように儚くゆらゆらと揺れながら、次第に大きく、はっきりと姿を現していく。


 グロウは体長一メートルほどの大きさになり、机や椅子をなぎ倒しながら大人二人分もある太い体をうねらせた。赤く濁った目で、ライネス様を見据えている。



「魔蟲だ!!」


 誰かが叫んで、教室中に悲鳴が飛び交う。

 生徒たちが一斉に逃げ出す中で、グロウに睨まれたライネス様は、傍目に見てもはっきりとわかるくらいに体を震わせ、今にも倒れそうなほど顔色を悪くして浅い呼吸を繰り返している。



 ────10年前の、あの時と同じ。


 魔蟲化しかけたグロウが、ライネス様を喰らおうと大きな口を開けた。 


 

「ライネス様! 逃げてください!」


 

 大声をあげて、ライネス様を庇うようにグロウに飛びつく。

 

「グロウ、落ち着いて! 大丈夫だから……!」


 グロウからライネス様の姿が見えないように、覆いかぶさって背を撫でる。

 

 私は蟲使い。蟲の扱い方は熟知している。

 グロウを魔蟲になんてさせない、絶対に。



 ────けれど。

 10年前と同じようにはいかない。グロウが半身を激しく仰け反らせ、振り払われた私は近くの机に体を打ち付けた。

 強い痛みが走るけれど、我慢して足を踏ん張る。


 

 慢性的な魔力不足。更にはここ数日、グロウは主から引き離されていた。

 魔蟲化するのも当然だ。


 常にグロウを気にかけ、何よりも優先すべきだったのに。

 …………私のせいだ。


 

 グロウの狙いはライネス様。しかしライネス様は恐怖のあまり、身動きもできずにいる。

 次々と生徒たちが飛び出していく教室の入り口前で、呆然と立ち尽くすフィオナと目が合った。

 


「フィオナ様! ライネス様を連れて逃げて!」

 

 私の叫び声にフィオナは我に返ったように走り出し、ライネス様のそばまで寄るとその腕を引いた。


「ライネス様! 逃げましょう! ここは蟲使いに任せて……」 


 

 フィオナと同時に、私も動いた。

 グロウに再び駆け寄り、太い体にしがみつく。そしてありったけの魔力をグロウに注いだ。

 たとえ()()()()()私の魔力では無駄だとわかっていても、何もせずにはいられない。


 

 至近距離で、グロウががばりと口を開いた。

 その中は、途方もない真っ暗闇が広がっている


 ────喰われる。



「グロウ! やめろ!」


 

 目の端に、フィオナを乱暴に振り払うライネス様の姿が見えた。


「おまえは俺の蟲だろう! 言うことを聞け! リリスを襲うな!」 


 そう怒鳴るなり、大股で私の目の前までやって来ると、私の体ごとグロウをがばりと抱きしめた。


 驚きすぎて息が止まった。


 

 まさか、あの虫嫌いのライネス様が。

 小さなグロウにも怯えていたのに。

 10年前襲われて死にかけたあの時のように、グロウは魔蟲化しかけている。

 よりにもよって、そんなグロウにライネス様が触れるだなんて。



「らっ……ライネス様……!」

「おぇっ…………う、ぐぅぅ……!」 


 顔を真っ青にして嘔吐きながら、それでもライネス様が必死にグロウへと魔力を分け与えている。


 ライネス様がグロウをその胸に()()()、魔力を()()()から。

 

 

 グロウの体がみるみる元通りの大きさに戻っていく。濁った魔力が澄んで、瞳も妖しい光を失う。

 

 けれどほっとしたのも束の間、体をぴんと伸ばしたまま動かなくなってしまった。

 

 ライネス様が不安げに呟いた。


「リリス、これは……。もしかして、グロウは死ぬのか? 俺がずっと避け続けて、魔力を与えなかったから……」

「違います。見てください」



 グロウの背中がぱっくりと割れた。

 その中から覗くのは、黒い羽だ。黄色と紫の魅惑的な模様が描かれている。

 妖しく美しい羽をゆっくりと広げ、羽化したグロウが姿を現した。


 ふわりと宙へ飛び上がると優雅に羽ばたき、そのたびにきらきらと光る黄金の鱗粉が舞い落ちてくる。粉雪が舞うように金色の光が降り注ぎ、教室内が淡く照らされる。

 その中心で、グロウがひらりひらりと羽ばたいている。


 

 幻想的な光景に言葉を失って見入っていると、うっとりしたような声が聞こえてきた。


「美しい……。なんて綺麗な蝶なの……!」 


 いつの間にか私たち以外誰もいなくなった教室内で、フィオナが恍惚とした表情でグロウを見つめている。

 その様子がちょっと尋常ではなくて、他のものなんて何も目に入っていないようで、慌ててライネス様を振り仰ぐ。

 しかしフィオナの異変に気づいた様子はない。 私の視線に気がついて、爽やかな笑みを見せた。


「確かに綺麗だな。あの姿なら、もう怖くない」

「えっ……本当ですか?」


 ライネス様の予想外の言葉に、フィオナのことなど頭から吹っ飛んだ。

 だってあのライネス様が、だ。何よりも蟲を恐れていたのに、グロウを綺麗とか言っている。

 

 

「ああ。君も知っての通り、グロウに殺されかけたトラウマで、あのイモ虫の姿がどうしても受け入れられなくて……。あの時の恐怖が蘇ってきて、恐ろしくてたまらなかった。でも、もう大丈夫だ。リリス、今まで俺のかわりにずっとグロウを育ててくれて、ありがとう」

「……私の方こそ……。これまで私にグロウを預けてくださって、私を蟲使いにしてくださって、ありがとうございました」


 

 微笑み合ってお礼を言い合って、なんだか胸がじんと熱くなった。

 こんな日が来るなんて、今までは考えられなかった。

 


 

 私とライネス様の秘密。


 私はノクターン伯爵家の一人娘でありながら、蟲の卵を持たずに生まれてきた。蟲使いとしては失格。

 その資格を得ることができなかった私だけれど、蟲や虫を愛する気持ちは人一倍強かった。

 父はそんな私の思いを尊重して、蟲使いとしての教育を施してくれた。



 対して公爵家待望の第一子であるライネス様は、卵を持って生まれてきてしまった。

 立場的に、やすやすとノクターン家に養子に出すわけにもいかない。卵のことは秘匿され、嫡男として大切に育てられた。


 公爵家は蟲の扱い方を知らないので、ライネス様の卵は孵化が遅れた。既に幼児だったライネス様は、虫が苦手な子どもに成長していて……。

 イモ虫の姿をしたグロウを嫌がり、あまり近づこうとしなかった。


 そうこうしているうちに数年が経ち、ライネス様にも弟が二人生まれ、そしてようやく公爵家は我がノクターン伯爵家に蟲の存在を明かし、相談を持ちかけた。



 両家で話し合いが行われている間、同い年ということもあり、私はライネス様の相手を任された。

 ノクターン伯爵家の庭園で、私たちは初めて顔を合わせたのだ。

 

 植木はミリ単位の調整で切り揃えられ、色とりどりの花が咲き乱れる庭園の中心にあるガゼボ。美しい庭を眺めるでもなく、たくさんの茶菓子やお茶を楽しむでもなく、ライネス様はたまに飛んでくる蝶や羽虫にいちいち顔をしかめ、酷く不機嫌だった。


 困り果てた私は、テーブルの上で窮屈な籠に入れられじっとしている小さなイモ虫ばかり見ていた。可愛かったから。 


「可愛らしい蟲ですね。名前はなんですか? どうして籠に入れているんですか? 触ってみてもいいですか?」

「名前なんてない。そんなに気に入ったなら、君にあげるよ」

 

 

 矢継ぎ早に次々と質問を投げかける私に苛立ったライネス様が乱暴に籠をこちらへ押し付けて、その瞬間に彼は蟲からの信頼を完全に失った。


 ずっとグロウは魔力不足だったのだ。ライネス様が放置し、魔力を与えなかったから。

 ライネス様の一言は、最後の一押しだった。

  


 グロウは魔蟲化しかけ、ライネス様を襲った。

 それを私が鎮めたのだ。

 危ないところだった。あの時ライネス様は、もう体半分飲み込まれていた。



 蟲が主以外に従うことも、魔蟲化を止めることも、通常なら考えられないことだ。

 私がそれをやってしまったから。その直後からライネス様がグロウに怯えて、視界に入れることもままならなくなったから。

 グロウは私に預けられた。

 

 しかしもちろん蟲の餌である魔力を与えられるのは、主であるライネス様だけ。

 魔蟲化を防ぐためには、毎日少しの時間だけでもグロウの近くで過ごす必要があった。

 いくらグロウが私に懐くという異常事態が起こっていても、ライネス様はそのまま知らんぷりとはいかないのだ。

  


 結局ノクターン伯爵家はライネス様を養子としてではなく、婿入りという形で受け入れることとなった。

 養子にするには、ライネス様はあまりに身分が高すぎる。

 婿入りであれば政略的にもノクターン伯爵家に利があるし、何より本来跡継ぎである私は蟲を持たない。


 蟲使い失格の私と、蟲の主失格のライネス様。


 私は蟲を手に入れて、彼は命を守られる。

 互いに都合のいい婚約だった。それだけだ。


 グロウが成虫となり、ライネス様がグロウを恐れなくなったなら────。

 私たちの関係も、変わってしまうのは当然だ。




 しばらく舞い踊っていたグロウがふわりと方向転換すると、私の肩で羽を休めた。いつもの定位置だ。


 普段向かい合っていた距離感よりも、少しだけ近くでライネス様が私とグロウを見つめている。もう、目を逸らしたりしない。

 そのことにほっとしていると、そんな気持ちを見透かしたのか、ライネス様が申し訳なさそうに眉尻を下げた。


「リリス……。本当にすまなかった。君には、長年とても失礼な態度で接してしまった」

「いいんです。グロウと一緒にいられて、私は幸せでした」


 グロウを指先に乗せて、ライネス様へと差し出した。

 ライネス様はわずかに戸惑う様子を見せたけれど、恐る恐る手を伸ばす。それに応えるように、グロウが私の指からライネス様の指へとそっと移った。 



 イモ虫のグロウは可愛かったけれど確かに少しだけ気味が悪くて、教室の隅でひとりぼっちの私にお似合いだっただろう。

 でも今の美しいグロウは、教室の真ん中でクラスメイトと笑い合うライネス様にこそ相応しい。



「グロウをお返しします。婚約については家同士で話し合うことになるでしょうが、私は解消してもらって構いません。あなたの華やかな未来の邪魔を、これ以上したくはないので」


 私の言葉に、ライネス様は目を見開いた。


「どっ……うして! …………いや、すまない……。俺は嫌われても当然のことをしてきた。だがグロウを手放して婚約を解消すれば、君は蟲使いでいられなくなるだろう!」


「そうですね。私は蟲が、グロウが大好きです。ずっと蟲使いでいたいです。でもそれは、ライネス様の犠牲の上にしか成り立ちません。今のライネス様なら、きっとご自身で蟲を使役できるはずです。そうなれば、無理に私と結婚する必要もなくなります」



 エスター公爵家とノクターン伯爵家。

 両家がどんな判断をするかなんてわからない。


 しかしこの婚約は、グロウを私が使役することで成り立っていたものだ。

 無事に羽化したことで、グロウの魔蟲化のリスクはほぼなくなった。ライネス様の命の心配もなくなり、蟲への恐怖心も克服したのだから、あえて私との婚約を継続する必要もない。


 蟲を使役する公爵家の長男。

 華々しい肩書きを持つライネス様に、蟲使い失格の私は釣り合わない。

 もう、ライネス様を縛りつけておくことはしたくない。 


 

「……リリス……。あんなに大切に育ててきたグロウを手放すなんて、そんなに俺のことが嫌いだったのか……」


「ライネス様に対して個人的に思うところは特にありません。主として、もう少しだけグロウに寄り添って欲しいとは思ってましたけど。ライネス様の方こそ、私のことが嫌いだったんですよね?」


「嫌いなはずないだろう! 10年前君に命を救われて以来、俺はずっとリリスのことが好きだった!」



 有り得ない言葉が聞こえた気がして、ぱちぱちと目を瞬く。

 とてもにわかには信じ難い。幻聴だろうか。


 

「……えっと、今なんて……?」


「俺はあんな態度だったから、ずっとリリスには嫌われていると思っていた。俺は命を助けられたのに、グロウがいつまでも幼虫のままだから君は周囲から侮られるし……。俺のせいで、君には迷惑をかけてばかりだった。だからとてもこの気持ちを口にすることができなかった。でも」



 ライネス様の瞳がまっすぐに私を射抜く。


「君が好きだ」


 もう一度はっきりとそう言われて、でもやっぱりなんだか現実味がない。

 だっててっきり嫌われているものとばかり思っていたのだ。それにライネス様には、もっと明るくて趣味や話が合う……フィオナのような派手なタイプがお似合いだと思っている。

 

 困り果てて何も答えられない私に、ライネス様は言葉を重ねる。

 

「俺がグロウに触れられたのだって、リリスのおかげだ。君を失いたくなかったから。リリスが死ぬことを想像したら、グロウへの恐怖も及ばなかった。君のために必死で、無我夢中だったんだ」



 私のために……。


 10年前、グロウの口から足を掴んで無理矢理引きずり出してあげたライネス様は、涙と鼻水とグロウの体液でぐちゃぐちゃだった。

 あの時グロウを抱きしめながらもう大丈夫、と声をかけた私のことを、化け物でも見るような目で見ていたのに。 

 

 

「確かに俺は虫が苦手だ。ノクターン伯爵家に婿入りすれば、蟲と関わらずに生きることは不可能だろう。それでも、リリス以外と結婚するつもりはない。君のために努力する。グロウを見ても平気になったんだ。他の蟲だって、きっと慣れる。だからどうか、婚約を解消するなんて言わないでくれ」


「……それは……私にとっては、願ってもないことですけど、でも……」


 言い淀んだ私の肩に、ライネス様の手を離れたグロウがふわりと舞い降りた。

 ここが自分の場所だと言いたげに、こちらを覗き込んでゆっくりと羽を広げる。


 

「ほら。グロウも、君がいいと言っている。グロウは君の蟲だ」

 


 ────私の蟲。


 それはどんな告白よりも嬉しくて、目にじわりと涙が滲んだ。


 10年間、ずっとグロウと一緒だった。

 餌となる魔力を与えられなくても、グロウは私のそばにいてくれた。

 何よりも大切な、大好きな蟲。

 グロウがこれからも私と共にいてくれるのなら、それに勝る喜びはない。


「ライネス様……。これからも、私にグロウを預けてくださいますか……?」

「もちろんだ。俺たちは結婚して、一生一緒だ」

「一生グロウと一緒……! 嬉しい! グロウ、大好き!」


 グロウの羽にそっと頬ずりをする。

 ふる、と揺れた羽が、私の想いに応えてくれている気がする。


「うん……。いや、俺は?」

「もちろん感謝していますよ。ライネス様のおかげで、グロウと一緒にいられるんですから」


 そう言って笑うと、ライネス様はなんだか不満そうな困ったような、微妙な表情をしている。


 グロウがライネス様を慰めるように、私の喜びに共鳴するように、私たちの間をひらひらと飛び回る。



 直後、騒ぎを聞きつけた教師たちが駆けつけて、途端に教室は騒がしさを取り戻したのだった。 

 


 ◆◆◆



 その後。

 両家の話し合いの結果、当然のように婚約は継続。グロウの本当の主についても、明かさないことに決まった。

 もともとそういう話だったし、今更公にする特別な理由もない、と。


 つまり、何もかもが今まで通り。

 そうは言っても、私の周囲の環境は激変した。


 あの時様子のおかしかったフィオナが、驚いたことに皆の前で虫による嫌がらせは自作自演だったと告白し、私へ謝罪してきたのだ。

 真実が発覚し、更にはグロウが美しい姿に変化したこともあり、私への悪印象はすっかり払拭されたらしい。


 悪口を囁かれることがなくなったのは嬉しいけれど、手のひらを返したようにクラスメイトから妙に親しげに話しかけられたりすると、ちょっとどうしていいのかわからない。

 一人で過ごすことが当たり前だったので、対応に困るというのが本音。


 グロウの姿がどうであろうと、私自身が変わったわけではないのだから。



 それに、フィオナの行動には理由があって。

 グロウの鱗粉には、陶酔と魅了の効果があることがわかったのだ。

 これはちょっと大変なことで、王家からグロウの能力を許可なく使用することは一切禁止とされた。一方で状況によってはとても有効な手段になり得るため、重大な機密事項として扱われることとなっている。


 ちなみに魅了の効果は一時的なもので、我に返ったフィオナはなんだかとっても気まずげにしていた。私も気まずい。 

 ライネス様と私が普通に話せるようになって、フィオナはもう何も言ってこない。案外純粋にライネス様を心配していたのかも?

 

 これで私のコミュ力が高ければ、ちゃんと謝ってもらえたことだし、となんだかんだフィオナと友人に……なんて展開も有り得たのかもしれないけれど、私には無理すぎた。

 

 ライネス様が言うには、自ら白状した潔さから、フィオナもクラスメイトから嫌われたり避けられたりということもないので、もう気にすることはない、だとか。

 だから私も深く考えるのはやめにした。

 情けないことに、やっぱり人と話すのはあんまり得意じゃないので、これが私の精一杯だ。


  


 ────そして。


 最も変わったことといえば、ライネス様との距離感だったりする。

 なんというか、普通の婚約者同士として、まともな交流がようやく始まったような……。

 

 当たり前といえば当たり前かもしれないけど、私はそのことで結構助かっていたりする。グロウの羽化後、私が誰かに話しかけられて返事に困っていると、ライネス様が決まって間に入って助けてくれるからだ。

 私もいつまでも社交下手なままではいけないとわかっているけど、正直とっても有難い。

 


 そんなことを思いながら、カフェテリアで向かいに座るライネス様をぼんやり見つめていると、爽やかな笑みが返ってきた。眩しい。


 

「どうしたんだ? ぼーっとして」

 

「いえ、えっと……。なんだか最近、ライネス様に助けてもらってばかりな気がして……。人脈作りとか苦手なのも、貴族としてどうかと思うんですけど……。いろいろ、ありがとうございます」


「大したことはしていない。互いに不得意なことは補い合えばいい。それに俺の方こそ、ずっとリリスに助けてもらっていたんだ。ようやくその恩を返すことができているなら、嬉しいよ」


「恩だなんてとんでもないです。私はグロウと一緒にいられるなら、それだけで十分ですから」


「……やっぱり君は、俺より何より、グロウが一番なんだな」


 ライネス様が当たり前のことを残念そうに呟いて、私の頭に視線を向ける。そこにはグロウが美しい羽を広げて止まっている。気持ち悪いと言われていたグロウも、今ではどんなに美しい宝石があしらわれた高級品よりも素敵な髪飾りのようだと褒められる。


 ライネス様がうっとりと目を細めた。


「君の髪を彩るのが美しい蝶で良かった。もしもグロウが蜘蛛だったりしたら、俺は今でも君の姿をこの目に映すことが難しかったかもしれない」



 私は別にグロウが蜘蛛でも甲虫でも羽虫でも構わない。

 

 そもそもライネス様は大きな勘違いをしている。それを正すため、口を開く。


「グロウは蝶ではありません。蛾です」



 ライネス様が手にしていたティーカップを落とした。かしゃんと甲高い音が響く。


「………………蛾!? まさか……! こんなに美しいのにか!?」

「蝶と蛾の違いに、羽の美しさは関係ありません。ほら、よく見てください。触覚の先端が細くなっているでしょう。止まっている時も、このように羽を広げているのが蛾の特徴です。それに腹部も蝶のように細くない。ぷっくりと太くて可愛らしいですね」



 グロウがよく見えるよう、ライネス様の目の前に差し出して一生懸命説明する。

 至近距離でグロウと目が合ったライネス様は、たちまち顔色を悪くした。



「……うっ……。駄目だ、近くで見るとやっぱり物凄く気持ち悪い……!!」

「なんて酷いことを言うんですか!」



 グロウが拗ねたように身を翻し、私の頭へひらりと飛んで戻っていく。ここが定位置だと言うように。


  

 ────グロウは、私の蟲。

 今までもこれからも、グロウがそばにいてくれるから、私は蟲使いでいられるのだ。


  

 失礼な婚約者を睨みつけて、謝る彼に苦笑いをする。

 私は少しずつ、ライネス様と本音で話ができるようになってきている。

 お互いの気持ちをきちんと伝え合うことができるならば、きっとこの先いい関係を築いていける。

 10年の婚約期間を経て、今になってようやくそう思えるようになった。


 

 私の頭上で、今日もグロウが見守っていてくれるから。

 婚約者と向かい合い、穏やかな気持ちでティーカップに手を伸ばした。



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