第8話 精霊の声
畑が小さな緑の海となってゆく。朝露に濡れた葉が光を反射し、風が渡るたびに細い音がする。その音を聞きながら、エリナは腰に手を当てて畝を見下ろした。ここに種を蒔いたのはほんの数日だったが、苗たちは思いの外に元気に育っている。王都で学んだ形式的な礼作法や舞踏とは違う、土と生命の律動がここにはあった。
「見て、ミア。葉がこんなに大きくなっている」
「本当です。土が良いのでしょうか、それとも……」
ミアの言葉は途中で消えた。畑の向こう、木立の影の端に明滅するようなものが見えたのだ。そこには小さく淡い光の粒が集まっていた。まるで夜の蛍が昼に光を放ったかのように、緑の芽の周りをふわりと漂っている。エリナは息を止めて、それを眺める。恐怖はなかった。むしろ自然の歓迎のように感じられ、胸の奥が静かに震えた。光は瞬き、集団で舞い、葉の縁に触れるとその部分が薄く瞬く。
日が傾きかけると、光の粒はより多く姿を見せ、夜の帳が下りる前に一斉に畑の周囲を取り囲んだ。光は音を伴わないが、まるで音楽のような秩序を持って動き、葉の縁に触れると弱い熱を伝える。それはまるで苗のために毛布をかけるかのように丁寧な所作で、エリナはその様子を涙ぐむほどの愛おしさで見守った。
夜が深くなると精霊たちは更に活動的になり、低い歌のような囁きを放った。むせ返るような言葉ではない。振動や和音のような何かが空気を震わせ、エリナの内側に触れてくる。その感覚は子供の頃に感じた庭の匂いや祖母の膝元にいた安堵に似ていて、彼女の心を深く包み込んだ。
エリナは目を閉じ、精霊の歌を受け止めた。記憶の断片がつながっていく。小さな芽を見守った日々、薬草の本をめくった夜、誰にも知られない小さな手仕事。そうした断片が綺麗に一つに融合していく感覚がした。胸の奥が温かくなる。精霊の一体がそっと近づき、肩先を撫でるように光を寄せた。温もりが指先から伝わり、エリナは自然と目を潤ませた。
翌朝、村の人々が畑の周りに集まり始めた。噂は広がっていたのだ。子どもたちは好奇心で胸を躍らせ、年寄りは遠目で静かに頷く。エリナは自分が村に溶け込んでいくのを感じた。畑仕事は雑務だけれど、それが誰かの日常にとっての糧になることの尊さを知らされた。
その日、森の奥で小さな不穏な気配が走った。動物たちが落ち着きを失い、夜空に遠吠えのような音が響く。精霊たちの光が鋭く震え、畑の周囲の空気が引き締まる。エリナはただちに畑の囲いを点検し、村の若者たちと協力して夜の見張りを強化した。彼女は王都で得た礼節と、森で得た直感を両方用いて、人々を指導した。
夜の見張りは静かに続き、やがて動物たちは遠ざかった。精霊たちは再び優しく光を返し、畑は守られた。エリナはこれが日常の一部であり、喜びと危機が混ざり合う場所であることを理解する。自分がこの森で生きることは、単に静かな暮らしを求める以上に、何かを守る責務を意味しているのだ。
日々の繰り返しの中で、エリナは畑の手入れを学び、苗の成長に合わせた剪定や追肥の仕方を身につけていった。ミアと一緒に、種の発芽率を高めるための簡単な工夫を試し、土に栄養を与えるために小さな堆肥槽を作った。村人たちも手伝い、共同作業は互いの信頼を深める。
ある夜、星空を見上げながらエリナは思った。ここには目に見えない歴史があり、人と自然が互いに手を貸して生きることの知恵がたくさん詰まっている。王都の光は確かに美しかったが、ここには別の種類の光がある。風に乗って来る木々の匂い、土の湿り気、子どもたちの笑い声――それらが彼女の心を満たしていた。
こうして、精霊の声は小さな村の暮らしに溶け込み、エリナはその中心に居場所を見つけ始める。だが同時に、外部の世界は鈍い耳をそばだて、この変化を見逃さないでいた。噂は徐々に広がり、いつか王都の耳に届くであろう。エリナは未来の波風を完全に予見することはできなかったが、今を守る決意だけは固めていた。